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誤魔化しの褒め言葉

大学の時、初めて作ったゼミの発表用の資料に、先輩がつけたコメントが今だに忘れられない。

私は大学時代、江戸末期から現代までの企業の経営史を研究するゼミにはいっていて、最初に扱ったテーマが「官営八幡製鐵所」の歴史だった。
「官営八幡製鐵所」は、明治時代に創業した日本最古の製鉄会社で、今の日本製鉄株式会社の大元になった国策企業である。

今みたいにインターネットもPCもない時代。
明治や大正時代の事を調べるには、図書館しかない。専門書を求めて連日国会図書館に通い、開館から閉館まですごす。
国会図書館は、全て閉架。カードを手作業で繰って、必要な資料を探し出し、申し込み用紙を記入して出してもらう。それを大急ぎでチェックして、図表や写真のページを書き出し、また申し込み用紙に書いて、コピーをしてもらう。貧乏学生には法外なコピー代なのと、一度にコピーを依頼できる枚数に制限があって、仕方なくテキスト部分は、手書きでメモをとる。

今だったら、表計算ソフトにデータをコピーして、ばばっと計算できてしまう数値データも全て手計算。
電卓を叩いて、定規を使って手書きで表やグラフを作った。

そうやってコツコツ資料を集めて読んで、1か月誰にも会わず、寝る時間も惜しんで、食事もろくに食べずに、篭りきりで発表の準備をした。

プレゼンの日、同級生が、先輩たちにコテンパにやられる中、奇跡的に私の発表は上手くいった。
質問にも全部卒なく答えたし、大崩れしなかったのは学年で私ひとりだった。

ちょっと有頂天になったところに、それまで黙っていた先輩が「一言だけいいかな」と口を開いた。

どうしても気になる一言がレジメにあるんだけとね。
「人々の弛まぬ努力によって」という、ここなんだけど。

「うわーっ!痛いところを突いてきやがった!」

咄嗟にそう思った。

限られたレジメの枚数の中に、無駄なく情報を入れるために、一言一句検討しながら言葉を選んで資料を作ったのに、その部分だけは、どうしても事実関係が調べても曖昧で、明確な事を書けなくて、とりあえず取り繕うために「人々の弛まぬ努力」におすがりしたのだ。 
それをあっさり見抜かれてしまった!

先輩がボソボソと続ける。

あのね。明治時代に日本で最初の製鉄所を作るのにね。
国が大混乱してる中、産業を興すのに、努力しない人なんか、関係者にいるわけない。
みんな、めちゃめちゃ努力してるわけ。そんなの当たり前なわけ。

けどね。努力したから物事が上手くいくんじゃないんだよね。必ず上手くいった理由があるのに、そこに目を向けずに、「努力」なんていう美談にして誤魔化すのは、「人々」にも歴史にも失礼だと思うよ。
もっと人の仕事に真摯に向き合った方がいい。物事の表面だけ見て、「あー頑張ったからできたんだねー」で済ますのは学問研究ではナシだと思う。よく考えてみて。

ぐぅの根もでなかった。
天国から奈落の底にどどーんと落ちた。
私のそこまでの「弛まぬ努力」が、「弛まぬ努力」によって台無しになった瞬間だった。
ただただ悔しかった。

——————

それ以来、私は人の努力を安易に褒める事をしないようにしている。
努力するのは当たり前。大なり小なり、みんな努力している。
なにかいい結果を得られた時、努力以外の「本当の理由」に目を向けるべきだ、という先輩の教えを超える考え方に、いまだに出会ってないのだ。

よく、「努力の人」と称賛される人がいる。
アスリートや芸術家や研究者や。
なにか大きな功績を残した人で、努力を称賛されないなんて事は、まずない。
みんな他人の努力が大好きなのだ。最高の美談だから。

でも、ふと思う。

「努力」というプロセスを褒められて、嬉しいだろうか。と。

「努力」を褒めるのは、褒め言葉の中でも簡単な事だ。
結果に関係なく、試合に負けても「頑張って努力して偉かったね」と言える。
子供や学生ならそれもいいかもしれない。
成長過程で、努力する事を学ぶのは必要だし。
でも、とは言え、とりあえず、褒め言葉に困ったら使える誤魔化し、気休め、とも言える。

さらに言うと、プロの仕事に対して、「努力の賜物」と称賛するのはどうなんだろう。

結果が出せなかったプロに、「結果は出なかったけど、努力はさすがです」と褒めるだろうか。
それ、随分失礼な話だよな。

成功したプロに、「努力が実を結びましたね」というのはよく聞く。
けど、その道でやっていくと腹を括って、仕事にしてる人なのだ。そのために努力をするのは当たり前。それをほめられても「当たり前の事をしましたね」と同義だ。
それも、なんだか失礼じゃないのか。

そうではなく、もう一歩踏み込んで、なにをして、どういう結果になったのか。その結果に至るまで、なにがどう良かったのか、なぜ、そこまで頑張れたのか、といった努力の方向性や原動力に真摯に向き合う事こそが、その人の努力に対するリスペクトなんじゃないか。

成功を「弛まぬ努力」のせいにするのは、誤魔化しだ。
改めてあの時の先輩の言葉を思い出す。
だから、私は努力した事自体を褒めるのは、これからもしないつもり。

代わりに、努力に対するリスペクトを誤魔化さないで、ちゃんと書いていこうと思う。

8回目の月命日に。

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