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デフ・ヴォイス:「ただの本物」益岡さんと、荒井の通訳技能を見せる

12年もの間「鬼が笑う」と思いながらもずっと待ち望んできた「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」がついにドラマ化され、先週12月16日に前編が放送されました。今日12月23日には後編が放映されます。原作本を読むのを強くお勧めしています。一応前編までの情報で書いてみます。

「デフ・ヴォイス」という原作小説は、「ろう文化」の記述に準拠して練り上げられたミステリー小説で、作家・丸山正樹の学究肌なところが発揮されたすごい作品です。この作品がすごいのは、「ろう文化」について書かれてきたことを忠実に作品内でモチーフに使いつつ、ミステリー仕立てにしてしまったところです。ご都合主義の改変がない。

ご都合主義の改変というのは、去年流行したドラマSilentで、主人公の中途失聴者・想くんが、「中途失聴者なのに、声ではしゃべらず、なぜか日本手話を使うが、その言語コミュニティとは特に縁が無い」というややこしい孤独設定になっていて、「中途失聴者には確かに多様なあり方があるが、物語をよりドラマチックにするための設定ぽいな」と思ってたら、取材協力機関に設定を無理矢理作ってもらっていた、という裏話がありました。「ご都合主義」についてはまた稿を改めるとして。

手話通訳士・手話通訳者、独占資格でないための悲劇

草彅剛さん演じる荒井尚人は「手話通訳士」。ドラマの中で手話通訳士試験の映像が映りましたが、音声を聞いて手話に訳出するシーンでしたね。箱の中に入れられて「競馬のスタートみたい」とXで見かけて爆笑しました。

実は手話通訳者には、「通訳士」資格を持っていない人もいます。「手話通訳士」は厚生労働大臣認定の資格試験合格者を指します。これは、年に1回、全国5都市のみで試験が行われており、合格率は2〜20%(変動しすぎ(..;))という、難関(?)試験です。それ以外にも、全国統一手話通訳者試験というのがあり、自治体単位で手話通訳活動ができる人を認定しています。

地域での手話通訳は、通訳士資格がなくても、統一試験のほうで自治体がよしと評価すればできる仕事も多く、「通訳士」でないとできない仕事は政見放送くらいです。だから荒井は、資格を取るずっと前に警察内部で「手話通訳」として署名捺印するような仕事をしたわけです。

これは、養成の仕組みが変遷を遂げていて、すでに仕事をしている人がいるからなのですが、某ST資格みたいに「移行措置は何年まで、それ以降はこの資格を持っていないと通訳の仕事に従事できません」とかになっていません。

そもそも、手話通訳士試験は、かつて3都市(東京、大阪、九州)、現在も宮城、埼玉、東京、大阪、福岡という大都市でしか実施されておらず、これ以外の地方から受験するには、交通費もかかるし、養成の仕組み自体も地域によって差があるのです。そしてそれを取らないと仕事ができないわけでもない地域も多く、取ったからといって給料が倍になったりもしません。

ちなみにアメリカの手話通訳者は、資格が更新制で、資格がない・更新されていないと、どんなに技能が高くても医療や司法などの通訳をすると法律違反になると聞きました。こうなってくると家族、まして子どもが医療機関で通訳するなんてもってのほか。家族でも資格が切れてたら本当は通訳しては違法行為なんだよ、と私のアメリカの手話言語学のメンター(本人は聴者、妻がろう者)が言っていました。

私が手話言語学を学んだアルバカーキの救急病院には昼間の通訳者だけでなく、夜間オンコール待機の手話通訳者が月単位で契約されていて、結構給料がいいので、お金がピンチのときには割のいい仕事になるそうです(運が悪いと毎晩呼ばれたりする可能性がありそうですが)。病院側が「きちんと伝える義務」の一環として通訳サービスを提供しているわけです。その救急病院に行ったら、30言語以上の電話通訳が無料で利用できると案内がありました。(この辺はアメリカは州ごとに制度が違ったりするのでアメリカ全土でこうかはわからないけど)

こういう制度があれば、父親の癌と余命の告知を10歳の少年コーダが母親に伝えるみたいな悲劇はなくなるはずです。

日本での手話通訳は、元々ボランティア活動からはじまっています。今でもボランティアの延長で、地域で行われている手話講習会などは受講料が無料のところが多く、多くは有業者がキャリアアップに受講するみたいな感じでなく、平日昼間に開講されているところが多いようです(興味を持った方は市報などを確認してみてください)。

「懐かしい手話」のダブルミーニング

荒井が最初の依頼者として「益岡さん」というろう者の通訳をしますが、この益岡さん、山岸信治さんというろう者が演じています。配役ではなく、出演者だけが発表になったときに、山岸さんのお名前を見て「山岸さん!そりゃもう益岡さんしか考えられない」と思っていたら、ちゃんと当たってました。

ドラマでは、「あんた、懐かしい手話を使うな」という台詞を「あなた 手話 懐かしい いくつか なぜ」と言っていました。このシーンは「どーもNHK」や「ろうなん!」の舞台裏でも出ていて、キーとなるシーンです。

これ、山岸さんが日本語の台詞をそのように訳したのか、手話監修者が訳したのかわかりませんが、語彙の話をしているようですね。数えてるから。でも、ここで話される内容で「荒井は日本語対応手話ではなく日本手話が使えるよい通訳者」ということも示されます。(日本手話と対応手話については一応ここに去年書いた。「手話の種類」を参照のこと。

コーダは、その生育歴から、子ども時代に親と会話することで自然に手話を習得する子もいます。彼らは大人になってから、ろう者コミュニティに所属して手話をずっと使っていく人もいれば、ろう者コミュニティと距離を置いて聴者の世界で生きている人など様々です。そもそも親が自分には音声日本語で話しかけていたので、親はろう者コミュニティに属しているが自分は手話ができない、という人もいるし、思春期になって手話をしなくなったとか、いろいろいます。コーダの言語については他にいろいろ本があるのでまた紹介します。

さて荒井尚人(草彅さん)は、40歳まで手話通訳になろうとも思わなかったし、青年期にろう者コミュニティと密接に関わってきたわけではありません。だから同世代のろう者のジャーゴンには不案内で、むしろ、親世代の手話語彙を多く使うと考える方が自然です。荒井は40代で、親が25歳頃の子どもだとすると60代後半の親世代の手話、しかも子ども時代だけ手話のインプットがあるのだから、30年前の言葉遣いをするんです。日本語だって30〜40年前はナウでヤングなことばがあり、「マンモスうれぴー」とか「がびーん」とか言ってたわけで(?)、今の言葉遣いとは大分変わってきています。荒井が久々に手話の世界に「戻って」きて、何やら古めかしいことばを使っていて、ろう者のおじいちゃんに、若いのに……と、にやにやされるのは無理もありません。

ちなみに小説の方を読むと、荒井は古めの語彙を意図的に選んで使っていたと書かれています。が、彼はむしろ新しめの語彙をいつどこで習得する機会があったのだろう? (小説版の荒井、とにかく手話が「すごく」できるのですよね。でもろうの家族には滅多に会っていないことになっている)

益岡さんは、荒井の手話が日本手話であること、「なつかしい」手話を使うことを見て「この子はコーダだな」とすぐに把握してるように思います。あるいは、自分と同年代のろう者について手話を習ったのか…。

コミュニティですでに名が知られてしまっているので最近はないですが、私の手話を見て「あんた、誰に手話習った?」「○○先生じゃない?」「あーわかるわ〜」とろう者に早速当てられていたことを思い出すに、ろう者がそのことばによってその出自を見破るのは、割と簡単なことのように思われます。

益岡さんの情報網

さて、原作はここを、結構説明的に書いていて、事前に益岡さんのプロフィールを通訳派遣事務所で得て、こんな確認をしている。

「七十いくつということは、『口話教育』は──」
「おそらく受けていないでしょうね。『読話』も『発語』もほとんどできないということですから」
  「口話教育」とは、正確には「聴覚口話法」といい、戦後から現在に至るまで、ろう教育の現場で主として使われている教育法だった。実のところ、ろう学校などで「手話」が使われることは最近までほとんどなかった。補聴器を使用して唇の動きを読み取り(読話)、発声練習(発語)で音声日本語を学ぶ「聴覚口話法」が主流であり、手話はむしろ音声日本語獲得の障害になるとして避けられてきたのだ。
  さらに戦前となれば、ろう学校自体がまだ少なかった。益岡ぐらいの世代では、家族や周囲のろう者たちから自然に学ぶ手話でコミュニケーションをはかってきた者が多かったはずだ。  
  荒井はそれらの情報を元に、手話を選択し、さらに年配の人たちがよく使う表現を心がけた。益岡はおそらくその辺りの配慮を喜んでくれたのだろう。
〈次の時も、あなたでお願いするよ〉

『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 (文春文庫)』丸山正樹著https://a.co/hxZppTq

原作でも益岡さんはなんだか朗らかなろう者のおじいちゃんです。初対面の通訳時に「終始えびす顔で」という描写があって、いつもニコニコしてる人なんだなという印象です。小説の方がリアリティがあって、さすがに最初からお茶に誘ったりはしないのですが、通訳依頼を早速リピートしていたり、他のろう者に「良い通訳者がいたぞ」って宣伝しているようで、荒井に指名での依頼が寄せられるようになる模様が描かれていたりします。ろう者のコミュニティが狭く、情報があっという間に回っていくことがここで描かれているのでした。

いつかの益岡の言葉がただの社交辞令でなかったことは、すぐに証明されることになった。あれから数日も経たないうちに、本人から二度目の仕事の依頼がきただけでなく、「益岡さんから聞いた」と名指しで通訳の依頼が次々と来るようになったのだ。
「彼らの社会は狭いですからね。荒井さんの誠実な仕事ぶりが広まったんですよ」
 数度目の依頼の電話で、田淵ははしゃぐような声を出した。
 田淵の言うことは、恐らく半分は当たっている。ろう者の社会は、確かに広くはない。「自分たちと同じ言葉を操れる手話通訳士がいる」という話はまたたく間に伝わったのだろう。

『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 (文春文庫)』丸山正樹著https://a.co/4109xeT

ドラマでは、これを映像表現に落とし込むのに、益岡が「銀行員の勧めをきっぱり断り、一発で荒井を気に入り、早速お茶に誘う」ことで短縮していろいろな暗示をしています。

銀行員の勧めをきっぱり断る=日本手話だけで生活している益岡には情報源がある
+早速お茶に誘う=やたら行動力があり、メンタルが強い
=益岡さんは、ろう者コミュニティのなかで、しっかり情報を得ているし、コミュニティに恵まれて、朗らかに暮らしている

情報源という話でいうと、私の研究のお手伝いをしてくださっていた60代のろう者が車を買い換えたとき、やたらとオプションの話とかを一生懸命に細かく説明してくださって、それがいちいち微に入り細に入りで、びっくりしたことがありました。「私、車持ってないし、詳しく聞いてもわからないんだけどなあ」とぼやいたら、木村晴美先生が「年配のろう者ってのは、そういうもんなんだ」と教えてくれました。

日本語から情報が得にくい代わりに、誰かがちょっと珍しい経験をすると、詳細にコミュニティに情報を回す。それによってコミュニティメンバーの知識レベルが保たれる。特に家や車など、対人で対応しなければならない大きな買い物では、見くびられてだまされたりすることもあるから、大きいお金を使ったら、それをいちいちコミュニティで情報共有するのが「良き態度」なのだと。若い人は日本語を読んでインターネットで情報を得たりしているけれども、日本語が苦手な人たちで、しっかり社会生活を営んでいる人は、こうなのだと。その後もちょいちょい、ろう者の会話を見ていると、車のタイヤの買い換えがどうだとか、マンションの修繕がどうだとか、情報交換しているようでした。

小説の方で、益岡さんが良い通訳がいると情報を回していると書いてあるけど、こういう情報交換の場で益岡さんは「良い通訳をみつけた、40歳くらい」と話し、「荒井といえば、ほら、癌で大分前に亡くなった荒井の息子で聞こえる子がいたじゃない」とか、「兄のほうの息子は今何歳だ」とかどうかすると噂されてるな……というのが今だとわかります。小説の方で3回目の通訳業務でお茶に誘われる頃までには、益岡さんは、荒井が誰の息子で、誰の弟か、知っていた可能性もありますね。

「対応手話は外国語みたいなもんだ」

益岡さんはこんなことを言っていました。「私のような者には、対応手話は外国語みたいなものだ」と。

実際のところ、自分が使っている「日本手話」あるいは「伝統的手話」が、日本語対応手話とどう違うかについては、ちゃんと学んでいる人でなければ、このような発言は出ません。益岡さんのキャラクター設定としては、「ろう者コミュニティのオピニオンリーダー的な立場の人」それも結構賢い人だとされている側の。

(演じた山岸さんってこの辺のエピソードだけ見ると、「ただの本物じゃん」と思ってしまいます。ご本人をモデルにキャラクター設定がなされ、それに従った台詞を言っているかのような。実際には、丸山さんが「ろう文化」周りの文献を読みあさって作り上げたキャラクターなので、山岸さんみたいな人が元ネタの文献で扱われる→小説に採用→元ネタの文献の元ネタの人が演じてるという循環があるのかもしれません)

彼の手話がまごうことなき日本手話であるからこそ、そして彼がナチュラルに気を遣わずに手話を使うと、日本語とかなり違う構造になるので「うわー日本語にどう訳せば…」と頭を抱えることになります。

とはいえ、「ただの本物」のろう者である山岸さんを連れて来て「いつも通りの山岸さん」で益岡さんを演じられているのはすごいことです。手話の撮影をする調査で、「ろう者がろう者のままで日本手話を話している」ところを見せてもらうのには、結構努力しています。調査を始めた頃に、「日本手話の心理言語学的調査の実践と問題」という論文を書きましたが、手話通訳ができる人を入れて、日本手話で話して欲しいといっても、まあだいたい、日本手話は出てきませんでした。まして、ドラマ撮影の現場。大量のスタッフの多くは聴者でしょう。手話関係のスタッフがいるとはいえ、「いつも通り」のような手話をカメラに収められた現場の工夫はそれだけで、賞賛に値するものです。

荒井の通訳技能

荒井の最初の仕事である銀行でのプラン変更の時に益岡さんは、直訳するなら「外国へお金を預ける(投資する)と損することや、為替が変動することが(単語見えない)いやなので」と言ってましたが、これを荒井は見事に大人の日本語に変換していました。「外貨は元本割れや為替リスクがあるので」とか。「元本割れ」いいですね。このシーンは、荒井が良い通訳者であることを示すシーンになっていました。下手な手話通訳者だと、手話の単語だけ追って子どもの日本語になってしまいそうです。手話通訳士荒井は、益岡さんが見くびられないように、日本語の中でも、大人のジャーゴンを選んでいるようです。

手話で概念を表現すると、専門用語がなくて、現象をかみ砕いた表現になっていることがあります。先に挙げた小説の設定を参照すると、益岡さんはちゃんと概念を日本手話では理解していても、それを大人の日本語で筆談するのは難しいのではないでしょうか。もちろん通訳場面において、「この人は日本語のこの専門用語を知らないから、それを通訳者はそのまま表現して、伝わらないことを伝えよう」というパターンもあり得ます。医療場面とかだと、そういうほうが良いこともあるかもしれません。医師にかみ砕いて改めて説明してもらって、それを訳すためです。でもこの場では、用事をつつがなく済ませる目的を果たすときの日本語を選んだ方が良いという判断をしているわけです。そこに通訳者が入ることによって、益岡さんは日本語社会のなかで見くびられずに用事を済ませることができるのです。

この場面は、映像が見えることによって小説ではできなかった「通訳」の技能が示されていて、表現媒体の違い、本物の力だなあ…と感心しました。大多数の視聴者が手話を読み取れないことを考えると、制作側の手話監修者のこだわりをかんじます。そして「かなり」手話ができる荒井を、手話への通訳ではなく、日本語への通訳を見せることによって印象づけることに成功しているのです。(そうかな、そもそも日本手話を、下手な人が単語の並びからだけそのまま訳すと、子どもの日本語みたいになってしまうことを知らない人も多いかもしれない)


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