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WD#95 つまらないを裁くな

最近結構しっかりめのやつが続いたので、今回は最近あったことや思ってることを何個か連ねていくいかにも日記らしい形にしようと思う。


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最近初めてPayPayを使うようになった。それまでなんとなく銀行口座の紐付けとかあると思っててめんどくさかったのでPayPayにまつわる話題をすべて無視してきた。

しかしどうやら普通に使えるらしいじゃないか。アプリさえ立ち上げればもうこっちのもん。こんなに便利なのか。早く誰か言ってよ。

そしてPayPayという選択肢を獲得してからというもの、文房具、本、外食、映画の予約、全てをPayPayに委ねるようになった。ここまで分かりやすくハマるとはね。なんか恥ずかしい感じがする。

こうしてPayPayを支払いの主軸にした生活になったわけだが、正直寂しさもある。それは、「小銭を使ったりして払う」という行為がかなり減ってしまったことである。最近はもうほとんどの人がクレジットカードなどを使う、いわゆるキャッシュレスというものになってしまい、小銭くんたちの出番はどんどん失われる。

現金派だった(単純にそれ以外の選択肢がなかった)私にとってそれは悲しい事実だった。あーなんかさみしい世の中になったなー、と思っていた。カードでピッとしたら終わりなんて、コンパクトな時代になったもんだよホントに、と思っていた。

しかし、遂に私もそちら側に1歩歩み寄ってしまった。財布を出す機会は激減した。お釣りをちょうど良くもらうために小銭を駆使していたあの日々の影はどんどん薄くなっていく。

切符からICカードに変えたときもそうだった。人数のボタンを押して切符を路線図を見ながら買うというあの仕草も、1年に数回あるかないかといったところだ。

こうして、日々の生活における動作の機微は次第にデジタルデバイスに集約されていく。私もこの事実を憂いてはいるものの、目先の利便性に気を取られ結局デジタルデバイスに飲み込まれている。

確かにこの技術で日常は豊かになっているが、その分失った感覚も多いと思う。ちょうど良く払ったおかげでお釣りで500円玉をゲットでき、それが新しい500円玉だったときのあの些細だけど確実な喜びを、いつかは味わえなくなってしまうということなのか。



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夢を見ることが増えた。それも、しっかり寝ている時ではなく、予定がない日の二度寝の30分とか、それくらいの短時間における睡眠でかなりの頻度で見るようになった。

そのうち、昔見たことがあるマップと全く同じマップの違う夢を見たのだ。

どういうことかというと、夢ってだいたいある一定の場所の中での出来事を見ると思う。家の中とか、遊園地とか、登下校の道とか。その中で、私は先日学校から帰って家に着く途中の道の夢を見た。

それも真夜中で誰もいないけど自分は半袖(冬なのに)、そして靴も履いていない。多分家に帰ろうとしてるんだけど、思い返してみると知っている地形ではなかった。急に工事現場みたいなのが現れたり。でもなぜか道は知ってて、スイスイ家に帰るんだけど、ある角を曲がるとなぜか急に朝になって自分の体がフワ〜と浮き出して目が覚めた。文章で書くと情けなくなってくるくらい夢すぎる。

そして本題は、このルートでの帰宅の夢は、過去に一度見た覚えがあったのだ。皆さんは同じ夢を何回か見たことは多分あると思う。私は雨が降る中傘を刺してる女の人が歩いてこっちにくるんだけど自分はいくら走っても全く前に進まず、その女の人の手が届くくらいのところで目が覚める、という夢を3回見たことがある。

でも、ステージは同じなのに内容が違うというのは初めてだ。確か前にこの道で見た夢は単純に迷子になって道が無限ループする夢だった気がする(こうしてみるとずっとやや怖い夢を見てるな、私)。不思議。

夢について思うことはもう一個あって、それが時間の流れ方。最近はさっき書いた通り30分くらいの睡眠でガッツリ夢を見るんだけど、本当にその夢が長く感じて、体感2時間くらいある。それで目が覚めて「やべ!寝過ぎた!」と思ったら30分しか経ってない、ということがよく起こるのだ。

これは一体どういうことなんだろう。夢の中は時間が進むのが早いということなのか。まあ夢は脳内だけで繰り広げられるから、時間も伸縮可能なのかな。すごいな。




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東進の受講がずっと危険で、この3月が本当に勝負。この3月の受講数次第で、今後の受験勉強の既成のスケジュールがどんどん乱れていくのだ。なので最近はひたすら受講をしている。

しかし、自分で選んで取っただけあり、毎回の受講で「なるほど〜」と感心してしまいなかなかサクサクできない。特に数学とかはめちゃくちゃ良くて、毎回「うわーすげー」となって食らっている。自分が純粋すぎるのかな。

そんな数ある受講の中でも曲者はやはり物理。東進の中でもかなり有名なラインの苑田先生という道で見かけたら一目散に違う道に行くであろうビジュアルの先生が教えてくれるのだが、これがまあレベルが高い。

まず、大前提として高校の物理では微積分はあんまり使わないということになっていて、公式などはもう覚えよう、というスタイルになっている(これが物理を嫌う人がいる理由の1つになっている気もするけど)。

しかし、この高校の教育指導要領はなんだかなーと思う。第一、物理がここまで学問として大成しているのは微積分のおかげであり、物理を語る上で本来微積分はなくてはならないものだ。オーケストラに楽器がいるように、物理には微積分がいる。そのレベルである。

それなのに、高校では都合が悪いのか知らないが微積分の香りさえも一切排除し、「公式」という形で私たちの元に数式が届く。

家に急に料理が届いたら怖くない?それがいつ、どうやってできたのか知りたくない?

でも、今の高校物理においては生徒は見知らぬ人が見知らぬ方法で作った料理を無理やり食べさせられているのが現状である。とてもいい環境とは言えないんじゃないか。

以上のようなことが、苑田の洗脳を受けると自然と思えてくる。この人の授業では当たり前のように微積分を使うので、私もそれに適応し始めてしまい、微積分を使わない物理の解説にいささか懐疑的になるようになってしまった。

だって本当に微積分のパワーはすごいんだもん。力学なんて、力学的エネルギー保存則とか、運動量と力積の関係とか、力のモーメントとか、全部運動方程式から導出することができる。学校では完全に別個体で習っていたものが、こんな単純なシステムで繋がっていたのかと知った時の衝撃。これを味わってしまうと、たとえハードでも苑田の授業はやめられない。

実際ここまで物理に熱を持つようになったのもこの人の影響があるし、得意教科として物理をあげてもいいんじゃないかというラインまできている。

どうせここまできたならこの受講を極めて、物理では完全無敵の存在になりたいな。ならなくちゃ。絶対なってやる。




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R-1グランプリを見た。密かに注目していた人が優勝したので嬉しかったな。

でもその人のネタって結構“慣れ”が必要で、数を重ねるほどどんどん面白くなっていく感じなので、Twitterとかでもやっぱり受け入れられてない人もいた。

いや、別に受け入れられないのは人それぞれの感性だからいいんだけど、なんかね、書き方が嫌なんだよな。

「この人の何が面白いの?ただうるさいだけって感じ。審査員にもガッカリ。」

こんな感じ。嫌でしょ⁉︎本来なら「この人の面白さあんまりわかんなかったなあ」だけでいいんだよ。でもなんかこれだと分からない自分を正当化して、分からないことをしている芸人、そしてそれに投票した人たちさえも悪とみなしているようにみえないだろうか。

わからないというところに問題があるんじゃない。その書き方。これは今のネット全てに思うことでもある。

一般人がTwitterなどの表現の場を獲得したことによって、「気に入らないこと」を書くことにためらいがなくなってしまっている気がする。書くのは自由なんだけど、もう少しここにブレーキを置いた方がいい。

せめて書くなら「気に入らないこと」のみを書くべきで、そこに「うるさいだけ」とか、「審査員にもガッカリ」とか、そういう私情を介入させるなって言いたいの。わかる?まあ気に入らないという事実も私情なんだけどさ。

でもここで一回考えてみてほしい。「つまらない」ってそんなに悪いことか?容姿を批判する言葉がどんどん規制されていく中で、ユーモアに対する批判の言葉は全く規制されず、むしろエスカレートしている。みんなすぐ「つまんない」と言える。こうした表現物を公開している身としてはこれはかなり怖い。

面白いものはどんどん言おう。でも内心それがつまらないと思っても、それは間違ってないから、胸に秘めときなさい。どうしても言いたいならその事実だけ言いなさい。つまらないと思ったことに対して余計なことをするな、と今私は声を大にして言いたい。







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