個性のベールに包まれて




 自分は勉強が苦手だな、運動が苦手だな、と思ったりしたことは誰しもある。その度に、「あの人は勉強ができたりしていいなあ。あの人みたいになりたいなあ。」と思うこともあるだろう。もちろん、私にもある。

 そんな私たちの願いを叶えてくれるのが、今回の映画の舞台、理想郷「パラダピア」である。ここに住んでいる人たちはみな勉強もでき、運動もできる。しっかり働き、争いごともない理想の世界なのだ。

 この世界に踏み入れたのび太たちは、なんでもできる「パーフェクト小学生」を目指してしばらくの間パラダピアで生活することになることになるのだが、そこでの日を重ねるほど、みるみるうちに性格に変化が現れる。ジャイアンは乱暴ではなくなりスネ夫も意地悪ではなくなり、もはやそれまでの彼らの面影は跡形もないように見える。 
 一方のび太はあまり変化がなく周りの変化に取り残されるのだが、変わってしまったジャイアンやスネ夫と接しているうちに複雑な感情になり…というような内容である。

 この映画を観てまず思ったことは「完璧という不気味さ」である。パラダピアの住人たちがニコニコしながら働いたり、なんの間違いもせずに勉強したりしている様子は「いいなあ」という感情より、「なんか気持ち悪い」という感情を先に抱かずにはいられない。まるで彼らが人間ではない何かの装置かのように思える。
 恐らくのび太が抱いたジャイアンやスネ夫への感情もこれに類似したものなのだが、これよりももっと複雑で、言葉にしにくい感情だ。

 普段から殴られたり、物を奪われたり、仲間外れにされたりしていじめられてきたのび太にとって、そんなジャイアン、スネ夫が全くそういうことをしない優しい人間になることは極めて喜ばしいことなはずなのだが、実際に優しく、なんの害も与えてこなくなってしまった彼らに強い違和感と不安を抱くのはなんとも不思議な話だが、至ってこれは当然のことなのかもしれないな。
 無くなって初めてその存在を知るものは世の中にたくさんある。機械の中にはめ込まれている安全装置とかもそうだろう。無くなって初めて、見えない「それ」が働いていたことに気づく。
 今回のび太が失った「それ」について考えてみると、私は「個性のベール」だと感じた。暴力を振るったり、仲間はずれにしたりする悪行を「個性」とひとくくりにするのは少し抵抗があるが、今回は便宜上そうしておく。
 おのおのがおのおのの個性を持ち、それに従って生きている。のび太だけでなく私たちもそうではないか。のび太が日々被っている暴力や仲間はずれ、叱責は誰かの「個性」が作り出した環境である。すなわちのび太、そして私たちはそういう「個性のベール」に包まれながら日々暮らしいていると言っても過言ではない。
 そんな「個性のベール」の存在に私たちが普段生活していて気づくことなどまずない。それはなぜかというと、「個性のベール」が作り出しているのは私たちの日常生活そのものだからである。「この人はこう振る舞う」とか、「あの人はよくこのことを話す」とか、何気ない日常生活はどの些細な部分を切り取っても個性が絡んでくる。だからこそ、「個性のベール」はいわば私たちが暮らしている世界の外側にあるケージのようなものなので、私たちは気づきようがないのだ。
 のび太が抱いた複雑な感情は、きっとこの「個性のベール」の剥落によるものに違いない。それまでのび太の周りの日常を形作っていた個性が途端に消え失せたため、のび太は居ても立っても居られなくなってしまったのではないか。例え暴力を振るわれなくなったり、悪口を言われなくなったりしても、それが必ずしも快適なものとは限らない。それほど日常とはなにものにも代え難い貴重なものなのだということを気づかせてくれた。

 最近はむやみやたらと「多様性」とか「個性」とかが叫ばれ、もうそんな言葉には我々は飽き飽きしている。「ああ、あれでしょ。分かってる分かってる。」みたいに軽くあしらってしまっているように感じる(もちろん私もその1人である)。
 そんな中のこの作品なので、どうしてもありきたりな仕上がりなってしまいそうな気もするが、今作は全くそうではなかった。
 確かにこの作品は「個性の大切さ」を一つのメッセージとしているが、それはよくみる個性の重要さのアピールの一つではない。むしろ、この作品で描かれていたのは「個性が欠落した時の恐怖」である。このテーマだと直接的な個性のアピールより多少婉曲的になってしまうが、説得力は倍増する。全員が全員勉強ができ、スポーツができ、優しく、争いも起きない。それは果たして「理想」なのだろうか。そんなところまで考えさせられた。

 単純な映画自体の講評としては、とにかくテーマがすごい。実はネタバレになるので書いていないだけで他にもかなりチャレンジングなテーマを扱っている。
 そのほかにも、鳥肌が立つほどの伏線回収やピンチの時の絶望感は今まででもトップクラスだった。今後のドラえもんの映画の基準となる非常にクオリティの高い作品だったと思う。

 最後に一つだけ言わせてほしい(そのくらい良かったということも感じ取ってほしい)。
 タイムマシンなどでタイムワープするとき、もし自分が過去に行ったら、その当時の自分は実際にその当時未来から来た自分に合わなければつじつまが合わなくなる。過去に未来から来た自分に会ってないのに自分が過去にタイムスリップすると、記憶はどうなってしまうのか。
 ドラえもんをはじめとする「タイムスリップ系」にはこういうパラドックスがつきもので、作品で扱う上でもかなり難しい要素になってくるんだろうなと思っている。そういうことを踏まえて今作を観てほしい。あー、これ以上は言えないなあ。もう観るしかないね。

 よく分からないスマホゲームに何万円も課金しているそこの君。そんなことに使うなら、たった千円でいいからこっちに使ってみてくれ。いい銃を買うよりよっぽどいい経験があることを私が保証する。
 パラダピアの真実は皆さんの目で確かめていただきたい。


(これはこの映画が公開されたときに書いたものですが公開してなかったのでテレビの放送に合わせて公開しました)

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