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我が子と夏休みの宿題でバトルがしたい。

ぼくの妄想力と変態性をもってして、将来の家庭について考えてみる。「おまえ、そのキャラでこんなファンシーな将来像イメージしてたんかよ」と知り合いや友人からいじり倒されようと今日だけはモーマンタイとする。ちなみぼくのiPhoneのメモには、コストコの品ぞろえくらい妄想案がストックされている。ちょくちょく小出しにして、ある層から気持ち悪がられたい。いつかは快感に変わると信じている。

大前提だが、独身のくせにという批判は今日はなしにしてほしい。ぼくのnoteは毎日が無礼講だ。以後ご承知おきを。

だれもが経験した夏休みの宿題。小学校・中学校・高校と長い休みの喜びに足かせをつけるような宿題の山々。ぼくは、実をいうと中学校までは割と要領よく成績優秀な生徒だったので、宿題は全部終わらせて提出することができていた。勉強が好きとか嫌いとかではなく、なんとなく、モノがたまっているということが不快だったんだと思う。きれい好きが功を奏して、宿題をしていたという変なタイプだと今でも思う。計画性や要領の良し悪しなんてなく、夏休み初日にドリルは全部終わらせていたし、絵が好きな母親に風景画の課題は書いてもらったし、2年連続で同じ読書感想文を提出したりしていた。実に要領のいい児童ではないか。見事に2年目に提出した読書感想文が佳作を受賞した。1年間寝かせたことで文章に深みとコクが生まれたことは想像に難くない。ヴォジョレーよろしく10年に一度の出来栄えであったと自負している。

高校に入ってからは部活一色で勉強はからっきし。課題を満足に提出することもできず本当にいただけない生徒だった。しかし、その部活浸けの日々のためには、とにかく課題を提出しなければ部活に出られない。この1点のプレッシャーからか、はたまた要領がいいのかチャレンジャーなのかはわからないが、1冊のワークブックのページ数を減らすという暴挙をよく決行していた。製本されている紐をほどき、誤差の範囲までページを抜き取る。そしてまた製本する。わが手さばきに1点の曇りなし。製本技術が伸びたことは言うまでもない。もし我が子ができたならば、1ミクロンはぼくのこの精神性と技術を受け継いでいるかもしれない。大いに結構。

当時子どもながらに、なんで大人は宿題がないんだろうと思っていた。27歳になって思うが、大人には宿題はないが、もっと大きな課題を抱えている。子どもはそんなことは知る必要はない。かといってぼくのような子どもであれば、ずる賢い道をたどらないとも言い切れない。だからぼくは子どもと宿題のバトルをする。一番やりたいのは、やはり読書感想文対決だ。

親が自分と同じ宿題をしているという不思議な現象。そして読書感想文で親に勝てるんじゃないかという可能性。きっと我が子なら燃えてくれるはずだ。なにより「宿題をやれ!お前のためだ!」とぼくは絶対に言いたくない。子どもが宿題をやるかどうかは、子ども自身が引き受けるべき課題だ。親が「やれ!」というのはお門違いだ。「きみのためを思って言っているんだ」なんて嘘だ。自分自身が子どもをコントロールしたいか、世間体を気にしているかのどちらかのように思う。「これは君の課題、だからぼくは何も言わないけれど、君がもし手助けを欲しているならば何でも力になるしその準備がある」。これがぼくが理想とする人間関係だ。勝手に相手のフィールドに土足で入るもんじゃない。そんな前提にもとづきながらも、「おれ読書感想文ここまでやったぜ?完成間近だぜ」と、大人げなさなんて捨て置いたバチバチのバトルを君と繰り広げたい。そしてどうか担任の先生、ぼくの10数年越しの新作の読書感想文を採点してはいただけないだろうか。

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