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恋愛は自由なはずなのに「恋愛しない」という選択への偏見について考えてみる

(※2019年2月に書かれた記事です)

こちらは最新のアセクシャルの記事ではありません。よければ、この記事の最新版を読んでください。




「恋愛をしてない人間だから、まだわからないんだろう。」という言葉の怖さ・凶器をあなたは知っているだろうか?

※こちらの問題はまだ研究中(2021/01/28時点)のため、謎だらけモヤモヤだらけ矛盾だらけの文章かもしれないが、脳内メモを公開している感じに当時は書いていたので、許してほしい。


いや、人間誰しもが恋愛するし、してないから人として経験値が足りないのだろう。恋愛は誰しもが通るものだし。そもそも、自然の摂理だ。そうではなくては人間は成り立っていけない。

なぜ、しないんだ?こんなにも恋愛はいいのに。
人として、おかしいのでは。

…と「恋愛は誰しもがするものであり、しない人間なんていない。しないと言っている人間はおかしい。」という言葉を色々なところでよく聞く。

だが、果たしてそうなのであろうか。


何故、このような当たり前のことに疑問を持つのかと聞かれたら、「なんで誰しも恋愛するのが前提なのか?」と聞きたい。いや、「人を愛する=恋愛」と即変換される人にはどう考えても疑問を持つのか想像ができないかもしれない。

だが、知ってほしいことがある。
それは、ただ恋愛をしないという選択肢をしただけで、何故か未だに偏見の目で見られる世界が、今の世の中にはまだある。

「まだ良い人に出会えてないからだよ!紹介しようか?」

なんて相手がいないとわかれば、すぐに紹介しようかと言われたりもする。特に何も「紹介してほしいなー。」言ってもないのに勝手に押し付けられるのだ。その背景にはおそらく、こういうのがあるからだと思う。

「恋愛が最大級の愛であり、恋愛が一番の人への愛し方。」
「恋愛は誰しもが通る道。恋愛しないなんて強がっているだけで、皆するもの。しない人は変わり者。」

このように、恋愛は人間を愛する感情で一番という考えが勝手に刷り込まれる社会が背景にあるからじゃないかと私は思う。アロマンテックアセクシュアルな私にとっては、そんな世界が、刷り込まれる社会が、とても窮屈に見えてしまう。

何故、すぐに「人を愛する=恋愛」と変換されなきゃいけないのだろうか。人を愛すると言っても、恋愛以外の愛し方も愛の形も人それぞれあるのにも関わらず、なぜすぐに何でも恋愛が全てへと繋がっていくのだろうか。


かといって、今ある恋愛を否定するわけではない。むしろ、恋愛は素晴らしいものだと思う。恋愛についての作品なども観ていて面白いのは面白いし、何よりバリバリな恋愛ソングが大好きなのである。

しかし、あまりにも恋愛が刷り込まれいて、恋愛をしない・できない・わからない人を否定し、心無い言葉を言い、さらには恋愛をしない・できない・わからない人間以下に見ることを許されてしまうのが今の世の中である。

果たしてそれは同じ人間に向けてやっていいことなのだろうか。

今は多様性を認めようとしている世の中であるのに、恋愛をしない・できない・わからない人間に対しては無条件で見下し、「恋愛をしていないからまだわからなのだろう。」と言い放ち、酷く扱っている人々がいるのが現実だ。

それが当たり前かのように。
それがお腹すいたから食事するのと同じように。

恋愛は強制されてまですべきものなのか?
恋愛しないと、人として生きていけないからか?
恋愛しない人は人間ではないのか?
恋愛しない人間には無条件で酷いことを言っていいのか?



立ち止まって考えるものいいかもしれない。

本来なら、恋愛をするかしないかは自由なはずだ。しないから死ぬわけではない。する・しないはその人次第のはずなのに。強制されてたって楽しくないと思ったものは楽しくない。

あなたは、恋愛についてどう思いますか。




この記事の続編的な恋愛についての記事はこちらです。


私のアセクシャルについての記事はこちら。



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