見出し画像

Wilcoを眼差すために/個人的アルバムスコアリング

Wilco来日公演の報せが届いたのが9月半ばに差し掛かる頃で、先日なんとかチケット当選のメールを受け取ることが出来ました。これまでも来日公演を控える段階でブラーやArctic Monkeysの作品を全て聴き、感想を残してきたので今回はWilcoのアルバムを全部聴いて感想をまとめます。理由は後述しますが、ただ好みの順番でランキングするというよりも時系列で彼らのアルバムを眺め、その道のりを理解しつつ、どのアルバムが好みだったのかが結果的に分かればいいなという企てです。


Wilcoへの眼差し⓪私とWilco

こういうところでしか自分語りが出来ないので、まずは私とウィルコの出会いから。初めてしっかりアルバムを聞いたのはコロナ禍に入った直後だった。大学やアルバイトにも行けず家で何をしていいかわからなくなった時、聴いてこなかった「名作」と呼ばれる諸作を片っ端から耳にぶち込む中で聴いた作品が「Yunkee Hotel Foxtrot」だった。そもそも歪んだギターを基調としたいわゆるギターロックしか聴いてこなかったのだけど、一聴して頭の中に荒涼とした風景が立ち上がり、メランコリックな歌声がスッと入ってきた。タイムレス。そのアルバムが当時のアメリカを憂いて制作されたと知るのは後になってからだが、その憂いはどんな時代であっても対象が何であろうと常に静かに佇まい続けている。私の場合は丁度コロナ禍という状況がアルバムの中の憂いと合致していた。そしてWilcoを起点に中高時代に聞いていたPavementやYo la tengoやBeck、ダイナソーJr.といったバンドらが点と点を結ぶように連なった。UKロックこそ志向、と思っていた私は徐々にUSインディーと呼ばれるアーティストへ食指を伸ばすことになった。

その後サークルでコピーをするなど、ここ数年はかなり「心の友」「ライブラリの良心」的な存在になっています。



Wilcoへの眼差し①ジャンルへの私見とUncle Tupelo

Rate Your Musicを覗くと「Alt-Country, Indie Rock, Alternative Rock, Americana, Folk Rock, Art Rock」、AOTYを覗くと「Indie Rock, Alt-Country, Alternative Rock, Art Rock, Pop Rock」とタグが付いている。

確かにジャンルなどタグを付ける行為でしか無いのだから勝手にすればいい。しかし、そのタグ自体が曖昧であると分かりにくい。ここではいくつかの書籍を元に私なりにこれらのジャンルを解釈したい。

オルタナティブ…メロディー楽器を旋律を奏でる/和音を奏でる以外の用途に使おうとする態度。音響的挑戦。ソニックユース、マイブラ、ジム・オルーク、DINOSAUR Jr.、ナンバーガール、bloodthirsty butchers。勿論それまでにジミヘン、60年代サイケムーブ、ツェッペリン、テレビジョンといったギターを用いたバンドの足跡があることは確かである。その上でシンセサイザーやコンピューターの発達といった技術的発達を受け止めた上で音を音や響きとして捉える精神性が「オルタナティブ」。

インディー…試行錯誤、DIY、定住しない、そういった態度の集積としてのインディー。意志の集積でありながら何かの要請ではない音楽。例えばミュージックマガジンではメジャーレーベルからのリリースということを理由に「YHF」をインディー作品、としていない。確かにそうなのだが、「YHF」にはジム・オルークを招いてポストロックや音響派と接続するという功績があり、メジャーシーンでのリリース以上の挑戦や意図がある。インディースピリッツと呼べるものが眠っていると感じる。

フォーク…高田渡、早川義雄、遠藤賢司、ボブディラン...と「フォークシンガー」と呼ばれるアーティストには共通する要素があるように思う。それは「個の発散」という側面で、個人を取り巻く社会に対してあくまで自分事で立ち会うような密やかさが''フォーク''とカテゴライズされるアーティストには共通して存在している。

カントリー…ここ近年カントリーの勢力が拡大しているという。この記事に詳しいが、ロック的サウンドを取り組んで従来のロックファンを引き付けている。一方で極端な保守思想を抱えたアーティストが支持されている側面もあるという。サウンドとアティチュードの距離感はWilcoについて考える上ででも役に立つ。音楽性としては主張が少ない2ビートにバンジョーなどアメリカの伝統楽器が使われている朗らかなサウンド、とカテゴライズできる。

これらの組み合わせがwilcoである、とするのは間違いではないだろう。ではこういったWilcoの要素が何処からやってきたのか、それを紐解くためにWilcoの先進バンド、Uncle Tupeloの作品について考えたい。

フェラデルフィアで結成されたUncle Tupeloはフォークロックバンド・Son Voltの中心メンバーであるジェイファラーとWilcoのフロントマン・ジェフトゥーディーを中心に結成された。彼らの作品の中でもリマスターがなされるなど最も評価が高い作品「No Depression」について見ていく。

ルーツ回帰の側面というよりかは単純にバンドとしてのハリのある演奏が耳に入る。カントリーっぽいコード進行もかなり歪んだトーンのギターによりむしろグランジやオルタナに近い響きに聴こえるからか、ジェフトゥーディーの持つささやかな祈りを反映したような繊細さという側面はあまり見えない。3曲目などはキメの多用、ドラムの直情さなどフガジを代表する当時のパンク~ハードコアシーンとも共鳴しているようと言われるのにも納得がいく。とはいえ音色は違えどほとんどの曲で我々が思い浮かべるようなカントリー由来のリードギターのフレーズが鳴らされており、Uncle Tupeloは「カントリーと当時のインディー圏のロックの融合」という点ではどの時期のウィルコよりも色濃い物がある。

そう、ウィルコを語る際には「カントリーを現在進行形でロックの文脈で再構成したバンド」というよりも、Uncle Tupeloで辿り着いたその地点からどういった要素を取り込み、あるいは捨てて、どう音楽的な発展/ソングライティングの向上を果たしたのかを見る必要があるのではないか。



Wilcoへの眼差し②聞き並べたアーティスト

続いて、Wilcoを味わうために私が補助線として聞き連ねたアーティストを何組か挙げる。音楽史から分かるWilcoのルーツやインタビューで挙げているアーティストではなく、私の脳内ライブラリから引っ張り出したミュージシャン達です。

Neil Young
言わずとしれたソングライターの大御所・ニールヤングですが、私は2週間前に初めて聴いた。特に「After The Gold Rush」は少年のような純粋さで胸の奥を掻きむしっていく歌心、想像よりノイジーに、90年代オルタナさえ思い出す暴れるエレキギターのバランスに衝撃を受けた。WilcoはもちろんUSインディーシーン、中村一義やくるりといったフォークロックらにも影響を与えたというか、アコースティックギターと歪んだギターを組み合わせたらニールヤングからの呪縛は逃げられないんだぞ、くらいの大きすぎるマスターピースだと知れた。


Meat Puppets

Wilcoの60年代から70年代にかけての音像を想起させるフォーキーで普遍的なソングライティング、という側面は初期のMeat Puppetsと重なる部分が多い。特にドラムの抜き差しとか、アメリカの郊外を思わせる空気感とか、たまに入るカントリー由来の手癖っぽいフレーズなど。後に彼ら自身のルーツであるプログレを取り込んだり、グランジ色がかなり強くなる。

Luna
元GALAXIE 500のメンバーによって結成されたLunaはGALAXIE 500のドリームポップを引き寄せるような浮遊感は端に置き、地に足のついたメランコリックなムードの佳曲をアルバムに多数収録している。Wilcoと通じる点は歌の抒情をそのまま出力するギタープレイだ。ネルスクラインように楽曲に尽くすために内側を曝け出していようなソロに圧倒される。


Wilcoへの眼差し③彼らにとってアルバムとは

ようやく本題に。結論から言うと、Wilcoはアルバムにおいて「解放と整地」を繰り返している。”メンバーチェンジや外部プロデューサー、あるいは新たなビジョンの獲得で起きた変化を出力するアルバム”と"その変化で生まれた要素を取捨選択しシャープにまとめ上げたアルバム"のリリースを繰り返して自分たちでWilco史を作り上げている。そう言う意味で全部のアルバムを時系列順で聴く試みと相性が良い。

そしてもう一つ、「空間のデザイン」とでも名付けたくなるような”音が鳴っている空間”への気配りはWilcoのアルバムを聴く上で重要な要素だ。彼らの出身であるシカゴ、特に90年代中盤から終盤にかけてのシカゴは「シカゴ音響派」と呼ばれる録音/ミックス/ポスプロ/アナログとデジタルの質感といった点での革命が行われた地である。Wilcoはジムオルークとの共同作業なども含め、音が鳴る空間をどうデザインするかという視点を持ち続けたバンドだ。それは”フォークに根差した普遍的なソングライティング”という軸と同じくらい太くディスコグラフィーを貫いている。


wilcoへの眼差し/全アルバムレビュー

1st 「AM」(1995)

ファーストアルバムらしい荒々しさや洗練されてなさを多分に含んでいる。特に序盤は主に2本のエレキギターを推進力にして進み、Pavementらと共鳴するような要素を楽曲の端々から感じることが出来る。前身バンドUncle Tupeloの地続きだ。まだアルバムという場を用いた音響的な実験は行っておらず、アコースティックギターを弾き語りして曲を作り、それにバンドアレンジを素直に加えたような佳曲が連なる。中盤「Pick Up the Change」「I thought I held You」は2000年代のウィルコの黄金パターンであるアウトロでの楽器の絡み合いで絶頂を迎えるような瞬間がみられる。ルーツを匂わせるカントリーナンバー「That's Not the Issue」もそうだが、これからのウィルコの取捨選択を知れば知るほど楽しめる作品なのだろう。新鮮さは無いが、アメリカの大地のデカさや豊穣さを感じるような説得力を持つバンドだということが良く分かる。

スコア:7.5


2nd「Being There」(1996)

 9曲1時間半に迫るボリュームと、1曲目「Misunderstand」を聴くだけでこのアルバムがwilcoの目指す地平を定めたアルバムだということが分かる。その地平が「空間のプロデュース」だ。アルバムというフォーマット、楽曲という数分間をいかにデザインするかという軸があるからこそ「グッドメロディーにグッドアレンジ」という凡百なバンドに成り下がらない。1曲目「Misunderstand」におけるギターノイズと静謐なピアノと歌唱のみの時間を行き来し最終的に叫び声とダイナミックなキメで曲を締めつつ最後にアンビエンスを漂わせるアレンジは同時代のSonic Youth、あるいはポストロック勢、そして海の向こうのRadioheadらと通じる美学が垣間見える。その後もピアノとエフェクターを多用したギターで歌声を包む「Far,Far Away」など、この空間のプロデュース、空間のデザインという視点はこの作品に限らずひとつの軸になっていく。ただ、あくまで1stに連なるロックマナーに則った曲がほとんどを占めていて、「I Got You(At the End of A Century)」なんかはその最たる曲でオールディーズ風味の曲を真っ当から演奏する呆気なさもこのバンドの荒涼とした魅力に連なっているのかもしれない。
 アルバム自体も長いは長いが「Say You Miss Me」でしっとり終わるDisc1、ゆっくりと深い沼に落ちるように展開する「Sunke Treasure」で始まるDisk2と対比が効いており冗長さは無い。
 これも1st同様、本作以降のWilcoを経ることで旨味が増していく作品ではあるが、精神性としてオルタナティブであろうとするWilcoらしさの獲得の第一歩としての意味を持っている。

スコア:8.0


3rd「Summerteeth」(1999)

いきなり洗練度合いがグッと上がった印象を受ける3枚目ですが、全編を通して作品の軸となっているのがピアノやオルガンといった鍵盤楽器です。ピアノのタッチが後期ビートルズを思い出す「Can't Stand It」、The Doorsのごとき雄大なサイケデリアを生み出すようなオルガンが心地よい「We're Just Friends」など前作前前作と比べてアレンジのレンジの広さや安定感が増しています。いわば職人芸のようなアンサンブルの組み立て方は今後のウィルコの土台となる要素となり、これからウィルコを聴く方に強く薦めたい一作でもあります。「Via Chicago」といった曲で見られるアンビエンスと歪んだギターをミックスさせたようなサウンドは2枚目で見せた「空間をデザインする」というウィルコのひとつの軸を改めて提示しているよう。

スコア:7.7


4th「Yankee Hotel Foxtrot」(2002)

 当時のアメリカの社会情勢を踏まえた曲の掘り下げについては他の記事に譲りますが、「War on War」「Ashes of American Flags」らに見られる1人のアメリカ市民・時代を生きる個人としての視点は時代性を残す芸術作品としての価値に溢れている。
 ただ、それ以上にこのアルバムのサウンドデザインの巧みさに舌鼓を打ってしまう。2枚目、3枚目で芽を出した「空間のデザイン」という軸の先に音響派と呼ばれたジム・オルークによるプロデュースが行われたことは必然といえる。スタジオの空気感、それを包括するアメリカ都市の荒涼とした雰囲気を余すこと無くパッケージングした録音は前作と比べても段違いに立体感があり、実際にジャケットのビルを現地で見上げている気持ちになるのは私だけでしょうか。一方でポストロックのような意図され尽くした電子音楽に近づいたアプローチではなく、血の通う雑然さや人のヨレといったニュアンスを多分に含んでいる点にオルタナフォークの到達点としての威厳を見いだすことが出来る。
 「Poor Places」の後半のようなシューゲイズ風味に空間を埋め尽くしつつ轟音では無い、という巧みなバランスのサウンドデザインはThe NationalらUSインディーフォークに属するアーティスト共通する発明であり、大好きな音像です。

スコア:9.0


5th「A Ghost Is Born」(2004)

ビートルズでいえばホワイトアルバムなような、ウィルコによるラフな一筆書きという印象。ギターのアドリブソロを数分続けたり、velvet underground~ジャーマンロックを思わす執拗なビートとギターリフのダイナミズムを組み合わせたりと、前作の反動か思い思いにラフスケッチを重ねている。半数以上の曲で強く歪んだギターソロが聴けるが、これは全てソングライター・ジェフによるプレイだ。技巧派ではないが、かなり直情的かつソニックユースにも連なるような前衛的なソロはジェフの嗜好を理解する上で有用だ。そして、前作の比較からやはりウィルコは解放と整地を繰り返してキャリアを紡ぐようなバンドといえる。ピアノのヨレたタッチとか、アコギの弦と指が擦れる音とか、そういう些細な瞬間を美しくパッケージされていることにも意味がある。

スコア:7.7


6th「Sky Blue Sky」(2007)

 ギタリスト・ネルスクラインが新たにバンドに参加した記念すべき大作。ネルスクラインはテレビジョンといったロックバンドから影響を受けながらもジャンルを横断してサポートギタリストとひて活躍しつつ、兄弟でジャズ作品をリリースするなど射程が広いギタリストだ。90年代の作品に顕著だったルーツ指向から離れ、前衛と普遍を包括するような作品にトライし始めたウィルコにとってこれ以上無い人選だったのだろう。
 実際に「Impossible Germany」「Side with the Seeds」では職人芸のような緻密な構成と直情さで聴かせるリードギターを堪能することが出来るし、ギターソロに限らず曲に込められた機微を具体化するようなそっとバンドを支えるプレイも聞き所のひとつだといえる。とにかく私はネルスクラインというギタリストが好きで、例えばライブ映像を取っても常にフレーズや音使いの変化を重ねている。岡田拓郎の作品にも参加するなどその探求心には頭が下がる。

スコア:7.5


7th「Wilco(The Album)」(2009)

 セルフタイトルの作品には①「The Beatles」といったバンドの可能性を提示する作品、②「oasis」「The Stobe Roses」のようにデビュー作品に冠する場合、そして③キャリア中盤にリリースしてそこまで積み上げて来たものを提示する作品、と大体3種類に分けられると思う。ウィルコ「Wilco」は①と③に分類できる。ビートルズ後期直系のピアノとコーラスワークを交えたポップソングに泥臭さを加えた曲からネルスクラインのギターによるバンドアンサンブルの深化という可能性。
 これを提示した作品になっているのが「Wilco」だ。ウィルコはピッチフォーク史観を作り上げてロックをメジャーの舞台から図らずも下ろしてしまったバンド、という評価を受ける。確かにこのアルバムはそういった大衆に膾炙するアルバムでは無いだろうが、ウィルコのこれまでとこれからを示す彼らのディスコグラフィー上では必要な作品だ。

スコア:7.3


8th「The Whole Love」(2011)

 アルバムの曲目の構成が「これまでのスタンダードなウィルコらしいギターロックナンバー」「音響・構成に凝った実験的ナンバー」をほぼ交互に並べる、というもので「解放と整地の繰返し」という私が思うウィルコの歩みを体現しているな、と納得感が凄い。そこまで特筆するようなものは無いが、12分に渡る派手な展開が無いフォークナンバー「One Sunday Morning」を聴かせてしまえるピアノを中心に据えたサウンドの構築の丁寧さはこのバンドの美徳である。

スコア:7.0


9th「Star Wars」(2015)

 ブラウザ版Spotifyだと再生バーがライトセーバーになる仕様でお馴染みの「Star Wars」であるが、ここに来て全体的なサウンドメイクが非常に溌剌としたものになった。「EKG」「Random Name Generater」で見られるエレキギターやアナログシンセサイザーの歪んだ音の使い方とそのフレーズ自体の組み合わせ方で曲を推進する。00年代後期のアンビエンスを取り入れた空間作りとはまた違う方向性を提示している。音がとにかく耳に近い。新鮮だ。それこそネルスクラインのルーツだというテレビジョンといったポストパンク寄りのロックバンドの雰囲気もある。33分というランニングタイムを含めて一種の潔さのようなものを取り戻そうとしているようだと捉えた。

スコア:7.6


10th「Schemilco」(2016)

 ディスコグラフィーの中で最も地味なアルバムだ。前作でぎゃんぎゃんに鳴っていたリズムギターは姿を消し、アコースティックギターを中心としたフォークソング集が並んでいる。インディーロックマナーに沿ったロックソングは一切なく、ルーツであるフォークに立ち返った。ただそれに終始しているわけではなく「Common Sense」での電子音やアンビエンスを備えたトラック、「Nope」のスネアの空間への反響音を含んだサウンドなどからはシカゴ音響派らと連なる思想を読み取れる。wilcoの「空間のデザイン」の美学を極北といえる。

スコア:8.1


11th「Ode To Joy」(2019)

 前作「Schmilco」のスタジオに閉じこもった質感と比べて「Ode To Joy」は少し開けた様子が窺える。開けた、というよりダイナミックにレンジが広がっている。野外でのライブ演奏とはまた違う楽器一つ一つの音の広がり。「空間のデザイン」と等身大のフォークソングの宥和具合で言うと「YHF」にどこか近いバランス感覚である。ただ、そういった「中年バンドの充実作」という印象で終わらない理由は「歓喜の歌」というタイトルとアルバム全体に満ちるメランコリックの具合の舵取りの巧みさだ。決して「明るい」にも「悲しい」にも加担しない、グレーな淡いを歌っている。当時のロックやインディーフォークの状況、あるいはトランプ政権下の世界を受け止めつつ、実直に音を鳴らす彼らのたたずまいの頼もしさは格別だ。

スコア:8.3


12th「Cruel Country」(2022)

セッション主体のアルバムで、かなりラフな手触りが愛おしい作品です。コロナ禍を反映させたアルバムは多くありますが、本作はむしろコロナ禍を表現することをあえて避けているような響きがあります。良い意味で気負わない、ウィルコがウィルコらしくウィルコの曲を作り上げるスタジオセッションのドキュメンタリーのよう。初期作以来のカントリー風味の曲もいくつかあり、その点からも懐かしさという言葉が浮かぶ。決してわたしの幼少期にカントリーを聞いたという記憶は無いのに不思議とノスタルジーを覚える。ウィルコは手札を広げてから次の作品でそれをシャープに届ける、という製作を繰り返しているので今年発売される最新作は本作で顕れた要素を抜き取って製作されるのではないか。

スコア:7.1



以上です。来日公演めちゃ楽しみですね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?