La Dernière Mode

流行、現れては消えるもの、ただ単に在るのでもなければ、ただ単に無いのでもないもの、それ…

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流行、現れては消えるもの、ただ単に在るのでもなければ、ただ単に無いのでもないもの、それはつまり無−限なるものであり、一瞬に宿る永遠。

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小津安二郎、あるいは日常の普遍性

今年は小津安二郎の生誕120年にあたり、日本のみならず、世界各地で、様々な催しが開かれている。昨日開催された東京国際映画祭でも、ヴィム・ヴェンダース、黒沢清、ジャ・ジャンクー、ケリー・ライカートといった、世界の映画界の第一線で活躍する映画監督たちが、小津をめぐるシンポジウムに参加している。小津ほど、世界の監督たちに愛され、また影響を与えた日本の監督はいないのではないだろうか。すぐに思いつくだけでも、侯孝賢、アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタなど、錚々たる面々が、小津からの影響

    • 「感動ポルノ」と「バリバラ」の間で

       映画において、ドキュメンタリーとフィクションの区別がほとんど意味をなさないことはよく知られている。ドイツの社会学者であり映画理論家であるジークフリート・クラカウアーは、『映画の理論』と題された書物の中で、ドキュメンタリーを物語のない映画と定義し、実験映画と「事実の映画film of fact」とに分類している。クラカウアーは、「事実の映画」をさらにニュース映画、ドキュメンタリー、芸術についての映画に分類しているが、一般にドキュメンタリーと呼ばれているものは、クラカウアーが「

      • 過ぎ去ることのない(非)記憶-アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』から原爆の芸術的表象について考える

         『ヒロシマ・モナムール (Hiroshima, mon amour)』(邦題『24時間の情事』。以下『ヒロシマ』と略)は、フランスの映画監督アラン・レネが、作家マルグリット・デュラスにシナリオを依頼する形で製作され、59年のカンヌ映画祭で非公式な形で上映された映画作品である。非公式だったのは、広島への原爆投下という題材の性格から、アメリカの反感を買うことを作品をセレクションする委員会が恐れたからだった。作品はカンヌで賛否両論を呼び、センセーションを巻き起こす。結果、後日一般

      小津安二郎、あるいは日常の普遍性