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WD#98 なぜ天動説を否定できるのか

春休みの期間を利用して東進の受講をバカスカ進めている私だが、度々ここでも触れている物理の苑田先生が話していたことがとても興味深いものだったので、今回はそれについて少し紹介し、考えてみることにする。


まず、皆さんは地球がどう動いているかご存知だろうか。

そりゃもちろん、太陽の周りを公転していて、他の惑星も同様の動きをしている。いわゆる地動説というもので、現在では当たり前である。

しかし昔はこうは考えられていなくて、地球を中心として他の天体が地球の周りを公転していると考えられていた。これが天動説ということくらい、誰でも知っていると思う。

じゃあここで読んでいるあなたに質問です。

「天動説は間違っているんですか?」

さあ、どうですか?

苑田先生は「間違いではない」と仰っていた。厳密に言えば、「間違っている、間違っていないといったクイズのような扱いができる話題ではない」と仰っていた。


そもそも、「天動説は間違っているか」という質問にYesと答えたあなた。なぜそんなことが言えるんですか?まあ、おそらく「地動説が今は定説になってるから」とか、「地動説じゃないと説明できない現象があるから」とか、そんなとこだろう。

とりあえず前者は良くない。当たり前だから疑う余地を持たないというその姿勢。危険だ。でもこの姿勢が行き過ぎると陰謀論と重なるゾーンも生じてくるから、程よく疑うことが大事だと思う。程よくってどのくらいかって?知らないよ。そんなのは。

そして後者。確かに地球の周りを他の天体が公転しているという単純なモデルでは火星の逆行現象などが説明できなくなる。

しかし苑田先生曰く、天動説の時代にもこの火星の逆行現象は確認されていたのだが、それで「ああじゃあ天動説間違いだわ」となったのではない。火星が地球の周りの楕円軌道上を動くのではなく、その楕円軌道上の点を中心にさらに円運動をしているという新たなモデルを作り上げたのだ。

つまり、地動説で言うなら太陽の周りを地球が公転していて、さらに地球の周りを月が公転している。そのうちの月のような動きを火星がしているのではないか、と考えた(わかる?すいません、説明が下手で)。

円運動の中心がさらに円運動をしていて、その中心もまた円運動をしていて…という操作を繰り返すとどんな曲線軌道も表現できる、というのは数学的にも有名な事実ではある。今回の解釈も、おそらくこの事実に基づているのだろう。

そして、このモデルでなんとか逆行現象は説明できてしまったのだ。そう、「天動説だと説明できない事実がある」という理由はほほ間違っている。天動説はそんな単純なモデルではなく、しっかりとさまざまな現象を説明できるように作られたものなのだ。


だからこそ。



なぜ今は地動説が定説なのだろうか。

だって天動説でも色々説明できるんじゃん。じゃあそれでも良かったわけじゃん。



その理由は価値観だ、と師は仰る。

宇宙は神が創造したものとされており、神のその力によって宇宙や星は綺麗な形で創られた。完璧な神だから、その星の動き方も美しいはずなのだろう、という宗教的考え方が根付いていたのが天動説の時代である。

しかし、そこからさまざまな科学者の解析により、もし天動説だったとしても円運動を重ねた形で表現することになる、ということがわかってきた。

果たしてそんな複雑な構造を神が創るのか?

宗教的考えに基づくなら、そんな疑問が出てくるのも当たり前のことだろう。完璧な神は、完璧な円軌道を創るのではないのか?

そうして人々が懐疑的になる中、コペルニクスなどの提唱により地動説が出現した。

なんと綺麗なモデルだろうか。太陽を中心として考えただけで、今までのような複雑な運動ではなくほとんどの天体が単純な円軌道で動くことになり、逆行現象も簡単に説明ができる。

しかもこの説は単に新たなモデルの提唱という形ではなく、「主観」から「客観」への切り替えでもあった。今まで自分たちを中心にするという極めて「主観的」な捉え方を宇宙にも拡張させていたが、地動説は我々人間も太陽を中心として動く1ピースにすぎないという「客観的」視点を獲得した。個人的にこれがかなり革命的だと思う。いわゆるコペルニクス的転回だ。

そして地動説は、このような「美しさ」により人々を惹きつけたのだ。その背景にはもちろん、「神が創ったならこれくらい綺麗であるべきだ」という宗教的価値観がある。

これが、価値観による定説の変遷である。


苑田先生のこの話を聞いたとき、私はめちゃくちゃ感動した。それと同時に、これが科学の姿なんだ、と少し察した気がした。

科学はとても理論的な学問だと思う。計算したり、観測したデータを整理したり、仮説を立てて実証したり。理系の人は理屈っぽいから嫌いだという人もいるとかいないとか。

しかし、理論の中だけで構築された事実が世間にすぐ受け入れられるのかというとそれはまた別の話だと思うし、ここが科学の中でかなり重要な点なのではないか。

今回の天動説と地動説も、互いに理論の中では成り立っていた概念である。じゃあなぜ今地動説が定説なのか、もう説明できるはずだ。

そこに関わっているのが人々の「価値観」。天動説を受け入れていた人々の価値観が、だんだん地動説を受け入れる方が都合がいいのではないかという価値観に遷移していった。

このことからわかるのは、「科学は思っているより論理的ではない」ということだ。全てが計算によって算出された完全なものを科学だと思っている方もいると思う(事実私はつい先日までそう思っていた)が、それは違う。科学の本質はむしろ、人々の考え方、例えば宗教的考えや地域的文化などにあるのではないだろうか。

昨今陰謀論などが蔓延したりするのも、このような個人の価値観が原因なんだと思う。まあ確かに、その科学的事実を受け入れるのは人間なんだから、その過程に多少なりとものバイアスがかかることは全くありえないことではない。流れてくる情報をそのまま鵜呑みにしているようではこんな社会じゃ溺れてしまう。




理論の中の世界では確実なことなのに、それが世間で確実になるには大きな隔たりがある、ということになる。そしてその隔たりは今回のケースでは宗教的価値観だった。

では、今現在この隔たりを作っているものはなんだろうか?最近は宗教の力もそこまで強くない人が多いような気がする。しかしそんな中でもこの隔たりは顕在だ。

ここからは私の推測だが(←変な家?)、それはインターネットだと思う。

最近は本当に本当にインターネットで情報が飛び交いすぎている。もし情報が目に見えてそこらじゅうを飛んでいたら、たとえ在来種でも全駆除したくなるくらいもうウンザリする。

誰でも発信できるようになった弊害として大きいのは、確証のないことが拡がるということだろう。「実はこの食品にはこんな成分が含まれていて毒なんです!」とか、「痩せたい人はこれ食べたら1発!」とか、「受験はこの科目さえやれば大丈夫!(←そんなわけねーだろ舐めんなよ)」とか、その種類は様々。

だからこそ、もし科学的な新しい発見があったとしても、スーッと人々に浸透することは多分なくて、そのプロセスでいろんな情報の攻撃に遭う。確証のない批判や解釈違いの批判、そういったものに揉まれることでどうしても情報がスーッと通過できなくなってきている気がする。

また、いわゆるリテラシーも影響しているだろう。こんな社会だからこそ、もうインターネットリテラシーがないとやってられない。それが各々どんどん強くなっていくことも、新しい科学が浸透する妨げになっている。まあリテラシーはあったほうが絶対いいわけだからこれは仕方がないことだとも思うけど。





文がフニャフニャし始めたのでまとめると、とにかく「理論の中での新しい発見」と「その発見が世間での一般になる」ということは全く別の話で、そのギャップは昔は宗教的価値観などで、最近はインターネットによるものだということだ。

私が今回の話を通して主張したいことは特にない。ただ、この苑田先生の話がとても興味深い内容だったので、それを紹介して少し拡張させてみただけである。

自分も一応理系の人間としてやらせてもらっているのでそこまで他人事ではない。他の方々も、このような意識は少しは持っていたほうがいいのではないだろうか。







(次回#99とその次の#100はかなり特別編なので普通の日記の2桁回はこれがラストでした!普通になるにはもうしばらく空きますが#99も#100も鋭意制作中ですのでお楽しみに〜♪)






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