自分の常識は他人の非常識!?
価値観を決める基準はなんなのでしょうかね?
それやっても『無駄じゃない』とか、それは『有益だ』とか
これってその人の価値観なんだろうとけど。
例えば、一緒にいて楽しい人を思い浮かべてみると、考え方が似ていたり
何か行動が共通していたり、会話の話題で盛り上げるところが一緒だったりする。
これは私の経験ですが、大人になった時に気づいたことがあります。
その前にこんなこと聞いたことないですかね?
『私の常識は、誰かの非常識』
一度くらい聞いたことあるのではないでしょうか。
私が大人になって気づいたことは、
子供時代に食べていた焼肉は実はジンギスカンだったこと、、、
これには親の都合もあったかと思いますが、
学生時代、東京の学校で友人になった仲間達と焼肉食べに行った時のことで
気づいた事実なのですが。
焼肉屋に入ると四角い鉄板があって、どうやらそこで肉を焼くのだろうと気づいたのですが、僕が知っている焼肉は丸の鉄板で真ん中が盛り上げっているやつ。
なんか鉄板が違うけど、ここは東京だしお店も色々あるだろうから、違いがあって当たり前だよねと。思っていましたが、食べてみていつものお肉より匂いが臭くなく柔らかくて美味しい。
そこで初めて、真実を知ったというエピソードになります。
使っている方言も、当たり前に使っている言葉がまさか標準語でなかったとか。
皆さんもきっと思い当たることがあるのではないですか?ね。
本題に話を戻しますが、自然に出来上がった自分の価値観は、あてになることもあるけど、あてにならないことも結構あるなと、思ったりします。
世界にはいろんな人がいるのは当たり前なんだけど、100人いたら100人の価値観があるわかっているけど、身近なところの集団行動していると、そこからはみ出たら、人格やその人の価値観まで疑われたりするけど、その疑う人の価値観こそ疑った方がいいのではないかと思う。
冒頭に書いた、無駄とか有益だとかだけで判断してしまう価値観だったり、当たり前と思ってやっている環境に長くいると、洗脳に近い状態になってしまうことだってある。
それに、本来の目的を見失っていたり、本質が見えなくなってしまったり。ということがあるのでは。
例えば、自分の親の介護をするとかは、当たり前でありそうすべきとか、
親に感謝することが当たり前とか。
自分が生まれる前から、その生まれた地域や県、お国柄などそれぞれあると思うけど、それをすることが『美しい』とされたり在り方みたいなのがあって、誰もがその価値観を持っている傾向があり、違和感を感じる人もいるしその場から全く違った環境に移ったことで気づいたりする。
ここでちょっと最近の記事で気になった内容のものがあったので、引用させていただきますね。
これを読んで思うのは、否定派の意見はわからなくもないが、無駄とか有益で判断する価値観の人がいることがここでわかると思うけど、当事者が無駄と思うかは、分からないわけで、無駄と思った時もあったけど、後々になって無駄じゃなかったと思うこともたくさんあると思うけどなぁと、思いました。
最後になりますが、今やっている当たり前のことを、一旦立ち止まって疑ってみることで、今まで気づかなかったことへの第一歩なんじゃないかなと。
なので『自分の当たり前を疑い、なんでそれをする必要があるか』を思い出した時にメモ書きなどして書き出し、書いたメモを眺めてみると新しい価値観に気づくかもしれませんよ。
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