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本に愛される人になりたい(66) トルーマン・カポーティ著「ティファニーで朝食を」

 昔から、少なくとも、小説を心から愉しむようになった小学校高学年のころから、形容詞(句)や副詞(句)が多用されている文章が辛くて避ける傾向にありました。今も同じく、◯◯のような●●的な表現に出逢うと、「なんだかなぁ」と本を閉じたくなります。精緻な心理描写だと批評家たちが褒めちぎるような小説もまた辛くてたまりません。精緻な心理描写の為の心理をわざわざ造形し、造形した心理を精緻に語るといえば良いのでしょうか。さらに、奇妙なセンチメンタリズムなどが見え隠れすると、もう困ったものです。つまり、そこには日常生活のブツ切れの感覚などから、かなり離れた嘘くさい人物たちが、「どうぞ、精緻にこの私の心理を描写してください」と立ち止まっている感じがします。もちろん、小説ですから、クリエイティブの自由もあります。
 トルーマン・カポーティの小説(翻訳や原書)を何冊か読んできましたが、どうも入り込めずにいたのが正直なところで、世の中の小説好きな人からすれば「お前、分かってないな!」と馬鹿にされても仕方がないと思っています。行間やストーリーの流れのなかで、読者が登場人物像を好きなように作れるような小説の方が好きというのもあります。
 この村上春樹さん翻訳版を本屋さんで目にしたのが2008年のことでした。村上春樹さんの翻訳で読んでみるとどうなのかという興味が湧いたからです。
 そして、恐る恐る読み始めると、一気に読み終わりました。
 最初は、ホリー・ゴライトリー役のオードリー・ヘップバーン主演の映画のイメージが強かったのですが、本書を読み始めると、その映画とはかなり異なるホリー・ゴライトリー像が出来上がり、一人でに歩き始めていました。
 本書を読み終わり翻訳者の村上春樹さんの「あとがき」を読んでいると…「『ホリー・ゴライトリーという女性はいったいどんな姿かたちをしているんだろう?』と一人ひとりの読者が、話を進めながら想像力をたくましくすることが、このようなタイプの小説を読むときの大きな楽しみになってくる。」と書かれていて、胸を撫で下ろしたのを覚えています。
 「…カポーティは…ホリーの持っている型破りの奔放さや、性的開放性、潔いいかがわしさみたいなところが、この女優(注記:オードリー・ヘップバーン)には本来備わっていないと思ったのだろう。」という村上春樹さんの言葉には、大の映画好きで、オードリー・ヘップバーンという女優が好きな私であっても、納得せざるを得ませんでした。
 映画を見てから原作を読むのも楽しいものですが、ともすれば、映画のイメージに引きずられてしまいがちです。ところが、本書を楽しんで読み終えるや、映画のイメージはまったく払拭され、この小説自体を楽しんだ私がいました。原作の持ち味をかなり削ったのが映画で、それはそれで映画として面白かったのですが、本書を読み終えた私にとっては、映画版は本書の大いなる宣伝であったかもしれません。
 昔、角川映画全盛期のころ、「読んでから見るか、見てから読むか」というキャッチフレーズがCMで流れていました。原作が素晴らしいと、映画も自ずと素晴らしくなるのではないかとも言えます。
 乾いた筆致から、読者の想像力で立ち現れる小説のなかの役者たち、そしてその役者たちが私の頭のなかの映像であるドラマを演じていく醍醐味を、本書で改めて確認したように思います。中嶋雷太

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