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自由に生きるために

我先に満員電車に押し入り、携帯を見ながら忙しなく動き回り、朝から晩まで建物の中で仕事をして、空を見上げることもなく1日を終える。

やることに追われ、時間に追われ、1分1秒たりとも有効に使わねばならないと思う都会の生活に疲れを感じていた。

本当は、原っぱで寝転び両腕を広げて風を浴びたいし、草花を愛でながら安らかに過ごしたいし、月曜の朝からチャイを作って映画鑑賞もしたいし、できれば人とは争わずお互いを認め合いながら穏やかに交流したい。

私が東京から大分県の竹田に来て2週間くらい経つが、これらの欲求は全て叶った。そして、誰もそれを非難する者はいない。

水も空気も綺麗で、食べ物も美味しくて、穏やかな居住環境と、目指すべき目標と、優しくしてくれる地域の人々がいる。

時間に追われることもなく、価値観に縛られることもなく、羽を伸ばして生きることが許されている。私は“田舎の自由”を満喫している。そして何より、幸せだ。

とはいえ、自由は田舎だけにあるわけではない。もちろん東京でも自由を獲得することができる。むしろ、東京の方が獲得できる自由の種類が豊富である。

満員電車の窮屈さから逃れるためには、電車より快適なタクシーに乗ればいいし、もっと快適にしたいなら高級車を買って移動自体を楽しくすればいいし、早く移動したいならヘリコプターでもチャーターすればいい。

草花を愛でたいならお花屋さんから美しい花を買うことができるし、穏やかに友人と優雅なアフタヌーンティーを楽しんで、月曜の朝から映画館で巨大なスクリーンで映画鑑賞もできる。

商業施設も娯楽施設も飲食店も数えきれないほどあって、食べたいものを食べたい時に食べて、行きたい場所に行きたい時に行き、欲しい物を欲しい時に手にすることも、都会ならできる。

それこそが“都会の自由”であり、“夢”である。

ただ、都会で自由を獲得するためにはたくさんの「お金」が必要だ。

そのために私たちは毎日のように1分1秒も無駄にできまいと、満員の電車に乗り込み、朝から晩まで学校や会社に行き、隙あらば情報を頭に叩き込み、生産性という価値を高めて、人と競争しながら日々を必死に生きている。

“お金を稼ぐことは自由への戦い”なのだ。私たちはきっと、自由が幸せになるために大切だということを知っている。だから毎日頑張っている。

“自由への戦い”における“勝利”とは、欲しいものを欲しい時に手にできて、行きたい場所に行きたい時に行けて、食べたいものを食べたい時に食べられて、そして、働かなくても継続的に収入を得て、精神的にも物質的にも満たされた状態で生きていけるほどの経済的な自由だと思う。

私もそんな“自由への戦い”の中に産み落とされた1人の若者である。

経済的な自由に興味があり、いくら稼げばいいのか、何をして稼げばいいのか、どのくらいの時間を費やせば到達できるか、とか色々と考えて起業家とか投資家になりたい時期もあったけど、やっぱり人と競争をするのは疲れる。

だから私は、満員電車に乗ることも、強引に他人と生産性で競争させられることもない、“田舎の自由”に憧れたのだと思う。

私は、経済的自由が保証され、“自由のために戦わなくてもよい人々”に幸せになって欲しいと思う。

「お金持ちは物質的に豊かだが精神的には豊かではない」などと言う人もいるが、私はそれを信じない。

もし、そうなら、人々が毎日のように一生懸命、“労働”という“自由への戦い”を続ける意義がなくなってしまう。そこに幸せがあるから、努力を続けられるのだと思う。

世の中には、人生の時間の全てを自由への戦いに懸ける人もいるだろうし、生まれながらにして経済的自由が保証されているような人もいる。

それでも、私は、イソップ物語の狐のように食べたことがない葡萄を酸っぱいと決めつけるようなことはしたくない。かと言って、その葡萄を食べることが絶対に正しいという考えに縛られるのも疲れる。

きっと「世の中は甘くない」と言っていた大人たちは、世の中の甘い部分を食べるところまで辿り着けなかったのだろう。もしくは、甘い部分を独占するために、あえて「甘くない」と言っているのかもしれない。

言うならば、「その葡萄を食べることは興味の範疇ぐらいのことで、食べれたら嬉しいが、食べられなくても死にはしない。」と割り切って考える方が生きやすい。

私の周りには都会と地方を行き来しながら、多拠点生活をして活躍している人がたくさんいる。

彼らは“自由への戦い”をしながらも“都会の自由”“田舎の自由”を使い分けて、自由を楽しんでのびのびと生きているように見える。

私も東京から竹田に来て、のびのびとして心身ともに満たされている。

労働という“自由への戦い”をしなければならない境遇に生まれた人が、自由を獲得するためには、何も戦い続けることだけが、唯一の方法ではない。

“都会の自由”“田舎の自由”を使い分けて生きることも、自由のうちに生きる1つの方法だということを提案したい。

都会で自由のために戦うのも一興、田舎の自由で羽を伸ばすのも一興。私はそのどちらも楽しめる人になりたい。

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