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すくう(小説)

 高校受験の材料は中学三年生の十二月までに決まる。
 三年生に進級してから、どの科目の先生も、口をそろえて唱えた言葉だ。受験先に伝わる成績は二学期の途中、十二月までのものらしい。だから三年生は前期中間、前期末、後期中間の三つのテストを絶対に落としてはならない、と。
 冬の一時間目は指先がかじかむ。教室のストーブもまだ寝ぼけているから、せっかく真ん前の好立地の席なのに、答案用紙に書いた名前が震えている。
 今日このテストで数学に対するわたしの位置づけが決まる。豊川まりなはこの程度ですと、志望校に知れ渡る。でもまあ、どっちでもいい。結果がよくても悪くても。大手進学塾の全国模試の結果からして、わたしがあの高校に合格する可能性はかなり高い。学校でも塾でも「もうワンランク上に挑戦しなさい」とせっつかれたけど、そこまで頑張る理由ってなにかある? あの高校は制服のブレザーもリボンもかわいいし、仲良しメンバーのみんなが受験するし、大学への進学率も悪くない。余裕を持って入学できるなら、授業についていけなくなる心配もなさそうだ。ここでハードルを上げたとして、入学後に必死にかじりつかなくちゃいけないようじゃ、みじめじゃないか。
 かつかつこここ、えんぴつがなめらかに走る。教室中を、それぞれの机の上で、絶え間なく。わたしも問題用紙の必要部分に下線を引いて、あるいは丸で囲み、隙間には計算式をつづり解く。塾で培った癖みたいなものだ。解答を導き出したら、えんぴつを握る右手を答案用紙へ誘う。……はちの上の丸がよれてつぶれた。読める文字で書かないと、答えが合っていても点数にならない。えんぴつを置き、代わりに消しゴムへの手を伸ばす、が。
「……っ!」
 反射的に悲鳴を上げそうになり、どうにか堪える。つかみ損ねた。消しゴムは木製の床でバウンドし、転がっていく。
 テストの最中に落とし物をした場合、静かに挙手をし試験官の先生に拾ってもらうのが決まりだ。だからわたしはすぐさま右手をぴんと耳につけ挙手をして、試験官である学年主任の海坊主に「消しゴムを落としました」と申し出なければならない。それなのに。
 青白黒のケースに身をくるむわたしの消しゴムは、左ななめ二つ前の席で、主が浮かせた土踏まずの下にいる。両足ともつま先だけを床につけ、猫背に前のめりにテストを受ける、三年間で誰より身長が伸びなかった男。お陰で男子バスケ部では最後まで補欠にすら入ることがなかった本田くんの右足の下で、わたしの消しゴムは、立ち止まった。
 本田くんはわたしがさまざまな大人から挑戦するよう言われている、ワンランク上の高校を志望している。合格圏内の成績だけど、倍率が高い人気校だから、油断ならない状態だ。
 というのは全部、休み時間に本田くんの席から聞こえて得た情報だった。低身長で静かにたたずむ本田くんは、あんまり女子から人気はない。このクラスにはバスケ部エースの高身長でコミュニケーション能力桁外れの、高島くんも在籍する。趣味はギターで勉強もトップクラス、すべての男子をかすませる。でもわたしは知っている。本田くんのほうが優しい。目尻の柔らかさはトップクラスだ。遅れてきた変声期のしゃがれ声も、胸をきゅっとしめつける。かすれても裏返っても、ていねいにゆっくり話すトーンはそのままに。わかりやすく落ち着いて、噛み砕いたような話し方。誰の気持ちも取りこぼさない意見。これらも全部、学級会での様子だけれど。
 さすがはわたしの消しゴムで、立ち止まるべき位置をわかっている。国語、算数、英語、社会、理科の五教科において、あと各四点だけ安定して獲得できれば、わたしも本田くんと同じ高校の合格圏内に入れる。うまく一緒に合格すれば、叶わないままの「本田くんと話す機会」を得るチャンスを、あと三年も延長できる。でも女子の制服はセーラー服だし、男子もブレザーではなく学生服なのだ。いまの中学校でもセーラー服は着ており、本田くんの学生服姿も見慣れている。新鮮味がない。それに万が一、入学後にわたしのみるみる成績が落ちたら? そんな姿は絶対に本田くんに見せたくない。
 にらむ先の消しゴムが問う。
「本当にいいの?」
 上履きの中で、足の指をぎゅうっと握る。
 いいや。もう。中学校生活が三年間もあって、事務的な内容以外で一度も本田くんと話せなかった。あともう三年増えたとしても、同じ三年が過ぎ行くだろう。同じクラスになれる保証もないし、きっと彼はこれから背が伸びる。趣味は漢詩の暗記で特技は土いじり、こんな穏やかで話題の種を持つ人が、今後発掘されないわけがない。三年生のクラス替えの日、自己紹介の時間に知ったプロフィールに、いくつもの質問が浮かんだ。パスを渡すことができなかったのは、鼻息が荒くなりそうだからだ。引かれたくない。本田くんと同じトーンでありたかった。
「心の底から、もういいの?」
 消しゴムはさらに問う。
 かまわない。このまま朝の通学のために無人駅の同じホームに立ちながら、スマホいじりに忙しいふりをして、あぁ背が伸びたな、おもちゃみたいな指輪してるな、と横目に見ながら焦がれて灰になるつもりだ。本田くんとの思い出はすべて「三年生のクラスの思い出」で、こんなに焼きついているのに、わたしの中で光るだけのまま。何年かたって本田くんが中学の卒業アルバムを開いたとき、たくさん並ぶクラスメイトの写真の一人に「豊川まりな」と添えられているものの、ただそれだけで、視線は通過する。それでいい。たった一人の、わたしだけの宝物のまま消滅させてやる。
「……豊川?」
 がたいのいい海坊主には不釣り合いな、戸惑う弱々しい声に呼ばれた。ひきつった顔で、教卓からこちらを見ている。
「どうした、大丈夫か」
 ストーブがようやく目を覚ましたらしく、背中がごうごうと熱い。きっとそのせいだと思う。目尻もじんわり、熱っぽい。
「大丈夫か。気負いすぎたか。お前……泣いてるぞ」
 指摘されたら止まらなくなる。我慢できずに、こぼすしかなくなる。首を横に振り、手のひらで涙をぬぐう。その隙間から、教室中の視線が差し込んできた。もちろん、本田くんからも。
「先生」
 本田くんはすぐ教卓に向き直ると、右の肘を耳につけてぴんと挙手をした。
「おれのじゃないんですけど、足元に誰かの消しゴムが落ちていて、踏んでしまいました。先生、拾っていただいていいですか」
 あぁ、と海坊主は一旦わたしから意識を反らす。本田くんの席までくると、ひょいと消しゴムをすくい上げた。
「消しゴム落としたやつ、誰だ」
 違う。わたしじゃない。こんなことを望んだのはわたしじゃない。わたしの最後の救いにならない。消しゴムが引き起こした救済でもない。
 本田くんの土踏まずに守られて、テスト後にこっそり拾ってほしかった。もう内申点なんかどうでもいいから、最初で最後の接点がほしかった。細く、でも触れたらごつごつ固そうな指先で、しなやかにすくい取ってもらえていたら。これ誰の? ごめん、わたしの、ありがとう。こんなシンプルなやり取りでよかったのだ。
 わたしだけの宝物のまま消滅させてやる、それもわたしの気持ちではある。そのはずが、接触をどこかで望んでいた。本当にいいの? 物言わぬただの消しゴムに言わせてまで、わたしは自分の揺らぎから目を背けていた。
「わたしじゃありません」
 しゃくり上げながら、くぐもった声で主張する。
「わたしのじゃ、ありません」
 こんな不安定な人間は、わたしじゃない。矛盾した感情はわたしのものじゃない。
「そ、そうか。豊川のじゃないのか」
 海坊主は完全に喉が詰まったようだ。発声がぎこちない。消しゴムはそのまま海坊主が預かることになった。わたしのはちは上がつぶれたまま、将来の重大決定に挑む。
 背中をストーブに焼かれながら、自分が灰になるまでを想像してみた。悔しいだろうか、悲しいだろうか、よくわからない。
 いつしか涙が乾いていた。ぬぐった手のひらには濡れた後筋が残っている。こんなにかき回されるとは。ぐるぐるに荒波を立てておきながら、彼はしれっと問題用紙に帰っている。願った手のひらは、すくい上げてくれない。消しゴムを取り返すには、わたしの、ありがとうを言う相手が変わってしまった。
 どこでもいいから離れたい。強く思った。ぐるぐるかき回されて、遠心力で飛び去りたい。着地地点でやり直しながら、自分で自分をすくい、見つけてみたかった。


かんたん表紙メーカーさまより

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