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哀歓の日々

「社会人1年目の私へ」このお題を見たときに、1年目のことを思い出して涙が流れた。これは書けそうにないと蓋をした。

しかし、そのあと思いがあふれて止まらない。次々脳裏に浮かぶもので何十ページもとっちらかっている。もしやここに書くことで整理され何か見えてくる景色があるかもしれない。そう思って今さら書き始めてみる。

1年目。楽しかったことだって沢山あるはずなのだ。そう、あるはず。

私が社会人1年目の職場に選んだのは大学病院の小児病棟だった。大学病院は最先端の医療に携われるとの思いで選んだ。しかしあの頃の私は小児科を何故選んだのかよく思い出せない。
看護学生時代の保育園実習や小児科実習はトラウマが残るほど辛い思いをして、当時それほど子どもが好きなわけでもなく、将来は違う科に行こうと思っていたはずだった。呼吸器科、循環器科が志望だったはず。
なのに何故だろう。
面接の時に希望の科を問われ、どうして小児科と答えたのか。
事前に超多忙、今でいうブラック、1年持たない部署、との情報もあったのに。
あの頃の微妙な心理変化を思い出せないけれど、とりあえず私は面接で希望した科に配属された。

1年目は葛藤の繰り返しだった。何故こんなに子どもが亡くなるのか、何故治らない病になるのか、何故まだ何も自分の意志などないうちから機械に繋がれ生きなければならないのか、そんな理不尽なことへの疑問。

当時、先天性心疾患で人工呼吸器に繋がれていたベビーと、小学生で白血病を発症した少年を受け持っていた。

受け持ちの子の状態が悪いと、私は勤務時間が終わってもなかなか帰れなかった。「お前は家族じゃないしここは家でもない、早く帰れっ」と医師に怒鳴られたことがある。
私だってひとりの人間なんだから、そんなふうに割りきれない、そう思っていた。
一方で、学生指導をしながらプロとは何なのか自問自答し、自分の不甲斐なさに泣いたことも。

今ならわかる。割りきれないこととプロ意識とは別の場所にあることが。

日々の辛さに心を病んで休職した同じ1年目の同僚。
耐えられないと一般の病院へ転職していった同僚。
別の部署へ配属願いを出して転科した同僚。
みんなひたむきだった。

毎日毎日、何故、どうして、と繰り返していた。せっかく生まれてきたのにどうして。まだこんなに小さいのに何故。
そして、何も出来ない、何の役にも立たない、という想い。
同僚と一緒に更衣室で泣いたこと。神はいないと確信した日。哀しみも悩みも深すぎる日々。

本当に泣いていたことばかり思い出すのだけれど、楽しかったことだって沢山あるはずなのだ。当時の写真を見ても私はちゃんと笑っている。
そう、笑っている。
あの1年目のがむしゃらさの中に、喜びの深さを微かにでも見いだせたから、30年近く経った今も、私は辞めずに看護師でいるのだろう。

妊娠出産のために私は1度小児科を去るが、やはり選んでしまうのだ。内科を経て再び小児科を。

あの感受性の強い時期に、あの過酷な場所で過ごしたことは、巨大な経験値となり、今も私の中に君臨している。

後に母となりまた想いは変わる。
あの時、患児の母が言っていた言葉が胸に刺さる。

それでも、あの情熱があったからこそ、1年目を今も鮮明に思い出せて、涙すら流せるのだと思う。忘れるな、ということなのかもしれない。

そうだ、強烈な思い出を残してくれてありがとう、と伝えよう。
1年目、がむしゃらに挑み、しっかりと心に理不尽さを刻み続けてほしい。
あなたは後の私の中で、とても印象に残る時期を生きた女性となるのだから、誇りを持って、と。

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