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萩原朔太郎 月に吠える序文 抜粋

今の時代は殺伐として叙情がない時代だなと思っています。

自分が紡ぎだした言葉ではないですが、萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)1886=1942年昔の詩人の月に吠えるという詩集の序文を抜粋で書きたいと思います。同じ時代の森鴎外などが彼の月に吠えるを絶賛したそうです。

月に吠える

詩の表現の目的は単に情調のたまに情調を表現することではない。幻覚のための厳格を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹(せんでんえんえき)することのためでもない。詩の本来の目的はむしろそれらのものを通じて、人心の内部に顫動(せんどう)するところの感情そのものの本質を凝視(ぎょうし)し、かつ感情を盛んに流露(りゅうろ)させることである。
詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

人間は一人一人に違った肉体と、ちがった神経をもっている。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
原始依頼、神は幾憶万人という人間を造った。けれどもまったく同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかった。人はだれでも単位で生まれて、永久に単位で死ななければならない。
とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされたうちゅうのたんいではない。
我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異なっている。けれども、実際は一人一人に同一のところをもっているのである。この共通を人間同士の間に発見するとき、人類間の「道徳」と愛とが生まれるのである。この共通を人類と植物の間に発見するとき、自然間の「道徳」と「愛」が生まれるのである。
そして我々はもはや永久に孤独ではない。

私のこの肉体と感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有していない。またそれを完全に理解している人も私一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもったものである。けれども、それはまた同時に、世界の何人にも共通なものでならなければならない。この特異で共通なる個個の感情の集点に、詩歌のほんとの「よろこび」と「神秘性」とが存在するのだ。
この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

私どもは時時、不具な子供のようないじらしい心で、部屋の暗い片隅に啜り泣きをする。そういう時、ぴったりと肩により添いながら、ふるえる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
私は詩を思うと、烈しい人間のなやみとそのよろこびをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者の悲しい慰めである。
詩を思う時、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

過去は私にとって苦しい思い出である。過去は焦燥と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であった。
月に吠える犬は、自分の陰に怪しみおそれで吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のような不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘付けにしてしまいたい。影が、私のあとを追ってこないように。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/859_21656.html

抜粋では良くないですが全文をどうぞ読んでみてください。

この昔の詩人の詩歌に私は救われるような気持になります。

時を越えて詩人の言霊に優しい乙女が私にも手を置いてくれるのでしょう。

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