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28歳無職から、38歳上場企業経営者になるまでのストーリー #2

株式会社スタメンで代表取締役を務めておりますCEOの大西です!

今回もスタメンnoteリレーの最終走者として、自身のキャリア棚卸し記事をお届けしたいと思います!前回の投稿から間を置かずに、シリーズ連載していこうと意気込んでいたのですが、気づいたら4ヶ月も経っていて、時間の流れの早さに戦慄しています。。。

第2回 スタメンnoteのこれまでの記事一覧については、以下をご参照ください。

私のキャリア棚卸しストーリーの、前回記事はこちらです。

前回は、「無職前夜」までお届けしたので、今回はそこから先、キャリアリセットをしてからの、私の思考プロセスをかいつまんでご紹介していけたらと思います。ぜひ最後までお読みいただけると嬉しいです!




短期離職を「必要な失敗」に昇華させたかった

前回記事の最後に書いた通り、2012年の冬に、悩んだ末「はじめて転職した会社を短期で辞める」という意思決定を自分の心の内でしました。

では、辞めた後はどうするか。それが問題でした。

「はじめての転職」は後悔しない選択をするために、時間をかけて、焦りを持たずにかなりじっくりやりましたし、色々な可能性を検討したからこそ、転職先への内定受諾をした時には、「この会社を世界No.1にしていくことにコミットすることで、長期的に自分のキャリアも成功させていくぞ!」と意気込んでいました。

そんな鼻息荒い決意が、わずか4ヶ月でしぼんでしまったわけです。

年齢的にもまだ若かったこともあったので、退職してから、改めて一般的な形で転職活動を行い、いくつかの企業さまから内定をいただき、その中から一番ピンときた会社に無難に中途入社する、それ自体は難しくないだろうと思っていました。

ただ、それだとこんなに頑張った直近の4ヶ月間の奮闘や、そこでの出会いと経験、悩んだ末の意思決定などなどが、「無駄な時間」「本来は必要のなかった期間」になってしまうように思えました。

「損切り」ができるかはビジネスや経営の世界でも、非常に重要な素養・能力だと思うのですが、そこは頭で分かっていつつも、その時の自分の状況を「ピンチはチャンス」で捉えて、プラスな事象に転換することはできないかと考えを巡らせました。

熟考の末、「改めて、もう1度転職活動する選択」は、一旦脇に置いて考えてみようと思い、それ以外の可能性を探り始めます。

そんな時、私が思い出した1人の人物がいました。その方は、Kさんといいます。


同業他社の同期の先輩、Kさんとの出会い

Kさんと知り合ったのは、新卒で入った広告会社で勤めていた時で、たしか社会人3年目の頃だったと思います。前回記事で記載したとおり、私は名古屋支社に勤務していたのですが、私の会社だけに限らず、広告業界全体が大きなクライアントやプロジェクトが東京(と一部大阪)に集中していたこともあり、東阪以外の拠点に配属されるのは、業界を通して極めて稀でした。

そのため、大手広告会社の新卒配属時に名古屋拠点配属になった若手同士が、所属会社を飛び越えて、業界として横の同世代の繋がりを持つことが慣例化されていて、競合会社ではあるけれども、業界同期の友人がたくさんいて、仕事が終わった後にフラッと一緒に飲む機会が当時は多かったのです。

そんなわけで、僕が同業他社の友人と仕事終わりに居酒屋で飲もうとなっていたある日、その会に友人が連れてきたのがKさんでした。

Kさんは同期の友人が勤める業界最大手の広告会社に中途入社してきた方で、3年くらい東京本社で勤務した後に、中部拠点のデジタルソリューションの体制強化のために期間限定の異動辞令が出て、新たに赴任してきたばかりだったそうです。年齢は当時の時点で確か30代中盤くらいだったと思うので、今の私とそれほど変わらないくらいの年代だったと記憶しています。

自分よりも10歳以上年長者の競合他社の先輩で、はじめて会ったばかりのKさんは、初対面の時から初速でめちゃくちゃ面白い人でした。年齢の差を感じさせないフランクで気さくなキャラクターな上、自分にすごく自信を持っているオーラがビシビシ出ていて、何気ない話しにも周りを惹き込んでいく魅力がありました。


憧れの人を追いかけたKさんの初期キャリア

Kさんが展開するおもしろトークの中でも特に印象に残ったのが、Kさんのそれまでのキャリアのお話しでした。Kさんは大学卒業後、4社のキャリアを歩んでいました。

Kさんのキャリアは、新卒での大手メーカーから始まりました。外大出身で中国語を専攻していたのですが、それは当時中国マーケットが物凄く伸びていたからだそうで、中国語が出来れば手っ取り早くお金が稼げそうだと考えたからでした。Kさんは狙い通り大手メーカーに新卒入社し、海外事業部でバリバリと成果を上げ、数年間そこで働いて、次のキャリアのための軍資金を貯めたそうです。

実は、若手時代のKさんにも憧れの存在がいました。とても有名な気鋭のクリエイターの方です。

実は、Kさんに初めてお会いした当時の僕も、そのクリエイターさんにとても憧れており、著作はほとんど読んでいて、物凄く感化されていました。憧れの人に対しての共感点があったから、Kさんのキャリアエピソードが一層印象に残ったんだと思います。

Kさんは学生時代にその人のことを知り、その人のようになりたいと思って、逆算のキャリアを築きはじめたそうです。大手メーカーに入って、お金を貯めたのも、その人に近づくための積み上げのアクションの1つでした。

Kさんは大手メーカーを退職した後に、クリエイターになるために必要なデジタル領域の技術を習得するべく、デジタルハリウッドに通い始めます。メーカー勤務で軍資金を貯めたのも、そこへの学費や就学中の生活費を捻出することが目的でした。

しっかりカリキュラムをこなし、晴れてデジハリを卒業したKさんは卒業制作のアウトプットを手に、憧れだった方が経営しているクリエイティブ企業に突撃しました(この時、多分この企業は中途採用とか表立ってはやっていなかったと思います)。この辺りのアクションや展開が今思い返していても性急すぎです。漫画みたい。

Kさんはその時点で、海外事業でのビジネス経験は豊富ではあったけれど、デジタル制作の実務経験はほぼゼロに近かったと思うので、実際はそんなに簡単ではなかったとは思うのですが、見事にその憧れのクリエイターさんが経営する会社に転がり込むことに成功します。こうして、Kさんは学生時代に計画した通り、見事に憧れだった人の元でともにクリエイティブビジネスに関わっていくようになります。


経験を拡張させ、挑戦を続けるKさんのその後

数年間、そのクリエイターさんの元で仕事に励んでいたうちに、Kさんはある時、気がついたそうです。

業界の特性柄、その人の元で仕事をし続けていても、その人のようになったり、その人のような評価を得ることはかなり難しそうだということに。Kさんが学生時代に夢見たのは、あくまで「その人のようになりたい」であって、「その人の元で働きたい」ではなかったので、新たな戦略を練る必要がありそうだと思い至り、Kさんはネクストアクションを見据え始めます。

憧れのクリエイターの元でハードワークを続けたことによって、Kさんは豊富な経験とスキルを身につけていました。それを活かしながら、自分が目指した人が通ってきた道とはまた違う形で、自分なりの歩みで理想に近づいていくためにはどうすれば良いか。Kさんが目をつけたのはゲーム業界でした。

色々な技術革新によって、表現手法がどんどん高度化していき、グラフィック、音楽、映像、3Dなどなど、クリエイティブのドメインが拡張を続ける中で、それらを統合し、かつ人間(ユーザー)との双方向のインタラクション要素も大きい「総合格闘技」のようなフィールドが、「ゲームの世界」だとKさんは考えたそうです。

良いゲームを作るためには、グラフィックも音楽も映像も、時には3Dなども活用し、かつユーザー・エクスペリエンスを考慮したインタラクションデザインが必要になります。これはやりごたえがありそうだということで、Kさんは次のチャレンジ先をゲーム業界に定めます。

またまた狙い通り、見事に大手ゲームメーカーに転職したKさんは、そこからまた数年間、ゲーム作りに没頭します。仮説通り、ゲーム業界での仕事はやりがいがあり、それはそれでとても充実していたそうですが、そうこうしているうちに、今度は広告業界やWEB業界に変化が起き始めます。Flashなどの技術が盛り上がりを見せ、ブラウザゲームなどが人気を博すようになっていきました(実は、このKさんがゲーム業界で働いていた時のエピソードも、スタートアップ顔負けのジャパニーズ・ドリームなエキサイティングなお話しで、これだけでも1投稿分は書けそうな濃いお話しもあったりします)。

カンヌ広告賞などで評価される企画やプロモーションも、ゲーム要素とWEB技術を活かしたインタラクティブなものが席巻を始める前後のタイミングです。ゲーミフィケーションという言葉もこの頃からトレンドワードになり始めていました。

クリエイティブの世界やゲームの世界で培ってきたものを、より幅広く社会に実装していくために、次の舞台としてKさんが挑戦したのが広告業界ですした。ここでも業界最大手の会社に転身し、東京本社で数年働いて、その後、中部エリアの底上げをするというミッションに取り掛かるために名古屋
へと期間限定で赴任。そして、赴任後にたまたま後輩に連れられていった居酒屋で、若手たちに対してなんの気なしにご自身のキャリアを語っていただいたというわけです。

Kさんもまさか私がこんなに刺激を受けていたとは思ってもいないと思います。というか、私のこともあんまり覚えていないくらいだと思います(笑)


勢いで下した安易な意思決定

思いもよらずKさんのお話しが超長くなってしまいましたが、その当時は転職なんてまったく考えていなかった私は、業界最大手の会社にはこんなに面白い人が普通にいるんだなぁ〜と、Kさんの存在に刺激を受けながらも、その時はただ漠然とKさんのキャリアのお話しを聞いていただけでした。

Kさんとは特別に親しいわけではなく、私が一方的に尊敬していただけなので、3回くらい同期仲間とゆるっと飲みに行き、会をご一緒させていただくくらいの間柄だったんですが、いざ自分が転職先から退職することを決意し、「改めて、もう1度転職活動する選択」は、一旦脇に置いて考えてみようと思った矢先、私の頭にふと思い浮かんだのがKさんのキャリアのエピソードでした。

思い返せば、広告業界のプロジェクトでも、アパレルメーカーの仕事でも、デジタル技術の必要性や有用性はどんどん高まっていることを実感していたし、その割には、技術者サイドの供給が需要に対してそこまで増えていっている印象がないなと考えました。それに、ビジネスやクリエイティブの企画ができても、自分だけではプランを具体的な形にアウトプット出来ない状況に不甲斐なさを感じていたこともありました。

Kさんもキャリアの方向転換の最初のキッカケは、デジタルハリウッドに通い始めたことのような気もするし、思い切って転職活動はせずに、新しいフィールドでの活躍チャンスを掴むためにも、デジタルハリウッドに通ってみよう!と、勢いで超安易な意思決定をします。

幸い、アパレルメーカーで超ハードワークをしていたおかげで、お金を使う時間すら全くなかったので、気づいたらまとまった金額が貯金できていました。また、デジタルハリウッドの大阪校が実家から自転車で通えそうな距離感にあることも分かったので、両親にはいっとき迷惑をかけてしまうけれど、実家暮らしで家賃と食費を抑えて、無駄遣いをしなければ、学費を支払いながらでも、1年くらいはなんとか生活していけそうでした。

そういった環境面での挑戦のしやすさなどが相まったこともあり、ふとした思い付きが早速行動に移され、2013年の頭から、高校卒業以来の大阪生活が始まります。

そして、デジタルハリウッド大阪校への入学早々に、また予期せぬ刺激的な出会いが私に訪れました。

(次回に続く、、、)


最後に

今回は、気づいたらほぼKさんのお話しをご紹介する形になりました(笑)

この続きは、また次回の投稿でお伝えできればと思います。次は、もう少し更新間隔を空けないようにしたい、、、。

また、スタメンnoteリレー第2弾は、今回も私の投稿が最終回になります。

前回のリレーに引き続き、色々な切り口でスターメンバーのみんなが様々な発信を行ってくれていますので、未読の方はぜひ、どれか1つだけでも気になったコンテンツを読んだみていただけると嬉しいです。

最後に、スタメンでは引き続き中途採用を絶賛強化中です!オンラインでのカジュアル面談で気軽な形でお話しさせていただく機会をたくさん設けておりますので、ご興味を感じていただけた方は、ぜひご連絡くださいませ!


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