生きること、死ぬこと
鬱になったとき、物凄く生死について考えました。消えたいという願望が物凄く強くて、とにかくどうしたら消えることができるのかを常に考えていたような気がします。
鬱になる直前、叔父が他界した。私は有給を取って葬儀に参列したのだけれど。
それが終わり、翌日出社したときに陰口を言われた。本当に葬儀かどうかわからないよね、って。物凄く悲しくなった。叔父の葬儀に参列することが悪いのか?って襟首掴みそうになった。
そして、そんなことをニヤニヤしながら言う人たちが気持ち悪くて仕方なかった。
そもそも有給なので何か言われる筋合いもないし、私の親族の話だから関係ないやんとも思っていた。偶然叔父の息子が同じ会社だったので花とか会社から頂いていたから、証明はできたのだけど。陰口を言われる筋合いはない。
とにかく彼らが気持ち悪かった。
人の生死を踏みにじるような行動、よくそんなことを笑いながら言えるよねって。
そこから鬱になるまで、2週間もかからなかった。とにかくあの気持ち悪い人たちから離れたいってずっと思ってた。
自分が「消えたい」と思うようになり、鬱だと自覚したとき。私の求める「消えたい」は、死ぬことと同義なのか?と疑問に思ったんです。
答えは、NOでした。
私が求める「消えたい」願望は、私と接点があった人たちの記憶から「消えたい、消してほしい」なんですよね。死にたいとは少し違う。
生きると言うことに絶望的にはなっていたのだけど、それでも色んなことに希望もあったんです。まだやりたいことがたくさんあったので。
じゃあ、私の希望は「死ぬこと」ではない。
とにかく「消えたい」。
少なくとも彼らの前から消えたい。
彼らの視界に入りたくない。
それが望みでした。
その結論が出た翌日には退職の意思を伝えています。それくらい私の中では「彼らの前から消えたい」が強かったようです。
鬱が落ち着いてからもう3ヶ月ほど経過しましたが、今でも「消えたい」願望はあります。
未来を見据えて動きたいのに、彼らの亡霊のようなものが足を引っ張るのが恐ろしいとも思っています。何かしらで色んなことを脚色して広められたらとか思うと、やっぱり消えたいと思う。
多分それは、もっと昔に色々あったから、その記憶が邪魔をしているのはわかっているのだけど。作り上げたものを壊される恐怖をもう味わいたくないからなのだけど。
彼らの記憶から私を抹消できるボタンがあればいいのになと思う。同時に私の記憶からも彼らを綺麗さっぱり消せたらいいのになと思う。
何事も後々きっと役に立つのだろうとは思うけれど、その時にならないとわからないですし。
それでも生きていくしかないし、消すこともできないけれど。ただその記憶を薄くすることや別のことで上書きすることはできるはず。とにかく足掻いてみよう。他のことで忙しくしていれば、少なくとも薄まるはずだし。
消せるボタン、あればいいのにね。
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