戸籍の性別を再考する必要性

「生殖不能手術を求める法律」についての最高裁の判決が話題となり、戸籍に記載される性別について再考の余地があることが浮き彫りになりました。しかし、この話題に先駆けて、私は戸籍の性別について考えていたことがあります。具体的に、

戸籍の性別は、何を記述したいのか、その記述の意図は何なのでしょうか?

性別を判断する要因は、生物学的要因、個人のアイデンティティ、社会的・文化的要因の三つが考えられます。これらの要因をすべて記述すべきではないでしょうか?

まず、生物学的記述の必要性について考えます。時代や年齢、住む環境、仕事環境によって出生時の性別分布を検証するためには、生物学的な記述が求められます。現代では、性染色体(XYかXXか)以外にも、ホルモンの分泌量などが性別に影響を与えることが明らかになっています。ホルモン注射によって外見が変化することもあり、性別を正確に判断するためには、生殖器や性的特徴の記述が必要でしょう。ただしホルモンがいくら変化しても、出生時の機能は子供が産める機能があるか無いかのいずれかです。これは出生時はペニスが無かったが、成長とともにペニスがふくらんでくるケースがあるからです。この生物学的な記述は、本人やそれを取り巻く社会のためではない。環境ホルモン的要因で出生する性別に偏りが出る場合や、その死別特注の病気がどの年代に分布しているか、などなどは、正確な生物学的に記述する必要があるだろう。

ゲイバーで働く女装のコンパニオンに直接聞いたことがあるが、なぜ性別を変える必要があったかと聞けば、

「もしも女性として生まれてきていたら、男装している」

と語っていた。
このようなケースは一つの視点でしかないかもしれないが、すくならずこのような反骨精神に自分のアイデンティティを求める人もいるだろう。
しかし、よく考えてみると、自分が別の性別以外を生きたことが無いのだから、「これまで生きてきたの性別に対して」の違和感から性別を転換することになる。ようするに今の自分に納得がいかない人なのでしょう。

そもそもアイデンディというのは何か?

それは自分が社会に埋没することなく差を感じられ、自分らしく感じられることだ。しかしこの精神は現代的なもので、古来からあるものではないでしょう。それに似た現象として、平凡という言葉は今ではマイナスイメージが強い言葉だと現在では信じられており、子供に対しても平凡といういうと忌み嫌われる。しかしそもそもの意味は、風が植物の種をあちこちに運び何処にでも咲いているという意味なのだから、それは豊さを表現する意味であった。現在の文化全体が多様性というキーワードが個々に対してを社会が強力に強制しており、特別であることを要求しているだけなのだろうか?

子供たちをみていると、同じ親から決して同じ性格の子供が生まれないように、双子が同じ性格にならないように、指向性の特徴は本質的に備わっている。本質的に指向性は異なるもので、多様な指向性を目指すものではない。わざわざ大声で多様性を訴えなければならない必要性とは、個々に対しではなく、同一的に個々を扱おうとする分別制度を批判すべきである。男性女性という記述以前に「その人の性」を記述する必要があるということでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?