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“私たちは何者になりたいのか”

私はどうも学校という機関が嫌いで、高校にも進学したくないと思いながら受験をした中学時代を思い出す。その理由は自分でも説明できるほどに言語化できていなかったが、少なくとも、友達がいないからとか、勉強が嫌いだからとか、そのような理由ではないことは明らかだった。

何が嫌いだったかと言うと、根拠に欠ける校則に従うことや、学校に行く理由を聞いても向き合ってくれない教師や、製品紹介のような自己PRカードを書かされることや、進学は子供のためになると信じて疑わない大人たちだった。

幼い頃から好奇心旺盛な私はいつも母を困らせていた。晴れた日には「なんで空は青いの?」と聞き、海に行くと「どうして海は塩っぱいの?」と聞き、夜になると「なんで星は光るの?」と聞いた。

毎日のように「なんで?」「どうして?」と尽きない疑問に母は頭を抱えながらも、優しく私の疑問に向き合ってくれた。私の生活は「なぜ」に溢れていた。当時6歳だった私にとって、何かを知り、何かを学ぶことが、どれだけ楽しく心踊ることだったかは今でも覚えている。

しかし、「学ぶ」ところであるはずの学校が徐々に嫌いになった。大学に進学していない私の知る教育機関は小学校、中学校、高等学校の3つだが、そのいずれにも“「なぜ」というものが存在しない”から嫌いだったのだと思う。

「なぜ学校に行かなければならないのか。」「なぜ校則に従わなければならないのか。」「なぜ自分や大好きな友達を成績という数字によって優劣をつけなければならないのか。」「なぜ、社会については語らないのに、夢を持つよう迫られなければならないのか。」それらの疑問に真剣に向き合ってくれる先生はいなかったし、むしろ“疑問を持つことは疎ましい”とさえ思われていたのかもしれない。

自分の行動は自分の意思によるものだとばかり思っている私だが、義務教育に慣れると、そうでもないかもしれないと思ってしまう。

毎日のように学校に通い、毎日のように校則を守る。だが、“なぜ、そうすべきなのか、わからないが、それでも、そうしている”状態になる。自分の“行動原理がわからない状態”とか“自分の行動原理が他人に由来する状態”と言えるのではないだろうか。私はこの状態が奇妙に思える。

私たちは、およそ物心ついた時から「なぜ」というものに触れてこなかったのだろう。小学校も中学校も高校も、与えられた世界で生きるほかなかった。私たちは本来持っているはずの「なぜ」というものを教育機関でほとんど忘れさせられたのだ。

「なぜ」を持たないことは、“自分の行動原理がわからない状態”であり、それは「自分らしさ」を持たないことと同じである。

教育機関が画一的な労働者を作り出したにも関わらず、今更「個性が大事だ!」とか「自主性を持て!」とか「ポジションを取れ!」とか「既存のレールを歩む人生は家畜だ!」などと言われるのは、少し納得がいかない。

若者に求められるそれらの能力を教育機関で磨耗させたのにも関わらず、社会に出てきたら、ほとんど持っていない能力を要求されるのは甚だ理不尽な話である。

急速に進歩するテクノロジーや産業において、必要な能力を持つ人材の育成に対応しきれなかった教育機関から出荷された、画一的な教育のみで育った人材が社会に増え過ぎたため、その埋め合わせとして、搾取階級の大人が今の時代に適した能力を持つ労働者を早急に確保するために「何者かでなければならない」などという風潮を作り出して、若者の危機感を煽り、急いで自分探しを始めた若者が、社会で新たに不足している人材になる、という選択をするよう、うまい具合に仕向けられている、などと穿った考え方もできる。

一方で、幼い頃から学校に通うことや校則を守ることに対して従順で、その理由を「いい大学に行くため」や「いい仕事に就くため」だと答える人もいる。確かに、学歴社会では学歴が重要だったり、大企業の方が給料が高かったりすることで、有利に生きられるかもしれない。これらは、社会の仕組みや需要に柔軟に適応した合理的な生き方だと思う。

しかし、私たちがとる行動の原理が「いい大学に行くため」や「いい仕事に就くため」だとするのは、特定の社会や時代背景に限定され過ぎて、あまりにも普遍性に欠くため、これらの答えは本質的ではない。

では、私たちが無条件に学校に通い、無条件に校則を守ることの本質がどこにあるのか。その答えは、“なぜ、いい大学に行きたいのか”“なぜ、いい仕事に就きたいのか”、と掘り下げて自問してみると、その核が見えてくる。

それは純粋に“私たちが幸せになりたい”と思っているからではないだろうか

気づいた時には「何者かでなければならない」という目に見えないプレッシャーが蔓延する社会の中で、「何者か」になるために“起業”をして奮闘したり、良い大学に“進学”するために勉強を頑張ったり、大企業に就職して安定を追い求めたりする、それらの私たちに共通する行動原理は、“幸せになりたい”という気持ちではないだろうか。

しかし、「何者かでなければならない」というプレッシャーが私たちを幸せにするとは思えない。

この「何者かでなければならない」という危機感は、「自分が何者でもない」ということを前提にしており、そして「何者か」というのは社会において自分の存在価値や意義を見出せている状態のことを指している。つまり、「何者か」が達成されていない状態は、自分が社会において何ら存在価値や意義を見出せていない状態である。

このような危機感に囚われて、たくさんの人々が不幸になったのではないだろうか。

自分が「何者でもない」という焦燥感に駆られ、「何者かでなければならない」ために、壊れかけの吊り橋を跳んで渡るような気持ちで、「とりあえず」の進路選択と人生設計をして、その場しのぎを重ね、自分の人生に対しても熟慮せずに生きてきた人もいるのではないだろうか。

そのせいで、後から不本意な選択をしてしまったことを後悔し、出来上がった現状を打破できないことを理由に、自分の本心を包み隠して、現状に満足しているかのように自己欺瞞を続けて、空っぽの幸せで一生を終えるのだろうか。

私たちの“人生はたった一度きりしかない”ことを忘れないで欲しい。「とりあえず」の選択が本当は虚しいことだと気づいて欲しい。もし、自分の人生に別の可能性を感じたら、すぐに自己欺瞞をやめて、自分の幸せを探すことに時間を使って欲しい。

そして「自分らしさ」を持たない教育で育った若者に対して、「何者かでなければならない」とプレッシャーをかけるのは、愛の鞭による叱咤激励というより、ただ単に“生きづらい社会を作っている”だけのように感じる。

万が一にも「何者でもない」状態の自分がいると、自分には存在価値や意義がないと思い込み、自信を失い、自己嫌悪に陥って、挙げ句の果てに自殺してしまうなんてことも十分にあり得るだろう。少なくとも、私はそのように思い悩んだことがある。

だが仮に、「何者かでなければならない」という圧力によって、自分の存在価値や意義の根拠を外的要因である「肩書き」や「社会的属性」に求める続けるなら、私たちは永遠に満たされることはないだろう。一度、自己実現できたとしても、自分の上位互換が溢れかえる世界では、自分の比較対象が尽きることはない。

進歩主義や生産性至上主義の起業家や資本家や政治家であるならば、自分の存在意義を社会貢献という形で外部に置いて、連続性のある自己実現に没頭することが快感になるだろう。しかし、そうではない人々にとって、この考え方が、どれだけ幸福に寄与するのかを落ち着いて考えるべきである。

また、社会貢献を全ての人に求めるのは独善的な考えである。他人に不利益を被らない範囲で社会貢献しないで生きる人々が、非難や差別のうちに生きなければならない道理があるとは思わない。

引きこもりやニートである人々を弾圧し、お年寄りや障がい者や女性を隅っこに追いやり、LGBTに生産性がないと非難する社会の発展はどこを目指しているのだろうか。

“社会のために生きる”前に“自分の人生”を見つけ出さなければ、社会貢献などできるはずがない。だから、これからを生きていく若者に急いで社会貢献を求めるのは、寛大な社会とは言えないだろう。

私たちが、“生きやすい社会”“幸福を追求できる社会”を作るには、「何者かでなければならない」という呪縛から解放される必要がある。

“自分という存在の価値”は、学校の成績によって決まるわけでもなく、業績によって決まるわけでもなく、何かを持っている持っていないとかで決まるわけでもない。自分の価値の根拠を外的要因から見出そうとしたら、きりがないのだ。

だから“自分という存在の価値の根拠は、自分に置く”ことから始めよう。

もし、自分が“何者でもない”と不安になることがあったら、まずは、何者でもない“ただの私を認めてあげる”ことを始めよう。

自分のことを悪くいう人や、そう思わせようとする人に、自分の本当の価値なんてわかるはずがない。だから安心して、自分を信じてもいいと思う。

そうしてから、「自分らしさ」や「幸せ」を探す人生の旅に出ればいいと思う。学校に与えられたわけでもない、社会に求められたわけでもない、本当の自分の純粋な好奇心や興味や関心が向けられる先に「自分らしさ」と「幸せ」がある。私はそう信じている。

これを踏まえた上で、“私たちは何者になりたいのか”を考えていこう。

長文になりましたが、ここまで読んでくださり
ありがとうございました。

【自己紹介】村上利光(むらかみ りこう)19歳男。都立高校から、ネットの高校であるN高等学校に転入。一期生の卒業生であり、大学に進学しない道を選んだ若者の一人である。今の私の興味の対象になっているのは、哲学とデジタルファブリケーションである。私を応援してくれる全ての人に感謝と、より生きやすい社会になるよう願いを込めて、これからもnoteを記します。

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