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私のマニフェストは“モノの一人っ子政策”である

モノに愛着を持って育てていくというカルチャーは奥が深い。より身近にいえば、安物買いの銭失いにならないように質の良いものを買って長く使おうというやつだ。

私がこの考え方になったのは大学生の頃だ。
テスト期間が終わり、長い春休みが始まった日、友人のすすめで、地元岡山が世界に冠たる児島ジーンズストリートに出かけた。その一角にあるジーパン屋の店長からこう教えられた。
「このジーパンは一生履けるモノだ。しかも履き込むことで、色あせやシワができる。これこそが君にしか出せない軌跡(ストーリー)になるんだ!」と。いや店長はそんなラブソングみたいな当て字は使ってない。

自分にしか出せない歴史をジーパンに刻める!こう脳内変換した私は一瞬でジーパンの虜になった。さらにいえば、誰かが世に製品として出してくれたモノを、自分なりの色に染めることができるというスタンスに惚れ込んでしまった。

それ以降、ジーパンを買い、育て、この文化圏を広げるべく、友人知人に「壺を買いませんか?幸せになれますよ」と言わんばかりに布教活動をする日々を送った。ただこの考え方の厄介なポイントでもあり、魅力でもあるのが、他のモノにも手を出してしまう。つまるところ、ジーパンにはかっちょいい革靴が必要なのだ。ハイボールに唐揚げ、BEGINにハンチング帽、深夜のドンキとシャコタンワゴンRくらいセットで必要なのだ。

そんなジーパンの相棒となるのが「moto」と「EVERLASTING」だ。アメリカのAlden、イギリスのTricker’sやCHURCH’Sなども最高に魅力的だが、私には、革靴ならmoto、レザースニーカーならEVERLASTINGがしっくりくる。この靴の話を始めると話がとっ散らかるので、またの機会にする。

モッタイナイ精神が根付いている日本でも、ミニマリズムは広く認識されている。私の母なんか、ワンガリマータイさんの一番弟子かと思うくらいモッタイナイモッタイナイと言っている。たくさんのモノに囲まれて、選択する余地が多いことが幸せだという人がいることも知っているし、どちらが良いのかなんて議論すべきことではないことも理解している。
ただ、私は選択するということに少し疲れたんだと思う。なんだって人は1日に3万回以上も選択しているらしいではないか。ならば、ズボンはジーパン、靴はシーンに合わせて2足、というふうに大方針だけ決めて、あとは淡々とその道筋に沿いたい。選択するためのパワーはもっともっと大事なことに使いたい。私にはこのスタンスが快適なのだ。”より少なく、しかしより良く”だ。

幸いなことにモノの一人っ子政策を進めても、後の世代の生産年齢人口が減ることもないし、社会保障制度がぐらつくこともない。むしろ、私が80歳になった時に、「このジーパンはじいちゃんが20歳のときから履いているビンテージなんじゃ、ワシよりシワが入っとろう」と孫に言える。いやこれは絶対に言いたい。だから今からかわいい我が子たちを大切にしているのである。

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