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友との別れ

また岩手に行っていた。
岩手といっても一関で、宮城との県境に近い町だ。今回は寒くもなく、春を思うような日だった。

何年か前、ロードキングが欲しかった。
その理由は、遠く離れてしまった友人達に会いに行きたい。そう思ったからだ。
一泊か二泊程度の荷物を積んで、名古屋や九州に行きたいと思っていた。

学生時代の友人の多くは九州に。社会人になってからの友人は掛川、浜松、名古屋。その他に長野や島根、石川。それから都内に数人。よくもこう皆、好き勝手な場所に落ち着いたものだと思う。

僕の大切な友人の一人は名古屋にいた。僕が初めて入った職場の同期で、僕より一つ年上だった。よく朝まで一緒に飲んで仕事に遅刻した。若い僕らはハチャメチャだった。
その割りに彼は厳しいところがあって、仕事は優秀だった。良い相棒だったけど、僕の方が先に職場が嫌になって辞めてしまった。その数年後に、彼も辞めて実家のある名古屋で暮らしていると便りをもらった。

それからしばらくは、理由もなく会うのは何となく気恥ずかしいな。という気持ちでいた。元気でいればその内、会うだろう。とも。その一方で、直ぐにでも会いたい気持ちがあった。

訃報は突然にやってきた。
まあ、訃報が何部作にもなっていて徐々にやって来ることなどない。大概は突然来るものなのだ。

死因は致死性不整脈とのことだった。

その死がどういうものだったのか、今でも僕には分からない。
その病気が心室細動や心筋梗塞の類いであることはわかる。
僕がわからないのは、彼が最期に見たものや感じたことだ。

僕が彼のためにやらなければならないことがなかったか。それを時々考える。

あの朝、僕は千葉にいた。
機械の仕事で長岡へ行く途中だった。
知らせてくれた友人に何と言ったかよく覚えていない。ただ
「葬儀には行けない。」
それが僕の選択だった。

長岡へ向かう関越道は雪だった。
重く曇った空と雪の静けさが有り難かった。
快晴であったら、もっとずっと苦しかったと思う。僕の車は湖底を這う魚のように、気配を消して灰色の世界を走っていった。

僕には幼馴染みが居ない。親の仕事の都合で引っ越しをしたことや、周りの子供たちよりも距離の離れた高校へ進学したこと、さらに県外の大学に進んだことで3~4年以上に渡って同じ時間を過ごした人がほぼ居ないのだ。
学生時代からの友人である僕の妻以外で、最も長い時間を共有したのが彼だった。1日の内の8時間、それを12年。

同世代だったし興味関心が近かったから、どんな話もよく通じた。映画やテレビ、昔のギャグ。アメ車やバイク。様々な話題をどんな断面で切り取っても同じシーンを描くことができた。

歳を取ってから、若い頃の話をしたかったな。

ずっと会うことを先伸ばしにしていたのに、葬儀には行く。
僕にはそれができなかった。
誰もそんな風に思わないかも知れないけど、僕は彼の最期をイベントのように消費したくなかった。他の誰かと同じ方式で見送ることに抵抗があった。

実生活では「優しい人」に分類されるであろう僕だけど、時々すごく頑なになる。その妙なこだわりのせいで、薄情なおかしな人に見えているかもしれない。

もうすぐ春が来る。
いい加減そろそろ別れの挨拶をしなくては。
そう思っている。



















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