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自分が見ているものと他人が見ているもの

自分が見ているものと他人が見ているものは違う。何を当たり前のことを、と思うこともあるけど、生活していると、ついつい忘れてしまっている時がある。


「ある場所を見て」と言われて見る”対象”も違うし、
「これを見て」と言われても”見る角度”もそれを見た時の”感じ方”も違う。

「見え方」と一言で言ってもたくさんあって、物理的に見えているもののこともあれば、一人ひとりの捉え方や感じ方のこともある。

言葉でこうして読んでいると、うん、そうだよ、と思うけれど、いざ生活の中にこれが落とし込めていることってどれくらいあるんだろう。



私の場合は、人に出来事を話しているときによくそれを感じる。数は少ないけれど、私がお喋りになる相手が何人かいて、定期的に会っていつも色々話を聞いてもらっている。

日常であったことから、自分の思考まで色々話している。話の内容や相手にもよるけれど、想像しやすいように、私はなるべく私が見た景色を詳しく伝えるようにしている。

だから、相手は私がこう感じたんだってわかってもらえることも多くて、相手も詳しく話してくれることがあるからお互いにその話の内容を共有できている実感がもてる。

それでもやはり相手の経験や環境は違うから、同じアイテムの名前を出しても想像するものが違ったり、想像している色や形が違ったりする。


物体が対象になる話だったらまだよくて、思考が対象になる話だと、一度食い違うとゴールが違っていることもある。

違う人間だから思考が違うのは当たり前なのだけど、共有していると思っていたものが違ったとき、修正しにくいのが目に見えない思考のむずかしいところ。

そもそも思考は少しくらい違っていても違いに気づきにくいというのもまた目に見えない思考ならではだと思う。

と言っても、その難しさが、おもしろさ。私はそれがおもしろくて人と話すのが好き。そういう見方もあるのかって楽しくなる。


好きは好きだけど、その見方を理解するのはなかなか大きなエネルギーを使うので、四六時中、相手がどういう見方をしているかって考えることは、申し訳ないけれどできない。

自分の見方もわかっていない時とか、人の見方を考えるやさしさをもてていない時、見方の違いについて考える余裕がない時なんてことも。

そんな時は、ごめんなさいだけど、とげとげになっている私。見方を考えるどころか、ダイレクトに傷つけてしまっていることもある。

そんなことがないようにしたいなあとは思っているけれど、どんな時でも自分を調子がいい状態に保っておくことはできないから、仕方がないと言えば仕方がない。


そうなってしまったら、自分が万全の状態ではないということを認識するだけでよくて、無理に万全の状態に持っていく必要はないと思う。

自分に何が足りていないのか、自分に何をしてあげるのか、自分はどうしたいのか。色々な要素を確認して、まずは自分に優しくなる。それからなら、相手にも優しくできる。

自分に厳しく、相手に優しくっていうけれど、自分に厳しくばっかりなんて、それはちょっと違うんじゃないかなって、最近やっと実感としてわかるようになってきた。

もちろん、自分に厳しくしないといけないことも生きていたらたくさんあるけれど、どんな時でも自分に厳しく、ではなくて、自分にも優しい瞬間はあっていいと思う。

優しくされるってこういうことだって自分がわかっていないと、相手にも優しくなんてできないと思うから。


自分が、自分は今これをこう見てるんだねって認めることが、物事の見方や考え方を広げる第一歩な気がしている。



自分が見ているものを押し付けないように、は気をつけないとなと私も思います。




見え方は、たくさんあって当たり前。

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