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食器棚には思い出が詰まっていたと感じた日

これまでその時の出会いや必要性で購入した器たちを家の中に迎い入れてきた。学生時代の一人暮らしから就職、夫との二人暮らし、赤ちゃんとの暮らし…棚にはこの20年間ほどの思い出やわが家の歴史が詰まっているなぁとふと感じた。 
人生の節目ごとに変わる暮らしの形態によって必要な器の質や量、加えて趣味も様々だったから一見すると統一感には遠い気がする。
それが、思い出が詰まったアルバムのように一枚一枚の器の個性を受け入れられるようになってきた。

北欧モダンなインテリアが好きだった結婚当初は、それまで使っていた実家譲りの引き出物感溢れる和風な食器たちが不恰好に思えてしょうがなかった。
マルシェという場所に初めて訪れてからは、作家さんが作る器に感動しこれこそが器というもの…と好きな作家さんの個展をチェックするのが楽しみだった。
娘3人の乳幼児期には、プラスチック製の小さくて見ているだけでかわいい食器が棚の一番手を伸ばしやすい場所を独占した。
その後は、食器は白、と購入時のマイルールを敷く。単純に選択肢を減らして買い物しやすくしたいと考えたからだったけれど、和食を多く作る私にとっては白い方が根野菜や葉野菜が色鮮やかに見えたからというのもある。

最近では、柄が入った器に和食を盛りつけたときのフィット感がしっくりきている。同じテイストではないにしろ、実家から共に引っ越してきた引き出物の器たちもそういえば和食がよく似合っていた。

何度かの断捨離経験でその当時の器はもうないけれど、回りまわって私はまたその時に似た絵柄入りの器を使い始めている。きっと母が今の食器棚を見たら、「お母さんの家にあるお皿に似てる」と言うかもしれない。その時は、ここにあるのは引き出物ではなく唯一無二のお皿であることをつらつら説明してみたいと思うのだけれど。
一時は合わないと思って遠ざけていたものでも、私自身が年齢と経験を重ねる中で少しずつその器を使うに似合う今になってきたのかもしれない。きっと同じ器を並べられていても、その時の自分の人生経験の年輪によってキラキラして見えるものは変わっていくのだと思う。

そう考えるとどの器も当時一番光ってみえた思い出の品。仕事で深夜に帰宅しクタクタの体で二日目のカレーをよそったこと、当時好きだった人に作ってあげた肉じゃが、陶器市の数あるテントを何往復もして見つけた器。

器一枚には盛り付けた料理の記憶と同じくらい当時の暮らしぶりやそれを支えてくれた人たちの思い出が詰まっていた。

食器棚は我が家のアルバム。
器一枚一枚が思い出あふれる写真。

撮った写真はデータ管理できる便利な時代になったけれど、私はあまりそれを振り返ることがない。たまに見て懐かしいなあと思うけれど、同時にもう戻れない一瞬に切なくなってしまうから。
でも、器の場合は違う。毎日必ず棚の前に立ち、器を手に取る。アルバムを開き、写真を手にすることができる。これまでの思いと共にこれからも時間を共有していける道具って心強くて安心する。思い出に浸りながらも、今この時のご飯のために料理を盛り付けるという現在進行形の思い出の形。

そんなことを考えながら、棚の掃除をしていました。

初めて買った作家さんもの
新婚旅行で夫懇願のフィッシュ皿
これが一番古くて15年前くらい
無印の丼ぶり
10年選手
最近のお気に入り 絵柄入り
ガラス大皿はレストランの
ガレッジセールで見つけたもの

最後までお付き合いくださりありがとうございました。

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