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【ミュージカル】『モーツァルト!』は救いのない究極のファンタジー

『モーツァルト!』のレビュー後編です。
『モーツァルト!』を楽しむための周辺情報について書いた前編はこちら。

この後編では、ミュージカル『モーツァルト!』において、モーツァルトがどう描かれていたかを中心に、作品をレビューしていきます。

『モーツァルト!』は苦悩の物語

『モーツァルト!』のヴォルフガングは、チャラチャラしつつも、苦悩する人です。特に後半は狂気の世界に入るレベルの苦悩。

ウィーン系ミュージカルだから、そりゃ苦悩する辛気臭い話なんだろうと予想していたけど、前編で書いた通り、私の中ではチャラ男君のモーツァルトですから、まさかここまで苦悩させるとは!

というのが第一印象でした。

ヴォルフガングは、どんなにもがいても幸せにはなりません。いろんなしがらみが彼につきまといます。
ある意味、引き寄せてます。面倒くさいドロドロを、諸々引き寄せてる人がヴォルフガングなのです。

さらに、苦悩するのはヴォルフガングだけではありません。子離れできないパパ、思い通りにならない人生を嘆く姉、ヴォルフガングを愛しすぎて空回りばかりの妻、とにかくみんなで苦悩しまくっております。

また悪役の大司教も、なにもかも思い通りにできる権力がありながら、常に満たされない焦燥感に苛まれている人物。
ウェーバー一家も、これまたひどい人たちだけど、ノー天気に見えて、本人たちは決して幸せじゃない。

誰一人幸せな人が出てこない。誰一人いい人も出てこない。

これこそがウィーン系!

言い換えると『モーツァルト!』は、人間の中にある、醜いところだけにフォーカスして作られる物語なのです。

あぁ、暗い。暗すぎる。

人間の醜い部分って、普段はみんな何重にもベールで覆って、見せないように、また、見ないふりをしてる部分なのかもしれません。
だけど、怖いもの見たさで見たかったりもする。だから、敢えてそこを切り出す事でドラマが生まれるのです。しかもかなりエグいドラマです。
精神的なホラーとでも言いましょうか。エグさによって描かれる、究極のファンタジーなのです。

悪趣味の極みです(褒めてます)。

アマデの存在はその最たるもので、エグさを具現化しています。
可愛らしい少年の心を具現化しているように見せて、実は、ヴォルフガングが1番向かい合いたくない相手は、アマデです。RPGで言えば、アマデはラスボス。
ラスボスとの対決の結果が、あのラストでいいのか?というのも、ウィーン系だからあれでいいのだと思います。

しかも、ラストで、誰かの魂が救われたのかと言えば、救われていない。
だれも幸せになれない物語。

劇場を出て、日常に戻る時、この当たり前の日常のありがたみが、二割り増しに感じるのは、ほんの少しでも幸せがそこにあるから、なんだろうな。暗い世相にはぴったりの、観た人をちょっぴり幸せにしてくれるドラマなのかもしれません。でも、甘い薬ではなく、めっちゃ苦いやつ。良薬は口に苦し、です。

さて、そんなヴォルフガングは、どんな風に演じられていたのかというと、後半の苦悩まみれになる部分の熱演は、お二人とも素晴らしかったのは言うまでもありません。違いは前半かなと思います。前編でも書いた通り、私のモーツァルトに対するイメージは、チャラチャラしたテキトー男のイメージです。物語の中では、そんなシーンもあります。そんなチャラチャラぶりをイキイキと天真爛漫に弾けて演じていた郁三郎さん。「プリンス系」出身(?)らしくて、郁三郎さんならではだったと思います。
一方で古川ヴォルフガングは、いつもどっか影を引きずっている。あまりチャラくない。苦悩の固まり。その雰囲気がロックで、新鮮なモーツァルト観だなと思いました。生真面目にストイックに役に挑み続けておられる古川さんらしい役作りだったと思います。

好みは別れるところだと思いますが、まったく違うアプローチでありながら、どっちも破滅に向かっていく人物像としてありだなと思います。
やはり、2人とも拝見できて、よかった!

『モーツァルト!』は家族の物語

作中にも出てくる「レクイエム」は、モーツァルトが最後に手がけた作品です。「レクイエム」とは、カトリックのミサ曲の一種で、亡くなった人の安息を祈る歌です。人生の最後にレクイエムを作曲するとは、なんとドラマチックな!と思いがちですが、モーツァルトのレクイエムは色々曰く付きでして、ご興味のある方は、とりあえずこちらを。

モーツァルトのレクイエムをめぐる史実についてはもともと知ってたので、レクイエムの依頼主がパパの亡霊のような設定になっていたのは、おぉ!そう来たか!と。あれはとても面白い発想だと思います。

ヴォルフガングの事を心配で心配でならないパパは、亡霊になって現れて、息子の中で暴れまくる魂を鎮めるための曲を依頼していったのか、と思うと、親子版『ゴースト』です。究極の親子愛とも言えるし、死してもなお子離れできない毒親とも言える。いろんな受け取り方ができて、史実よりドラマチックで面白いなぁと思います。

でもって、息子はそんな父親の愛(?)に気づいていない。
さらに苦悩を深めてしまう。最後までわかり合いたいと願いながらすれ違う親子。なんと救いのない事か!

ヴォルフガングの唯一の理解者である姉は、一旦は恨言を言って去って行ったけど、ラストで戻ってきます。
ヴォルフガングの残した命の結晶のような曲を一瞬愛でて、置いて去る。
やはり、彼の才能に対する嫉妬から逃れられないのか。
それとも、苦悩し続けた弟が、ようやく安息の場所へ旅発った事を、悲しみながらも少しホッとしているのか。
おそらく、1番複雑な感情を抱いているであろう人なのでしょう。ラストは、見るたびにいろんな解釈が込み上げてくるシーンでした。
でもここまできたら、最後までネチネチ恨んでて欲しいなぁ。

また、ヴォルフガングの家族運のなさを象徴しているのは、1番彼を愛してくれた妻とすれ違ってしまう事です。
妻のコンスタンツェは、芸術家である彼を、そのまんまで、なんとか理解しようと努力をしてくれたこの世で唯一の人かもしれませんが、これまたすれ違ってばかりのふたり。
ふらふら遊びまわっているように描かれるコンスタンツェですが、狂気の芸術家と一緒になる女性って、みんなクセが強いの当たり前。
そのキリッとした雰囲気と、分かり合えない切なさと、ヴォルフガングの中に、時たま見つける愛すべき部分を見逃さずに縋りつく健気さを、全部掛け合わせて、幸せじゃないけど美しい人物に品よくまとめていらした木下晴香さん。

天才か!

この女優さんは、見るたびにまったく違っていて、驚かされます。次にお会いできる時は、どんな人物でお会いできるのか、本当に楽しみで仕方ない。

蛇足ですが、木下さんの公式プロフィールを見ると、「特技:ダンス」「趣味:歌」と書いてあって、思わず笑ってしまう。ミュージカル女優で、特技ダンス、趣味は歌って(笑
デビュー当時から変えてないんだろか。
それともあえて?
事務所さん、もう少しマメにケアしてあげてほしい。よろしくお願いします。

『モーツァルト!』は支配の物語

『モーツァルト!』は、ヴォルフガングが、がんじがらめの支配から、なんとか自由になりたいともがく物語です。

仕事や移動の自由という、物理的な支配はコロレド大司教。音楽家としての人生を押し付け、他の事へ心が向くのは許さない精神的な支配はパパ。稼いでも稼いでもお金を全て持って行ってしまう、経済的な支配はウェーバー一家。

どいつもこいつも、ひどいやつばかりです。

でも、1番厄介なのは、アマデ。
アマデは、ヴォルフガングの才能と欲望を具現化した存在です。
可愛い少年のままの見た目。
憧れの貴族の装い。
次々と曲を生み出す働き者。

とにかく、寝ても覚めても、五線譜に向かっているアマデ。

ヴォルフガングが、女性とラブな雰囲気になるといなくなるけど、それ以外の時は常にそばにいます。

つまり、ブラック上司です。
芸術家とはそんな仕事だ、と言われればそれまでですが、ヴォルフガングをワーカホリックにしているのは、アマデの存在そのものです。それが原因でコンスタンツェともすれ違ってしまう。

ブラック上司って、実は自分の中にいるもんなんですね。転職しても逃れられないいやな上司。最悪だ。。。

また、パパが見ていたのも、育てたのも、ヴォルフガングその人ではなく、アマデなのかもしれません。
ヴォルフガングの、「パパ僕を見てよ!」という心の叫びは、アマデに対する嫉妬の裏返しなのかも。

モーツァルトは、チェンバロの演奏家としても名を馳せた音楽家です。
『モーツァルト!』の中では、ヴォルフガングが演奏している時は、アマデは一歩引いています。
作曲はアマデ、演奏はヴォルフガングという分業体制なのです。
また、劇中、ヴォルフガングは役者をやってみたい!と言う場面があります。
人前でなにかを表現するパフォーマーとしては、彼はエンジョイしていた事が伺えますが、一方で、作曲については、面倒くさくて投げ出して遊びに行こうとしたり、「お金のためにやらなくては」と自分を追い詰めたりする。
そして、あのラスト、です。

才能をアマデという別人格で表現する事で、才能があることを明確に自覚している事を表現し、その存在に縛られる地獄を描き出す。わかってはいるけど、お金も名声も、実はアマデのもの。ヴォルフガングは、アマデがいる事で、ますます孤独を深めていく地獄なのです。

また、ヴォルフガングの孤独を描くのに、いい仕事をしているのが男爵夫人。
この方どうでもいいけど、名前が難しくて何度聞いても覚えられない。ヴァルトシュテッテン男爵夫人て‥
オーストリア人に生まれなくてよかった。自分がこの苗字だったら覚えられないや(笑

ま、それはともかく、男爵夫人は、モーツァルトに何人かいた実在のパトロンをモデルにした役です。実在の人物の名前を借りていると言う説もありますが、架空の人物です。

男爵夫人は、若いうちからヴォルフガングの才能に気づき、影になり日向になり応援してくれている貴族。
この方は、登場人物の中で珍しく、苦悩していない人なのですが、ヴォルフガングの応援団長のような存在でありながら、決して彼の気持ちに寄り添う事はしません。
やはり、この人もヴォルフガングの才能に惚れてるファンなのです。

ヴォルフガングの才能を輝かせたいから、ザルツブルグを出ることをサポートしたり、父親から自立しなさいと言ってみたり、その時々に、正しい助言やサポートをしてはくれてるけど、厳しいおばさんです。
けして、ヴォルフガングを人間として暖かく支援してる人ではない。
特に涼風真世さんの男爵夫人は、正しい方向に導こうとする厳しさが、ストレート前面に出ていました。見ようによっては冷たい人間に見える「凄み」みたいなものが溢れていたように感じます。一方で、香寿たつきさんは、一見すると優しい雰囲気。母を亡くしているモーツァルトに寄り添う母親代わりくらいの雰囲気かと思いきや、やってることは冷たいので、むしろ逆に怖い。どちらの男爵夫人もありだなぁ。どっちもこわっ!

おそらく、モーツァルトの周りに群がった人たちは、みんなこうだったのでしょう。彼に好意的でも、彼の味方であっても、モーツァルトの孤独は癒してくれる存在ではなかった。
それを象徴する存在として描かれるのが『モーツァルト!』の男爵夫人です。

ヴォルフガングをとりまく状況は、そんなこんななので、そりゃ、もう、逃れようとしてもアマデの支配からは逃れられない。生きることとアマデに支配される事は同義なのです。
折り合いをつけて、仲良くするというのが、叶わない相手。

ほんとに、救いがないったらもう!

ザ・ウィーン系ミュージカルを堪能しよう

モーツァルトの生涯をウィーン系で描いたミュージカル『モーツァルト!』。
モーツァルトは、才能はあるけど、チャラいテキトー男のはずが、この作品では、救いのない状況に追い込まれて苦悩する孤独な男になってました。
で、これがまさにウィーン系と言われるミュージカルの特徴なのです。

ウィーン系といえば、

1800年代の貴族の世界を描いた作品
人間でない存在の役
苦悩しまくったあげく救いがない
ハッピーエンドに程遠い
主人公ズタボロ

という特徴を持つ、人間の醜いドロドロを堪能する作品なのです。
こういう世界観は、現実世界と表裏一体だとは思いますが、これも立派なファンタジー。
妖精も魔法もタイムトリップも、普通のファンタジーなら、問題の解決に使えるコマンドは全部禁じ手の、究極のファンタジーだと思います。
って事は、つまり、問題は永遠に解決しません。

勧善懲悪文化が根強い日本では、モヤモヤする終わり方の作品って、映画にしろ文学にしろ、わりと受け入れられない印象ですが、なぜかミュージカルの世界ではこれが大人気なのです。

ミュージカルのファン、濃ゆいのがお好きなんでしょうか?
他人の不幸が好きなんでしょうか?

煌びやかな衣装や、豪華な舞台装置など、お金のかかっている舞台は、観る者を魅了するのは当たり前かと思います。
また、人気のある役者さんを上手く集められるプロデュース力も大きい。日本では、役者で、あるいはカンパニーで人が集まる。作品の特徴や良し悪しは、後からついてくる要素です。でも、だから辛気臭いウィーン系ミュージカルが流行ってるというのは、あまりに短絡的かなと思います。

やはりドラマチックなファンタジーは、最強のエンタメだと言う事なのかな。

私はハッピーエンド好きなので、正直言って、ウィーン系は「たまに」でよいのですが、この世界観にハマる方はハマるんだろうな、というのは理解できなくはない。
これからも長く愛されていくジャンルなのだろうと思います。

個人的には、この手の作品を観るのには、かなりエネルギーがいるので、しばらくは救いのある作品を楽しんで、エネルギー充填したいと思います。そしてまた数年後に戻ってきます。

他人の不幸は蜜の味、ですから。

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