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silentと日本手話

去年も大人気であっという間に埋まってしまったので、今年は日本語学会でもお世話になったまつーら先生にいち早くお声がけいただき、#言語学な人々 アドベントカレンダーに参加。今日は私の誕生日である。

さて、聞こえないことをテーマに、手話がよく出てくる木曜ドラマ #silent は、今季一番流行ってるドラマだという。来週最終回! 最近、手話を扱うドラマが立て続けに何本か出ている(佐藤健のNetflixドラマ「初恋」とか・・・ 未見)。映画だと盲ろう者の福島先生の母役を小雪が演じている「桜色の風が吹く」もやってる。エンターテインメント界が、障害をタブーではなく題材として使うようになってきているのは、悪いことでは無いと思うが、ドラマチックな展開を求めるが故に、かなり事実と異なる世界観になってしまうのもよくある話だ。silentはここまでのところ、そこまで逆鱗に触れずに、当事者や手話をよく知る関係者に違和感を抱かせつつも、それを伏線としてなんかしらうまく回収してここまでやってきた印象がある。(ただ、聞こえる子が生まれて「優生」って名前がつけられたエピソード、おまえはだめだ。1週間経ってもモヤモヤが回収されない。また別記事を書くかも。→書きました

さて、このドラマ、ここまでの筋書きとしては、主人公が昔の恋人に再会したら中途失聴だった。手話を使うようになっていたので自分も手話を習う。ろう者が出てくる。だけどその昔の恋人は手話のコミュニティにどっぷりというわけでなく、あるひとりのろう者から手話を教わったのだった。

手話の種類

手話には種類があることは、言語学徒の皆さんならボチボチおわかりかと思う。ろう児を集めると自然発生する手話を「都市型手話(urban sign language)」という。

ニカラグア手話の発生 日本語学会2022年秋季大会シンポジウム資料

一方で、音声言語を手指単語を用いて表現する対応手話、手話付きスピーチ(sign supported speech)もある。こちらは話される音声言語の文法に依存している、というか、ある程度その音声を聞いたり、唇を読んだりできるときに、曖昧な語を視覚的に手指でも補ってもらえるとより分かりやすいというような「手話付きコミュニケーション」である。

さて、都市型手話は、その成り立ちから周囲の音声言語からある程度独立した体系性をもっている。何せ子どもたちが勝手に「作る」のだ。ただ、聾学校という性質上、学校教師は聞こえる先生で、手話がわからないとか、わかるようになっても音声言語に依存した使い方をするとか、そこで言語接触がある。

日本では明治期に聾学校ができ、都市型手話としての日本手話はそこで成立したと思われる。それ以前の江戸期にも寺子屋でろう児が集められていたというから、メカニズム的に「手話」があったと予想できる。しかし、聾学校の手話との接続関係は未だ不明である。一人でもその子息が聾学校にいれば、当然系統関係が見いだせるだろう。なぜなら、かなり小さな集団の言語だからだ。

「ろう者」

さて、ドラマでは、川口春奈さん演じる主人公の聴者(聞こえる人:聞こえない、手話を主に使う人=ろう者、に対するある種のレトロニム)は、音声言語に手指動作をつけて話しているので、「手話付きスピーチ」である。一方で、中途失聴役の目黒蓮さんは日本手話”らしき”ものを使っている。声をつけない手話である。ドラマの最初の方の話が公開されると「中途失聴なのに日本手話とは」「中途失聴者は声を出せるだろう」などSNSでは違和感の吐露がみられた。

話が進んでくると、それがろう者である奈々(演:夏帆さん)によって教えられたものだとわかるのだが、その教えたろう者が、いわゆる「ろうアイデンティティー」をあまり持っていなそうな発言が多いので、これまた違和感がある。

そもそも、奈々というキャラクターは相関図に当初、「先天性聴覚障害を患う」と書かれていたくらいだから、プロデュース側があまり「ろう者」について詳しくないのだろう。ことば狩りをする趣味はないのだが、手話に関わる者としては、「ろう者」は「先天性聴覚障害」を「患」っているという言い方はいただけない。単純に、生まれつきあるいは音声言語の獲得期に「聞こえない」ために第一言語として手話を身につけるのである。これも結構言い方が難しく、「先天的に聞こえない」という条件は「ろう者」の必須要素と明示することはあまり好まれない。しかし、日本語が先に身についた人がろう者を名乗っていると、「あの人は違う」とか言う人もいるのが難しいところである。

実のところ、手話を第一言語にする人たちは、むしろ「親が手話話者」であるはずなのだが、そのうち9割が聞こえる子どもであり、CODAと呼ばれる。一般的に聞こえるCODAは「ろう者」ではない。社会の主流派言語である音声言語を第一言語として運用することが多いからだ。そして親が手話話者でない聞こえない子は、そんなに早期から手話に触れないので「第一言語」として身につけるかも曖昧である。ただ、とにかくそのアイデンティティに「手話」がある人は「ろう者」だというような、自身のアイデンティティで決まるようなところがある。CODAの場合は、手話がというより、「親がろう者」というところが参照点になるので、ちょっと異なるのだろう。

「ろう者」を定義するときに、「手話を使う」を重視して定義するべき理由を、いろいろ説明してみるのだが—例えば言語コミュニティこそが民族を定義するのだとか—、結局大学生に向けた授業では「できないこと(聞こえないこと)」によって定義されるのはネガティブだから、「できること(手話が使える)」にアイデンティティを置くほうが気分がいいというような説明が一番通じやすかったようだ。単純化しすぎだが、ある種のエモーショナルな真実があると思う。

私たちは「共感」によって、他者を理解しようとする傾向にある。しかし、正直、マイノリティの深い絶望や、日々の抑圧については想像力で補えないものがある。ひとつひとつのパーツを積み上げた先に、構造的に見えてくるものはあるが、その経験を「その立場」から理解するのは難しい。つまりこれは感情的に同情する「シンパシー」ではなく、相手の立場に立って理性的に整理して理解しようとする「エンパシー」の能力が必要なのだが、そこを分けて考えないで感情だけで理解しようとするからおかしなことが起こるのである。

ろう者の奈々がキレたわけ

silentには、大学時代の春尾(聴者手話教師)と奈々(ろう者)のエピソードがある(第7話)。就活に行き詰まっていた大学院生だった春尾は、奈々のPCノートテイクボランティアをはじめ、奈々に手話を教わったことで、何かに目覚める。突如放課後に知人を集め、手話を学ぶサークルを立ち上げる(この間季節が秋から冬に変わっているのでたかだか2〜3ヶ月で手話をマスターしサークルを立ち上げている?)。そこに奈々がやってきて、「なにやってるの」といぶかしげにいう。春尾は「きみのために手話がわかる人が増えたら良いと思って」やったといったようなことをいい、奈々は「聴者にはわからない!」とキレ散らかす。

大多数の聴者の視聴者は「なんで奈々はキレたの?情緒不安定なの?」とびびったようだが、ろう者世界では奈々がキレた描写自体が説得力がないことについては異論があっても、キレたこと自体には納得感があったような気がする。春尾が来る前のノートテイクボランティアだった男性はいやいややっているのがわかったし、ノートテイカーに毎回ありがとうを言わなければならないこともエピソードとして織り込み済みだった。かわいそうな聴覚障害の女の子と仲良くしてるの? と春尾が陰で言われたりもしている。

この「毎回ありがとうを言わなければならないエピソードは、奈々が丁寧に生きてきたことの証として描かれているけれども、ろう者たちは、情報保障を受ける際に、「毎回ありがとうを言わなければならない」ことへの苦痛をもっていることは周知の事実だーーコミュニティの内部ではーー。

なんでキレたのかといえば、「手話」の主体はろう者であるべきだからだ。何かをするときに、Nothing about us without us、つまり、当事者のことは当事者が参加しなければならないのである(これは国連の障害者権利条約を作ったときのスローガンである)。手話サークルを作るにしても、なんで勝手にやってた? 先に相談してからはじめろよというわけ。春尾も他者を集める手段として手話を使ってるようにも見える。奈々をダシにして自分の承認欲求を満たそうとしているように映ったのかも知れない。それを無邪気なマジョリティは「ひねくれている」というだろう。親切な動機があれば、何をやっても許すべきだとも。しかし、常にこういう「親切」「ありがた迷惑」を経験してきていたらどうだろう?

育ちのいい人の方が、素直だし、付き合いやすい。そういうことを言われると、結構傷つく。いろんな辛酸をなめてきたし、そのおかげで忍耐強くなった。特に傷つかず、辛酸もなめず、ストレートに親のお膳立てでなにもかもうまくいっているような人のほうが価値があると言われると、正直むかつくし嫉妬する。

(架空の私の日記より)

こういうのに似た色の感情だと思う。これは「似ている」だけで、全く違うかも知れないけど、とにかく、相手の視点に立ったとき、自分が受けてきた差別や偏見や、それにまつわる苦労のせいで、そしてそれを乗り越えてきた経験とそれによって身につけた強さのせいで「あくが強い」とか「理解できない」人間になってしまうことがある。

奈々のキャラクターはそういう「聴者社会に関わってなんとかやってきた経験」によって、人を簡単にはありがたがれないという地点から成り立っている。怒りの感情を、自分で隠蔽せず、さっと引き出しから取り出して、何だよおまえもか、となじれるだけの瞬発力を身につけている。これ、似たような事態が以前にもなかったら、多分このような反応にはならないのだと思う。君のためだと言われれば、「そういうものなのかな」とモヤモヤしながらも受け入れて、でも徐々にモヤモヤが高まって「聴者の自己満足に使われてしまった」、誰かを救うことで満足しようとする「メサイアコンプレックス」という解釈に行き当たったり、または直観的にようやく気づいたりして、気づいたときには自分も相手を賞賛しきったあとだったりして、どっと疲れてしまったりする。そういう経験がもう、何回目かなんだろう。だから「急にキレてる」。ただ、これは、奈々からしたら「ブルータスおまえもか」案件なので、もうぶった切ることは確定しているのである。

春尾と聴者の手話関係者

春尾はぶった切られても業界に残っているので、ある意味希有な輩である。手話関係の聴者は、なんらかの時点で、だれかの逆鱗に触れ、撤退をする人も多い。撤退していない人は、よほどの変わり者か、忍耐強い者か、鈍感な輩か、地雷源を駆け抜けてどんどん次のコミュニティに移っていく足の速い韋駄天か、「本当に地雷を踏まない聖者」かであろう(地雷を踏まない聖者は、多分地に足がついてなくて、地雷を踏まないのだと思うが)。

とにかく春尾というキャラクターは、初対面で「ヘラヘラ生きてる聴者」とか、「聴者」という単語も知らないであろう相手に、(自分を含むマジョリティに向けた)呪いの言葉を吐いている時点で、相当な変わり者として描かれている。そうでしょうとも。

春尾くん(突然「くん」づけになるのは親近感の表現)は、奈々とのいざこざがあっても、手話通訳の資格を取るために勉強したり、ろう者と一緒に手話の先生をしたり(薄給であろう)飲み屋にひとりでいって、なぜかそこで手話を教えたりしている。現実世界では、聴者の男性の手話関係者はとても少ない。(その数少ない男性通訳が昨日の放送では画面に現れて、天気予報のワイプの中にいた)

手話通訳という仕事は、子育てが終わった専業主婦を昼の講座(無料で社会福祉協議会などで受けられる手話講習会)に集めて養成し、ボランティアのような薄給でやってきた仕事だ。少なくとも、最初はボランティア(奉仕員)という立場で養成されてきた。電話リレーサービスがはじまって、夜勤のあるインフラ職になりつつあるので、今後どうなるかは気にしている。

大卒で手話通訳になるみたいな決意をする人は相当少なく、春尾くんの経歴(どこか都内の大学の情報理工学部?の大学院卒)では、IT業界から引く手あまたのはずなのに、突如手話通訳なんかやってるあたり、フィクションとしてはフィクションすぎる経歴だ。変な子なのである。(男性通訳者にも結構お世話になっているので、変な子扱いしてすみません。大胆な経歴の方たちだと思ってはいるけど)

手話通訳は、言語間の通訳なので、基本的には日英通訳とかと同等の言語スキルが要求されるので、同じだけの苦労をする。第一言語も第二言語も高い語学力が必要で、かつ同時通訳の技術も必要。大きなワーキングメモリ、短期集中で資料を読み込んで頭に詰め込める記憶力と理解力、会議通訳なら、その会議にふさわしい言語レジスターを身につけている必要があるし、コミュニティ通訳なら、コミュニティでの立ち居振る舞いも込みだ。

おっと、言語学のアドベントカレンダーなんだった。

手話を誰に教わるのがいいのか

春尾君は聴者だけど手話教師をしていて、川口春奈さん演じる紬の恋愛相談にのったりしてどう考えても教師倫理違反しかしていないのだが、まあそれは狂言回しとして仕方ないのでとりあえず目をつむろう。

私がオランダから帰ってきて手話を学ぼうと思ったとき、いろいろな人に相談したら、関東に引っ越すしかなくなった。日本手話を身につけたいなら…。最近ではオンラインのよい教材もあるし、白水社からも語学本が出てるし、みんなの手話も日本手話なので、語学はいくらやってもいいという趣味がある言語学者のみんなも、みんなの手話やサインアイオーで学ぼう。

地域の手話講習会は、いろいろだ。どうも、聞こえる人が解説しながら、ろう者が手話モデルとして横に立ってるというタイプの講習会もまだまだ多いらしい。しかし、できれば声を使わないタイプの手話からはじめて欲しい。なぜなら手話の「音韻」は手の動きや顔の動きであるからだ。日本語の音を耳で処理して、手を動かしていると、あたかも文字のように音声と連合してしまうのは、言語学に詳しいあなたならわかるだろう。そうでなく、概念と手の動きや顔の動きを直接結びつける記号体系を頭に覚えさせる必要がある。その記号体系に触れるとき、音声をいったん頭から追い出せと指導されるが、言語学的な話をすればとにかく、手話の「音」は動きなのである。そこをよく考えて、「誰に手話を教わるか」考えてみて欲しい。

「声が聞きたい」

ドラマで中途失聴者の想は「声が聞きたい」とめそめそしていた。自分だってその日がきたらめそめそすると思う。でも「声」とは耳で聞こえるものだけを多分指さない。手話の「声」は動きであり、表情である。男性の手話は動きの切れがよく、腕がたくましい方が多い(そういう人にたくさん遭遇しただけかも知れない)。女性の手話は柔らかく、ゲイの手話は脇が締まる。(なんかそういう研究発表があったのを唐突に思い出した)

そこにもまた「声」がある。誰が習っても、個性が出る。ときに手話の教師が女性だと、女言葉ばっかり教わってしまって、「妙になよなよ話す」と言われる男性通訳者もいると聞く。

手話を習い始めて半年あまりが過ぎた頃、突如視界がうるさくなったのを覚えている。歩いていて、雑居ビルの看板が目にどんどん飛び込んでくる。頭が痛くなるほど「見える」ようになって、耳栓をしたら頭痛がおさまった。電車の窓の向こうの建物の解像度が上がって、処理しきれなくなったのだ。聴者は目が見えていない。視野が狭すぎる。手話の先生がそういった理由が多少見え方が変わったときに、ようやくわかった。それ以降、ほとんど見えていなかった手話の要素を、大分カテゴリカルに知覚できるようになった。今はもう頭痛はしない。意識的に「見ることをさぼる」こともできるようになった。

手話を学ぶと、知覚の改革がある。新しいモダリティの言語はおもしろい。みんなで手話を学ぼう。


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