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「自分と向き合う」ということ

自分と向き合う、とは、なんだろう。

自分と向き合う、とひとことで言ってみても、まずその「自分」というものがよくわかりません。どこか漠然としていて掴みどころがなく、ようやく見つけたと思ってみてもするりするりと手をすり抜けてしまうし、それを追いかけた先でまったくちがう「自分」を目の当たりにして驚いたりもします。目の前の椅子にちゃんと座っていてほしいのにいつまでもふらふらふわふわとして落ち着かない、そんな「自分」というものとどう向き合えというのだろう、と、わたしはいつも釈然としませんでした。「あんたなんか知らない!」と、そっぽを向きたくもなります。
でも結局どんなにめんどくさかろうと自分とは四六時中いっしょに生きるさだめなのですから、そんな自分への理解が足りないことで苦労するのは自分自身、そっぽを向き続けるというのはあまり得策ではありません。ですから、あれやこれやと策を講じて、なんとか目の前の椅子に座っていてもらおうと努力します。とことん甘やかしてみたり、おいしいお菓子を置いておびきよせてみたり、かと思えば力尽くで引っ張ってきたり、ガミガミ叱って見張ってみたり。ですが、そのすべてがうまくいきません。最初のほうこそしおらしく椅子に腰掛けてこちらを見ている自分は、しかしちょっとでも気を抜くとまた姿を変えて、ふらふらとどこかへ行ってしまうのです。

とまあこのように、わたしはいつまでも自分というものを掴みきれず捕まえておくこともできないまま、しかしそれでも日々は過ぎていきますので、今回の個展に向けて絵を描いておりました。絵を描いていると、悩みごとがあるときなどは特に、ノイズのようにあたまのなかをひとりごとが走ります。
「絵を描いているわたしは、自分?」
「絵を描いているから、わたしは自分?」
「じゃあ描かなくなったら、自分じゃない?」
うるさいなぁ、と、できるだけひとりごとをシャットアウトしながら、キャンバスに絵の具をのせていきます。でもこんな時は大抵、色が濁ってくるのです。色が遊ばない。色と色がとなり同士でいることに落ち着いてくれない。なんて正直なんだろう、と思います。
でももう描くしかない、と、絵の上下をひっくり返してみたり、何日もかけてつくった画面を塗りつぶしてみたりともがきます。そうして、ひとりごとが走り疲れた頃合いにとつぜん、ぜんぜん知らない絵が出来あがりました。
なんだろう、これは。そう思って絵を見つめてみます。全く意図していない色や線がそこにあって、そのなかにぽつんと小さい人が立っていて、画面が完成しています。それらをじっと見つめていると、ふっと「未知をあるく」「立ち向かう」というタイトルが浮かんできました。そのタイトルを手がかりに、あなたはいったいなにの絵なのかとたずねていくと、ちいさな声でそっと、「自分と向き合うって、こういうことだよ」と言うのです。

わたしは今まで「自分と向き合う」という言葉を聞いたとき、連想するのは「人間のかたちをしたもう一人の自分と、膝を突き合わせて向かい合っているイメージ」でした。ですが、そうじゃない、と絵は言うのです。「自分」を一人の人間のように扱うからややこしいのだ、と。「自分と向き合う」というのは、果てしなく広がる内面世界、そのうつくしさや禍々しさのなかに身を置き、そこを歩き、日々その多様さに触れ、その振り幅の広さに圧倒されながらも、しかしその全てがひとしく自分自身なのだと認める、森歩きのようなものなのだ、と絵は言うのです。
そう考えてみると、今までのわたしの行動がどれほど徒労だったのかと思いました。例えるならばわたしはずっと、その内面世界の花だけを自分だと思い込み、摘んできては椅子に座らせ、そしてそれが枯れてゆくさま、風に飛ばされてゆくさまに憤っていたようなものだったのです。そのうえ、偶然飛ばされた種が芽吹こうものなら、これは花ではない、とその芽をむやみに摘み取ったこともありました。わたしという存在も自然の一部である以上、日々変化し移ろい定まりきらない存在なのだということを、なぜだかすっかり忘れてしまって、いつからかわたしは理想の姿や、常識的にこうあるべきといった椅子を自分に押し付け、さあここに座り続けろと言い続けていたのです。
そう思い至り、同時に、ではわたしははじめからずっと自分のなかに居たのか、と感じると、とても深く息が吸える心地がしました。わたしは自分を必死に見つけて捕まえておく必要もなければ、決まったかたちで在り続ける必要もない。いかなるわたしであっても、わたしは自分という森の中に包まれて、果てしなくわたし自身で在るのです。

それならば何処へ行こう、と、わたしのなかから声がします。深く吸い込んだ息に満たされたあたまはしんとして、こころはちいさくときめいています。あたらしく出逢うであろうさまざまなわたしの一面を、もっと見つけたい、知っていきたい、という思いがわたしの奥からふつふつと湧いてきます。そうしていつか、すべての人のうちに在るその人だけの森にもまた、許されるならばそっと触れてみたい、と願います。そのためにもまずはわたし自身を知りに行こう、と、わたしの足は今までよりもずっと力強く、わたしだけの森を踏みしめるのでした。

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