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【控えめな自己主張日記】わたしたちが肩を組んで励ましあい、歌い合う歌ってなんだろ?

2020年とか2021年とか、世界的にステイホームのころ、イタリアの人たちはベランダで、国家やオペラを演奏したり歌い合っていました。
ニュースやSNSでよく目にしました。

困難など、同じ状況に陥った、普段は見知らぬ市井の人たちが一致団結する、こういう現象、実は好物なんです。
映画とか小説とかで出てくると、付箋を貼り付けてあとで反芻する、大好物なんです。

ただ条件があって、自然発生的であること。自然連鎖であること。

上からの押し付けや全体主義的な強制力のあるやつは受け付けません。意地でも歌いません。

で、こういうのはいかがですか。

村上龍の「長崎オランダ村」(1992年)のワンシーンです。

ケンという名の小説家(村上龍自身)が高校時代の後輩に頼まれ、故郷の長崎に帰ってきます。
後輩はイベント会社を経営していて、長崎オランダ村で世界中から音楽家、舞踏家、大道芸人を呼んで、40日間に渡るワールドフェスティバルというイベントを運営しました。
個性豊かな世界の人が集まるからまとめるのが大変、その顛末をケンと食事しながら酒を飲みながら一晩中話す、という小説です。

その最終日、お別れパーティのシーンです。
挨拶や語らいそっちのけで、皆は勝手にサンバやガムランやフラメンコを歌ったり踊ったりし始めます。もう収拾がつかない状態です。

そこで日本人スタッフは考えます。
みんなが一緒に歌える歌はないものだろうか。
リズムで踊るだけでなく一緒に歌うことができたらどんなにいいか。

いくら考えても思い浮かばない。

世界には歌があふれているのに、たった十数カ国の人間が集まっただけで、みんなが知っている歌がない。
それが歌というものだろうか?ある歌はある民族だけのものなのだろうか。


そこであるスタッフが提案します。

「ビートルズは?」


で、呼びかけます。
「みんなービートルズは知っているか?」


すると、まずブルガリア合唱団がハミングを始めました。

レット・イット・ビー(Let It Be)です。

ブルガリア合唱団のハミングが続き、サビの部分で、アフリカからアルゼンチン、韓国からトルコまで全員が一斉に歌い出した。

その光景を見て、後輩は思うのです。

「ビートルズとはこういうバンドだったのだ」と。


以下、「長崎オランダ村」からの引用です。

レット・イット・ビーは永久に終わらないのではないかと思うくらい長く続いた。うたい続けている人達が疲れてボリュームが下がると、少し休んでいた連中がまたレット・イット・ビーを歌い出す。
火吹き芸人がひび割れだらけの唇で歌っているのを見た後輩は、息子のことを考えた。
息子はそういう歌を持つだろうか?息子がそういう歌を持つために、自分は何かしてやれることはあるのだろうか?教養としてではなく、コマーシャリズムに操作されたものではなく、そういう歌が出現するためには何が必要なのだろうか?
「一時間以上続いたんじゃないですかね、泣いている人、笑っている人、ベロベロに酔っている人、キスしている人、踊っている人、ムチャクチャといえばムチャクチャですが、ボクは、ビートルズというバンドがおってよかったな、と思いました。」

村上龍「長崎オランダ村」

以上、引用。


イタリアのベランダ合唱を観ていて、これ、日本だったらなに歌うんだろう?と考えてしまった。
自然発生的に誰もが口ずさみ誰もが知っている日本の歌ってなんだろう?あるのだろうか。

まさか「君が代」でもないし、

オペラのように全国民が歌い合うものもないし、

なんかぎりぎり、これかもしれない。



「上を向いて歩こう」(Sukiyaki)


なんかまだぎりぎりで、これを思い浮かべてしまうけど、
あと10年20年もしたら、共有しあえる歌って、かなり少なくなってしまうんだろうな。


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