「感動ポルノ」と「バリバラ」の間で

 映画において、ドキュメンタリーとフィクションの区別がほとんど意味をなさないことはよく知られている。ドイツの社会学者であり映画理論家であるジークフリート・クラカウアーは、『映画の理論』と題された書物の中で、ドキュメンタリーを物語のない映画と定義し、実験映画と「事実の映画film of fact」とに分類している。クラカウアーは、「事実の映画」をさらにニュース映画、ドキュメンタリー、芸術についての映画に分類しているが、一般にドキュメンタリーと呼ばれているものは、クラカウアーが「事実の映画」と呼んでいるものにほぼ一致すると言っていいだろう。物語を含まないというこの根本的な特徴についてクラカウアーは次のように言う。

筋を進行させるという任務の重荷から解放され、ドキュメンタリーは物質的に存在しているものの連続体をまったく自由に探究することができる。物語を排除することで、カメラは制約を受けることなく独自の仕方で進行していくことができるし、カメラがなければ近づくことができなかったであろう現象を記録することができるようになる。

Siegfried Kracauer, Théorie du film, trad. fr. par Daniel Blanchard et Claude Orsoni, Flammarion, 2010 [1960, p. 306.]

 しかしながら、物語の制約から解放されるということは、ドキュメンタリーを映画の中のひとつのジャンル以上のものにする。というのも、映画はその黎明期において、明確に「アンチ物語」の芸術として思考されていたからだ。フランスの哲学者、ジャック・ランシエールは次のように書いている。

映画は物語に対する大いなる疑念の時代に生まれた。その時代には、新しい芸術が生まれつつあると考えられていた。その芸術はもはや物語を語ることがなく、物事のスペクタクルを記述することがなく、登場人物の心情を示すことがない。その芸術は、形式の運動の中に、思考の産物を直接書き込むのである。そしてその時、映画はこの夢を実現するのに最も適した芸術と思われたのである。

Jacques Rancière, Les écarts du cinéma, La Fabrique, 2011, p. 16,

 実際、映画の黎明期の批評家であり映画監督であるジャン・エプシュタンは「映画は真実である。物語は虚偽である」と言っていた(Bonjour cinéma, Éditions de la Sirène, 1921, p. 31)。なぜなら、映画は、単なる事物のイメージではなく、事物からくる光の振動がフィルムの上に刻み込んだエクリチュール(書かれた言葉)だからである。今日のように、映画が物語を語るための言語以上に強力な装置とみなされるようになるのは、もっと後のことである。

 それゆえ、いかなる映画の中にも、ドキュメンタリー的な要素は存在する。ここでドキュメンタリー的な要素とは、物語に従属しないイメージ、物語に対して過剰であるようなイメージのことである。たとえスタジオで撮影されたようなフィクション映画でさえも、映し出された光景が物語とは無関係の意味を持ってしまうことを妨げることはできないのである。

 したがって、すべての映画は、フィクションにせよドキュメンタリーにせよ、物語的側面とドキュメンタリー的な側面とを持っている。しかし当然ながらその度合いには差異がある。今日、フィクション映画ではドキュメンタリー的側面は限りなく縮減されている。つまり、視覚的要素は物語の単なる背景として、物語の進行に完全に従属している(このことは今日におけるアニメーション映画の成功について多くを語るものであるように思われる)。そして、人間が考え出すことのできるような物語のバリエーションというのはたかが知れているので、フィクション映画はたやすくマンネリにおいちることになるわけだ。この点で、いわゆるドキュメンタリー映画は、物語に解消できない過剰なイメージに立ち向かわざるをえない分、「現実」の様々な現象を捉えることができると言えるだろう。しかし、ドキュメンタリーにおいても、特にTVドキュメンタリーにおいては、ドキュメンタリー的要素の物語への従属が顕著に見られる。毎年「24時間テレビ」に対してなされる「感動ポルノ」という批判は、障がい者の「現実」が感動物語へと従属させられることを意味する。そしてその時、語りたい物語にそぐわない「現実」の要素は切り捨てられたり、修正されたりしてしまう。その時、ドキュメンタリーは最悪の虚偽となるのである。

 したがって、「24時間テレビ」のようなドキュメンタリーが、たとえその内容において政治的にコミットしているように見えたとしても、実のところ、このフィクションは、「障がい者」を「かわいそうな存在」や「犠牲者」として、健常者の消費(感動)の対象とする支配的なフィクションを反復しているにすぎない。「障がい者」を支援するという善意から生じたように見えるものが、「障がい者」をすでに出来上がった「障がい者」というイメージの中に押し込めることになるのである。逆に、真のドキュメンタリーは、そのようなフィクションの中で固定化した同一性、「健常者」と「障がい者」という単純な対立をずらすものであるだろう。水俣病に関して優れたドキュメンタリーを数多く発表した土本典昭は、「ただひとつ、映画はできるであろうと思わせたものは、患者さんが病者としてではなく、漁民に見えた時である」(『映画は生き物の仕事である』新装版、未来社、2004年[初版1974年]、pp. 134-135)と述べている。

 もし、このように支配的なフィクションが押し付けてくる同一性をずらすこと、つまりは支配的なフィクションが「現実」であるかのように見せかけているものの見方とは異なるものの見方を提示することを、物語を語ることとは異なる意味で「フィクション」と呼ぶならば、ドキュメンタリーは、たとえ物語を語らないとしても、優れてフィクション的な作業となる。このことを、佐藤真以上に考え抜いた映画作家はいないだろう。佐藤真は、土本同様、水俣病(ただし熊本ではなく新潟水俣病)を扱うドキュメンタリー『阿賀に生きる』(1992)でデビューし、知的障がい者のアート作品を題材にした『まひろのほし』(1998)や『花子』(2001)を世に送り出した。佐藤は『日常という名の鏡』という著作の中で、次のように書いている。

まずメディアが量産する様々なステレオタイプや、世間に流布している紋切り型の発想をいかにずらすかを、私は一貫して語り続けてきた。映画『阿賀に生きる』の現場に即していうと、新潟水俣病という社会問題のあり方だけをピックアップする従来の社会派ドキュメンタリー映画からいかに遠く離れられるかが、私のモチーフであった。私はいつも、特別で特殊な社会的な物事の対極に、素朴で無垢なありきたりな日常を対置してきた。

『日常という名の鏡』増補版、凱風社、2015年、 p. 2。

 土本が、水俣病患者ではなく漁民を捉えようとしたように、佐藤は新潟水俣病のメディア化された社会問題ではなく、「ありきたり日常」を描こうとする。しかし、そのことは、ドキュメンタリーを非政治化することではない。佐藤は言う。

被害も加害も描かないという言い方は、確かに誤解を招く。だが私が意図したことは、水俣病患者に対して類型化されたような「被害」と「加害」を描かないことである。日常の中でめったに顕在化されない「被害」や「加害」の実相を、どのように描いていくかというのは、当初から私たちに課せられた巨大なテーマであった。水俣病問題の映画にはしたくないだけで、水俣病を描かないというわけではない。本来は日常の中に埋もれて見えない被害を、「水俣病になって何が一番苦しかったですか」といった質問だけで顕在化させるようなことだけはやめよう、と心に決めたまでのことだ。

同書、p. 48。

 ステレオタイプから逸脱しようとするドキュメンタリーの作業を、佐藤は一貫してフィクションと名付けてきた。そしてこのようなフィクションであることの中に、佐藤はドキュメンタリーの政治性を見出そうとしている。以下は、佐藤が『ドキュメンタリー映画の地平』の中でドキュメンタリーに与えている定義である。

 ドキュメンタリーとは、現実についての何らかの批判である。

 その現実批判は、映像作家の主義主張に込められるものと従来は考えられてきた。しかし、私はドキュメンタリーにまとわりつく、こうした政治主義や啓蒙主義とは訣別するところから出発したい。なぜなら、ドキュメンタリーとは、映像でとらえられた事実の断片を集積し、その事実がもともともっていた意味を再構成することによって別の意味が派生し、その結果生み出される一つの<虚構=フィクション>であるからだ。

 〔中略〕

 要するにドキュメンタリーとは映像と録音テープに記録された事実の断片を批評的に再構成することで虚構を生み出し、その虚構によって、何らかの現実を批判的に受け止めようとする映像表現の総体である。

『ドキュメンタリー映画の地平』、凱風社、2009年、p. 14。

 このような、支配的なフィクションに抗するフィクションとしてのドキュメンタリーが、より多くの「現実」を含んでいることは間違いない。私たちが生きる「現実」は、物語のように初めから終わりへと向かって因果関係によって秩序づけられてはいない。物語が行う抽象化によってこぼれ落ちてしまうものを、ドキュメンタリーは捉えることができるだろう。しかし、このようなドキュメンタリーは、同時にリスクも孕んでいる。ステレオタイプ化した「社会問題」を避け、「被害者」ではなく「漁民」を、「被害」や「加害」ではなく「ありきたりな日常」を描こうとするとき、「被害者」の「被害者」としての「現実」や、「障がい者」の「障がい者」としての「現実」が、「日常」の中に埋もれてしまいかねないからである。

 このようなジレンマに直面することになった作品として、想田和弘の『精神』(2008)を挙げることができる。想田和弘は、題材に関する事前のリサーチを行ったり、テーマや構成をあらかじめ設定したりすることなく、ただ対象の「観察者」であることに徹し、説明的なナレーションや感情に訴えかける音楽なども排除した「観察映画」の提唱者として知られている。『精神』は、「観察映画」の第2作目にあたり、岡山県岡山市にある精神科診療所「こらーる岡山」に通う様々な患者たちを映し出す。

 「精神病患者」という存在は、その他すべての「障がい者」同様、社会の中でマージナルな場に追いやられ、様々な偏見やステレオタイプ化にさらされやすいという意味で、ドキュメンタリーという「現実批判」が介入するための「格好の」題材と言える。実際、想田和弘の師匠と言って良い「ダイレクト・シネマ」を代表する映画作家、フレデリック・ワイズマンの処女作は、マサチューセッツ州の精神異常犯罪者矯正施設を扱った作品、『チチカット・フォーリーズ』(1967年に公開されたが、マサチューセッツ州が上映差し止めの訴訟を起こし、1968年から1991年まで一般上映が禁止されることになる)であった。ワイズマンは、ナレーションやコメントなどを一切省き、主観的判断や政治的主張を避けるかのようにただ黙々と被写体に迫ろうとする作風で知られている。その立場は処女作から確立されており、この作品でも、全般的には、ただ施設の日常が淡々と映し出されるのみである。しかし、そのワイズマンでさえ、ある箇所で、非常にわかりやすくこの施設の劣悪な環境を断罪するようなモンタージュを行なっている。それは、食事を取ろうとしない患者に鼻からチューブを差し込んで食物を摂取させている場面なのだが、この場面に、同じ人物と思われる患者の遺体の処置を行っている場面がクロスカッティングによって入れ込まれるのである。それはあたかも、このような題材を扱う際に、中立的な観察者であり続けることは不可能であるということを示しているかのようである。

 では、想田のアプローチはどのようなものであったのか。想田はこの映画をカーテンの向こう側にいると思われている精神病患者たちを、健常者たちから隔てるカーテンを開いて描き出すことを試みた作品だと発言している。「こらーる」の医師、山本昌知は「本人の話に耳を傾ける」ことをモットーにしているが、想田のカメラもまた、患者の言葉に耳を傾けているように見える。はじめのシークエンスでは、泣き続ける女性患者にティッシュを差し出すのかと思いきや、自分で鼻をかむ山本医師が映し出され、そのすぐ後で、患者の一人にマッサージをし、最後に頭をたたく施設の職員が映し出される。冒頭からすでに、健常者と精神病患者という分割を切り崩そうとする想田の意図が示されている。そのことはこうした主題を扱うドキュメンタリーにありがちな顔を隠すモザイクの使用の拒否にも示されている。さらに、この分割の問いただしは、被写体となる患者と写す主体としての監督の分割の問いただしとしても現れる。ある男性患者は、饒舌に語りながら、気の利いたことを言った後で、自ら「カット」と発する。このユーモラスなシークエンスにおいて、患者の男性は、単なる被写体であることから、映画を演出する主体へと変容を遂げる。このように、想田は一貫して、精神病患者と健常者という分割の自明性を問いただしている。それがこの作品を、精神病患者の悲惨さを映し出すありきたりのドキュメンタリーとは異なるものにしている。精神病患者に対して付与されがちな一般的イメージのなかに彼らを閉じ込めることを拒否しているとも言えるだろう。それがこのドキュメンタリーを、「精神病患者」についてのドキュメンタリーではなく、人間のドキュメンタリーにしているのである。

 しかし実のところ、この想田の意図は、まさしく患者たち自身によって異議を申し立てられてもいる。それは正確には映画のなかではなく、映画のDVDに特典映像として収められた、なぜこの映画に出ることを承諾したのかという問いに対して患者たちが答える映像のなかでなされる。患者の一人が、「この映画は私たちの真の苦しみを見せてはいない。診療所にいるときというのは、どちらかと言えば調子の良いときなのであって、本当に苦しいときというのは自宅に一人でいたりするときである。それをこの映画は少しも見せていない」、と言うのである。実際、映画の最後で、この映画に出演した3人の患者が、その後亡くなったことが明かされる。そのうち2人は自殺だったようだ。映画のなかでは、そのような予兆は見られないだけに、この告知は見ている者に驚きを引き起こさずにはおかない。それはこの映画に対する無言の異議申し立てのようでもある。映画は「健常者」と「精神病患者」との自明の分割を問いに付した。しかしその結果、「健常者」と「精神病患者」を隔てる深淵は、映画自体によってではなく、映画の最後に現れる、出演した患者数名の死を告げるテロップによってのみ示されることとなったのである。

 この点において、想田和弘とは正反対の資質を持つドキュメンタリー作家である原一男の作品『さようならCP』は、『精神』と同じ前提を出発点としながらも、対照的な結論へと至っている。CPとはcerbral palsyの略で、脳性麻痺を意味する。登場人物の一人、横塚はカメラを健常者に向けて撮影しようとする。それは、被写体の地位に押し込められがちな障がい者にとって、自らが能動的な写す者になろうとすることである。それは、想田同様、健常者/障がい者という分断を越えようとする試みであると言える。それに同調するように、もう一人の登場人物である横田は、次のような発言をする。自分はアウトサイダーであって、インサイダーにはなれない。しかし、インサイダーだと思っている人間に、本当にそうなのかと問うことはできる。すべての者が、何らかの意味でアウトサイダーではないのか。そうだとすれば、インサイダーとアウトサイダーという区別は、意味をなさないはずだ。そして彼らは、車椅子によってではなく、自分たちの「足」で、這いつくばってでも移動する自由を要求する。しかしながら、当事者自身が、彼らと健常者を隔てるものに意識的にならざるをえない瞬間がある。横塚は、健常者にカメラを向けることの恐怖を繰り返し述べる。横塚は、CPが健全者と同じであることを日々主張しているにもかかわらず、自分に子供ができた時、その子がCPである姿を思い描くことは決してできなかったと告白する。 また横田も、自らの裸体をカメラの前にさらけ出すクライマックスの印象的なシーンで、結局、自分は保護されることでしか生きていけないのではないかという思いを吐露する。それは、自らの「不自由な」裸体を好奇の眼差しに差し出す、スペクタクルの対象となることを受け入れることであるかのようだ。想田が、ある意味映画外でほのめかすにとどめた深淵が、ここでは、境界を乗り越えようとする当事者たちの挫折を通じて、露わになるのである。 

 バリアの向こう側の「現実」をこちら側の人間に差し出そうとするフィクションと、バリアを撤廃しようとするフィクションは、相反するものでありながら、共に、「障がい者」が抱えている何かを取り逃がしてしまう。バリアの撤廃ということが、佐藤が言う「メディアが量産する様々なステレオタイプや、世間に流布している紋切り型の発想」となってしまっているように思える今、この一致は必然でさえあるのかもしれない。特に、バリアフリーが、社会や制度そのものの変革ではなく、個人の知的かつ/あるいは身体的なパフォーマンスとして提示され、賞賛される時、このフィクションは、差別や不平等をかかえた社会の現状を肯定するものになりかねない。「障がいがあるのに、こんなことやあんなことをできる人がいる、すごい、すばらしい、健常者と変わらない、いやそれ以上だ」という賞賛の裏で、今すぐにでも行うべき制度上の不平等や社会的な差別の撤廃が後回しになっていく。それはちょうど、個々人の奨励すべき努力として提示されるサステナビリティが、大企業や国家による大規模な環境汚染を野放しにしているのと同じことである。パラリンピックのアスリートも、自らの障がいを笑いに変えるパフォーマーも、個人のレベルでは賞賛されるべきものだろう。しかし、すべての健常者にアスリートの資質やお笑いの才能があるわけではないのと同様、すべての障がい者に、こうしたパフォーマンスができるわけではない。障がい者にバリアを乗り越えるパフォーマンスを期待する前に、すべての障がい者とすべての健常者が、様々な障がいや問題を抱えながらも、平等に自由を享受しうるような社会とはいかなるものなのか、それを実現するために国家や自治体は何をなすべきなのかを考えるべきなのだろう。



 この点で、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した、ニコラ・フィリベールの新作『アダマン号にのって』は興味深い。ニコラ・フィリベールは、ワイズマンの系譜に連なるフランスの映画監督で、聾唖者たちの世界を捉えた『音のない世界で』(1992)、ラカンとも親しかった精神科医ジャン・ウリが開設し、哲学者のフェリックス・ガタリが働いていたことでも知られるクリニック「ラ・ボルド」での患者たちや職員たちの生活、また彼らが上演しようとする芝居の準備などを捉えた『すべての些細な事柄』(1996)、オーベルニュ地方の村にある一クラスしかない学校での生活を描いた『僕の好きな先生』(2002)などの作品で知られる。

 アダマン号は、パリ近郊のヴァル=ド=マルヌ県の公立病院の管轄下にあり、パリ12区のセーヌ川の河岸に停泊する船の姿をした、精神病患者のための施設である。入院設備はなく、患者たちは日中にやってきては、カフェのくつろいだり、様々なワークショップや催しに参加したりして帰ってゆく。施設の性格や機能について詳しい説明もないまま映し出されていく日常から見えてくるのは、この施設が驚くべき自治性を持って運営されていることである。施設で催されるワークショップ、パーティ等の催しなど、すべてのことが、職員と患者たちの話し合いによって決められている。患者たちは会計にまで参加し、収支を計算したりしている。ここでは患者と医師を含む病院職員とのバリアが存在していないという印象を受けるのである。アダマン号で行われているワークショップの一つが、施設のあり方を体現している。参加者の一人が描いた絵を、その他の参加者たちが自由に論評するのだが、そこでは、作者の言葉は他の者たちの言葉以上の価値も権威も持っていないのである。それは異論がないということではまったくない。解釈は時に異なり、対立もするだろう。実施するワークショップをめぐっても、自分の意見が通らないと一人の患者が強い憤りを示す場面がある。しかし、すべての者は同じ資格で発言権があり、その発言は、それを行なった者の資格や立場によって階層づけられてはいなないように見える。このような側面は、『すべての些細な事柄』にすでに見られた。ラ・ボルドのクリニックでも、患者たちは食事の準備や受付での対応など施設の運営に参加している。実際、アダマン号はラ・ボルドの実践を引き継ぐものなのである。それは、医療機関という、「治療する者」と「治療される者」という権力構造がはっきりとした場を根源的に問いただす。『すべての些細な事柄』の終わりに近いところで、一人の患者がカメラに向かって言う。「医者に健康のことを決して語ってはいけませんよ。あなたを隷属させるかもしれないからね。「ラ・ボルド」では、私は隷属させられているのではなく、医師たちに差し出されているのです」。医療機関においてこのような「平等」が実践されていることの例外的性格は、今日のフランスにおいて、国民の大多数が反対している年金改革が強行採決され、それに反対するデモが警察によって暴力的に鎮圧されるなど、政治権力がますます強権的になっていることを考え合わせるなら、いっそう際立ってくる。

 確かに、映画は施設内の患者しか見せておらず、施設外にいる彼らの日々の苦労や苦悩を見せてはいないと批判することはできるだろう。しかし、フィリベールはセーヌ川に浮かぶこの施設をあえて外の世界から切り離しているかのように見える。一度だけ、パリの街の中に患者たちが食料を調達しにいく場面があるのだが、筆者が覚えている限り、患者たちは常に寄りでカメラに収められていて、街の中に溶け込んでいる姿が引きで捉えられることはない。健常者と障がい者が平等の資格で自治を行うユートピア的な社会は、パリの街から切り離されたセーヌ川の船上にのみ存在し、そこから外に出てしまえば、社会はいまだにバリアだらけで、様々な差別と不平等が渦巻いている。『すべての些細な事柄』でも、先ほど引用した発言の後、同じ患者が「ここでは私たちは外部から守られている。仲間内でいられる」と述べる。1年後にオリンピック・パラリンピックを控え、表面的な「バリアフリー」(実際のところ、それは上から下に施される「バリアフリー」に過ぎない)を掲げるパリに対し、アダマン号は、セーヌ川の上から、「バリアフリー」の別の「フィクション」が必要であることを静かに訴えている。







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