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短編小説「色褪せて、消えてなくなれ」



「菜乃花は、俺のことまだ好きなの?」

東京の街は、夕闇の底に沈んでいけばいくほど街を歩く人々の足取りが軽くなる。夜の街へ繰り出す若者たちであふれているからだ。わたしの地元の山陰地方では、夕闇に沈む景色とともに、人通りはどんどん少なくなっていったのに。

東京の、池袋なんていう賑やかな街に住んでいた。大学を卒業してからもう3年になる。卒業と同時に就職した大型書店がちょうどこの街に鎮座しているのだ。家賃11万円のマンションに、会社からの住宅手当を充てて6万円で住んでいる。おかげで通勤には徒歩10分という近さで便利だ。
その池袋にある、とある喫茶店でその男と対峙していた。

山陰では見たことがなかったけれど、東京にはよくあるチェーン店で、ケーキとドリンクセットが1800円もする。日本はいつからこんなにもインフレになってしまったんだろうと、去年のお正月に山陰で入ったカフェの「ケーキセット800円」を思い出して泣きそうになる。

5年ぶりに再会した同級生の坂瀬奏真さかせそうまは、わたしの顔をまじまじと見つめ、首を傾げていた。その顔にどこか自信がみなぎっているように見えるのは気のせいだろうか。

「いきなりなによ〜?」

自分では精一杯取り繕ったつもりだった。けれど、奏真は全然動揺するような素振りもなく、余裕の表情でまだ真顔だった。わたしはと言うと、実際は彼からのその一言に虚を突かれたような気持ちになって、「ああ、わたしってもしかしてまだこいつのことが好きなのか……」と自分に問いかけてしまった。

「だって、“ちょっとそこでお茶しよう”なんて言うから」

「それは、久しぶりで懐かしかったからで」

「だけど、いきなりお茶って、大胆だなと」

「うぅ……」

奏真は昔から変わらず、思ったことを直球で口にする。その潔さに、わたしは惚れていたのだ。惚れて、心がきゅっとなって、彼に告白をして、高校卒業と同時に2年間付き合っていた。

奏真への気持ちはたぶん、いや十中八九わたしの方が大きかった。だって、わたしは一日に何回も好きとか愛してるとか甘くて重たい言葉を伝えないと気が済まなかったのに対し、奏真の方は「俺も」と軽く返してくれるだけだったから。ああ、でも愛の大きさって言葉だけで測れるものなのかな? もしかしたら全面的にわたしの考えが間違っているかもしれない。でも、明確に相手が自分のことを好きだって確信できるのは、そういう言葉を伝えてくれる時だとは思う。

「……まあ、そんな話は置いておいてさ。今日はなにしてたの?」

5年ぶりに再会したというのに、この5年間の出来事ではなく、「今日」のことを聞くんだ。奏真は空白の5年間に、わたしが何をしていたかなんて興味がないんだろうな。
わたしは、わたしはずっと……奏真がいま、どこで何をしているのか、誰の隣にいるのか、誰を好きになっているのか、そんなことばかりずーっと気になっていたというのに。

「置いておいて、じゃないよ。わたし、奏真のことまだ好きなんて言ってない。あ、ちなみに今日は今映画を見てきたところ」

奏真とたくさん会話をしたい。
そんな気持ちが先行し、支離滅裂に会話を進めてしまう。
5年間離れ離れだった時間を埋めるのにはどれだけの時間が必要なのか。少なくとも会話をしなければ隙間なんて埋まらない。それだけは分かっていた。奏真がわたしとの距離を縮める意思がないのは分かっている。だって偶然再会しただけなんだもん。映画を見て、一息ついてから本屋をぷらぷらし、さあSNSで映画の感想でも呟こうかと道端でスマホを開いたとたん、視界の端に見知った顔が現れたのだ。わたしはとっさに声をかけ、近くの喫茶店に転がり込んだ。そこが、ここ。このインフレーション・ケーキセットが売っているチェーン店。奏真はほとんど強引に、自分の意思とは裏腹に喫茶店に連れ込まれた。だから、奏真がわたしと話したいと思っているはずがないのだ。

「映画って、何の?」

まだ好きなんて言ってない、というところにはまったく反応を示さずに、奏真は映画のことを尋ねてきた。運ばれてきた熱々のコーヒーカップに口をつけると、ごくごくと喉を鳴らす。わたしはまだ、モウモウと湯気を立てるコーヒーを啜る気になれない。奏真は火傷をしない体質だった。そうだ、思い出した。わたしはいつも、猫舌で火傷をするから、その度に奏真に笑われていたっけ。

「『きみに告げるさよなら』っていう映画。タイトルの通り、青春映画ね。ええ、一人で見ましたよ。いいでしょ、べつに」

「誰もダメだなんて言ってねーだろ。菜乃花ってそういう青春映画、昔から好きだったよな」

「そう、かも」

奏真がわたしの好きな映画のジャンルを覚えていてくれたことに、不覚にも胸がきゅっと鳴った。わたしは単純だ。たとえ社交辞令でも、奏真が少しでもわたしに興味を持ってくれていると思うだけで、昔彼に抱いた甘酸っぱい気持ちが蘇ってくる。


「面白かった?」

「うん。でも、最後に主人公の彼氏が死んじゃって。青春映画って、どうして主人公かヒロインが死んじゃうのかな。死ななくても感動する話ぐらいつくれると思うの」

「それでも何回も見てるんだろ。そういう話、好きなくせに」

「好きなのかな。うん、好きなのかも」

好き、という言葉を口にする度に奏真の反応が気になってしまう。ちがうちがう。これは単に「青春映画が好き」と言っているだけ。彼に対して発した言葉じゃない。

わたしが内心慌てているのを見越しているのかいないのか、奏真はインフレーション・レアチーズケーキを食べながら、自分のスマホを取り出した。それにしてもここのケーキ、値段の割りに小ぶりなんだよなぁ。男の人なら三口で食べ終わりそう。文句を思い浮かべつつ、わたしは自分の頼んだモンブランにフォークを当てた。

「そういえば連絡先って、持ってたっけ?」

わたしはモンブランに突き刺すはずだったフォークをぴたりと止める。
連絡先。奏真の連絡先?
なぜ彼がいまそんなことを言ってくるのだろう。わたしはこの男の言動が不可解でならない。だって、連絡先は別れたあと、奏真の方から削除してきたのではないか。
濁りのない瞳でわたしを見つめる彼を見ると、ああ、忘れているんだな、と分かった。

別れを切り出した方は、昔の彼女との別れ際のいざこざなんて、綺麗さっぱり忘れてしまうものなのかな。
ちくしょー。こっちがどれだけ今までもどかしい思いをしてきたか、教えてあげようか? あ、でも今彼の気に障るようなことを言うのはよくないな。せっかく自ら連絡先を教えようとしてくれているみたいだし。

「連絡先、今は持ってないよ」

「それなら一応教えて」

「うん」

かなりあっさりとしたやりとりに、わたしは拍子抜けしていた。

この5年間、何度奏真に連絡をとりたいと思っても、連絡手段がなくて諦めて
きた。もし連絡先をずっと持っていたら、わたしはしつこいくらい彼に連絡をしていただろうから、それぐらいがちょうど良かったのかもしれないけれど。あの悔しい日々を思い出すと、ようやく冷めてきたコーヒーがいつになく苦く感じる。

わたしは奏真に自分のスマホを差し出して、彼の画面に表示されたQRコードをかざす。ピロリン、という軽快な音と共に奏真の連絡用アカウントが表示される。表示名はそのまま坂瀬奏真、アイコンは最近流行のバンドのボーカルだった。

「このバンド、好きなの?」

「ああ。前にちょっと付き合いがあったやつが好きで、そいつの影響でハマったんだよ」

「ふーん。それってもしかして彼女?」

「そうかもな」

奏真は動揺することもなく、さらりと言ってのけた。
彼女。わたしと別れたあとに付き合ったんだろう。わたしの止まっていた時間に、奏真は人並みに歩いていた。そんなの当たり前じゃん。普通の人間は、1日24時間の中でいろんな人に出会い、影響し影響を与えている。彼女ができていたっておかしくない。わたしの時計の針が、止まっていた5年間。

奏真の口ぶりでは、その彼女とはすでに別れているのだろう。それにもかかわらず、アイコンのボーカリストは前の彼女の好きだった人。それが何を意味しているのか、わたしに分からないはずがない

「その元カノさんのこと、まだ好きなんだ」

さっきのお返しと言わんばかりに、わたしはわざわざ口の端を上げておまけに目を細めたりなんかして尋ねた。苦いコーヒーに、砂糖をひとさじ入れるとちょうど良い甘さになった。

「さあな」

気持ちをごまかして逃げる奏真は、わたしの知っている昔の奏真と何一つ変わっていなくて、わたしは恐ろしいほどの懐かしさを覚えた。

「まだ好きっていう感情ってさ、一方的で誰も報われないよね。……て、さっ
き見た映画のセリフ、思い出した」

「彼氏が死んじゃう青春映画のセリフ?」

「そう」

わたしはカタン、とコーヒーカップをテーブルに置く。甘くしたら、すぐに飲み終えてしまった。空になったコーヒーカーップの縁の部分に、茶色い染みが歪に広がっていた。
**

わたしが奏真の彼女だったとき、わたしは毎日ふわふわのお布団に包まれているような心地がしていた。夢心地、っていう言葉が正しいのかな。奏真のことが好きで好きでたまらなくて、毎日奏真と連絡を取り合えるだけで幸せで、連絡にかまけてご飯を食べ忘れたことだってある。一人暮らしの大学生だったから、ご飯を食べなくても誰に文句を言われることもなくって、そのせいか一時的に激痩せしてしまったんだっけ。「幸せ太りじゃなくて、幸せ痩せだな」って友達からからかわれた。わたしがへへへと笑っていると、友達は呆れたように羨ましい、とため息をついた。

わたしにとって、奏真は初めての彼氏だった。同郷で、高校も同じ。わたしは高2の時から気になっていたんだけど、奏真の方はわたしが声をかけるまで、わたしのことを知らなかった。はーあ、って残念に思ったけど、振り向いてくれただけでも良かったんだ。
奏真がスポーツ大会の日にサッカーで大活躍するのを見た時から、わたしはもう彼以外、何も見えなくなった。恋は盲目という言葉が、本当だったんだなって思い知る。母親が教育ママだったからなんとか志望の大学には合格したけど、そうじゃなかったらたぶん、大学受験すらしていなかったと思う。教科書なんかより、奏真が校庭で走る姿を追うことの方が、貴重な青春時代には必要だと思ったから。

在学中に何度か声をかけ、卒業と同時に告白をした。奏真は少し迷った後、「俺でよければ」と快く返事をしてくれた。その日から、わたしの世界は奏真の見る世界と一体化したんだ。

奏真の進学先の大学は、県内にあるわたしの大学とは違って隣の県の公立大学だったから、わたしたちはプチ遠距離恋愛ということになる。わたしも、実家から大学に通うには遠かったので、一人暮らしをすることになった。奏真ももちろん一人暮らし。わたしたちは休日になると街へ出かける感覚でお互いの家を行ったり来たりしていた。

「奏真、好き。大好き。わたしのこともっと好きになって」

「ああ、当たり前だろ。俺だって同じ気持ちだって」

甘い感情をぶつけ合いながら、下宿先の家のベッドで激しく抱き合った。わたしは本当は奏真から「好き」という言葉をちゃんと聞きたかったんだけど、奏真はあんまり「好き」を言わないタイプの人間だった。

少し不満に思っていたけれど、それでもわたしを愛してくれるなら些細な問題に過ぎなかった。奏真は「好き」は言わない人間だったけれど、酔っ払って身体を重ねた後は決まって「菜乃花と結婚する。いやしよう」と全身汗だくのぐちゃぐちゃの状態で迫ってきた。

「うん、絶対する。約束ね」

「ああ。任せろって。絶対幸せにするから」

「絶対ね。わたしも奏真のこと幸せにする」

「俺は絶対幸せになれる」

「絶対って何回言うのよ」

「それはお互い様だろ」

わたしの口を塞ぐように、再び奏真はわたしにキスをしてきた。わたしは負けじと奏真を感じようと奏真に抱きついた。どうしようもないくらい胸が締め付けられて、悲しくないのに涙が溢れてきた。今考えたらなんて贅沢なことをしていたんだろう。幸せの絶頂に泣いているなんて、悲しみのどん底に落ちたわたしからすれば贅沢以外の何ものでもなかった。


奏真とわたしは、友達に話をするとその友達が本当にため息をつくくらい馬鹿みたいにラブラブだった。まさに、恋は盲目状態。二人とも人生で初めてできた恋人で有頂天になっていたらしい。友達には「もうあんたの話はいいよ。お腹いっぱい」と途中で惚気話を遮られるほどだった。
奏真は、わたしから告白をしたにもかかわらず、思ったよりもわたしのことを好きになってくれていた。嬉しい誤算だった。交際を進めるにつれて二人の間では、炎が酸素を取り込んでどんどん燃え上がっていくみたいに愛が膨らんで、もはや結婚する以外にこの膨らんだ気持ちの置き所を見つけられなくなってしまっていた。
それなのに、どうしてあんなことになったんだろう。

奏真と付き合って2年が経とうとしていた。わたしはいつものように奏真とデートの約束をしていたので待ち合わせの駅で待っていたのだけれど、奏真はいつまで経っても現れない。待ち合わせの時間を間違えたかな、って奏真に送ったメッセージを確認してみたんだけど、ちゃんとこの時間だった。
寝坊でもしてるのかと電話をしてみたけど奏真は電話にも出なかった。やがて日が暮れて、もう待っているのも限界になってその場から立ち去ろうとしたところでメッセージが一通。

「別れよう」

ただそれだけの無機質な言葉がスマホの画面の中に浮かび上がった。

「え……?」

腹の底からぞわぞわと這い上がってくる拒絶感、絶望感、焦燥感……とにかくいろんな負の感情がわたしの胸を押しつぶして半狂乱状態になりながら奏真にメッセージを打った。でも、一度も返信が来ることもなく、一日が経ち、一週間が経ち、一ヶ月が経ち、一年が経った。その間に奏真の下宿先に行くというストーカーじみた行為をしたこともあったが、奏真はこうなることを見越してか引っ越してしまっていた。

その後のことは記憶がぼんやりとしていたあまり覚えていない。
気がつけばわたしは普通に就活をして東京で働くことが決まった。わたしが奏真との惚気話を聞かせていた友達は就活中に仲良くなった他大学の男の子と恋に落ち、付き合い始めた。

わたしは友達に呼ばれてそういう場に行っても、恋をする気にはなれなかった。奏真のことが好きだった。編集中の動画を好き勝手にカットするかのように突然千切られてしまったわたしの恋心が、都合よくなくなってくれることなんてなかったのだ。

**

奏真に連絡先を教えた日の夜、わたしは自宅でスープカレーを作って食べていた。一年前に学生時代の友達と一緒に北海道に行ったときにはまったのだ。スパイシーな香りがどんどん食欲をそそってものの10分で食べ終わる。手慰みにスマホをみると、なんと奏真から連絡が来ていた。心臓が跳ねる。確かに連絡先を教えたものの、まさか本当に連絡してくるなんて思ってもみなかった。わたしは逸る気持ちを抑えながら奏真のメッセージを開いた。

『今日はありがとう。俺も突然だったからちょっと面食らっちまった。でも、久しぶりに話せてさ、なんか懐かしかったんだ。今週末、良かったら一緒に飯でもいかない? ショッピングでも、散歩でも、なんでもいいけど』

こ、これは。
もしかして、デートの誘い……!?
心臓は跳ねるどころでは済まなかった。暴れるようにバクバクと鳴り、わたしはなにも考えがまとまらないまま、とにかく早く返事がしたくてたった一言、
「うん」
と送った。


「びっくりしたよ。海に行きたいなんて言い出すから」

「びっくりしたのはわたしのほう。突然誘ってくるなんて」

鼻腔をくすぐる潮の香りが、風が吹くのに合わせ強まったり弱まったり、まるで駆け引きをしているかのようだ。わたしは風になびくミントグリーンのワンピースの裾がまくしあげられないように必死で手で押さえる。

「どうした? 大丈夫か」

「う、うん、大丈夫……」

こんなに風強いならパンツスタイルにすればよかったかなあ。でも、奏真の前では可能な限り“可愛い女の子”でいたかった。
わたしたちは間に30センチほどの距離を保ったまま夕暮れ時の海辺を歩いていた。手を繋ごうと思えば繋げる距離。だけど、絶対に奏真はわたしの手を握らない。分かってる。だからわたしのほうが、いつ彼の手を取ろうかとずっと迷って、心臓の動きが不自然なほど速くて気持ちが悪い。
せっかく奏真が誘ってくれたんだ。しかも、東京を抜け出して湘南まで来た。言わずと知れたデートスポットで最高の時間帯で、天気だって味方をしてくれている。今日この日をものにしなければ、わたしはいったいいつ本気になるの?

「ちょっとあの辺に座らね?」

緊張で胸が押しつぶされそうになっていたところで、奏真が砂浜の方を指差した。夕方のこの時間帯、砂浜に座り込んで語るカップルたちがちらほらと見受けられる中で、わたしも同じように奏真と並んで座る。

「……懐かしい」

「そうだな。昔、こうして二人で海に来たことあったよな」

「ある。何回も来たよ。おんなじような時間帯に」

「確かに。あの時からお前、変わってないよな」

変わってない、と言われわたしは嬉しかった。奏真へのわたしの気持ちはあの日から色褪せることなく続いている。いや、日に日に濃くなってもう行き場がなくなっているんだよ。
わたしも奏真には変わったほしくなかった。わたしが好きだった頃のまま、5年分の歳を重ねているだけの彼。ふふ、昔の関係が急に自分たちに差し迫っているように感じるな。やっぱり場所のせいかな。潮風で少しベタつく髪の毛も、砂だらけになる掌も、それをあとで洗い落とすときの心地よさも、ぜんぶ覚えているの。

「……奏真はさ、将来のこととか考えて不安に思うことってある?」

わたしは昔、奏真に自分の不安や悩みをなんでも相談していた。奏真はうんうんと頷きながら真剣に聞いて、最後にはわたしの頭を撫でて「大丈夫だよ」って言ってくれる。だから、悩んでいて辛いはずなのに、悩み相談をする時間がとても好きだった。

「将来? ああ、まあそれなりに。でもそんなに深刻って感じでもないかな。周りの奴らはまだ遊んでるし」

「そっか。わたしは深刻に悩んでるかも」

「……どんな?」

その言葉を待っていた。わたしは就職してから今まで日々考えていたことを訥々と話し出す。

「奏真は男だからまだあんまり考えないと思うけど、そりゃ結婚とかその先のこととか……。先月同期が結婚した。他の子もおめでとうって言いながら自分たちは彼氏と幸せそうで。まだ焦る年齢でもないのかもしれないけど、わたしだって子供はほしい。30までには結婚したいし。でも相手もいなくて。見つからなくて。ていうか、好きってならないんだよね。どういう感情だったか、思い出せないくらい」

奏真の目が、砂浜に落ちるわたしの指先をじっと見つめていた。
好きの感情は、もちろん今も胸の中で疼いている。でもそれは、奏真に対してだけ。他の人にはもう抱けない。わたしの好きの矛先はいつから奏真だけに特化してしまったんだろう。

わたしはきっと、この海の向こうの岸からでも、この星の向こうのまだ見ぬ惑星からでも、奏真の姿を探してしまう。幸せのかたちをした奏真の全身をゆっくりと抱きしめて、抱きしめ返されるまで心は満たされない。

三角座りをした奏真の肩が少しだけわたしに触れて、わたしは反射的に身体を離してしまう。本当はくっつきたいのに、それをするのが怖かった。
奏真はずっと、押し黙ったままだ。遠くに座っていたカップルたちが立ち上がってそろそろと砂浜を歩いていく。だんだんと満ち潮になって、足先まで海水がやってくる。サンダルが海水に浸る。それでも奏真は立ち上がらない。わたしは息を押し殺して寄せては引く波の音を静かに聞いていた。不規則に流れるざぶんという波の音が耳に心地よい。できるならこうして奏真と二人きりで、ずっとこの音に身も心も委ねてしまいたかった。

「……うそ、ついた」

「え?」

隣で奏真の息遣いが聞こえる。ずっとずっと探し求めていた人の生きている証。もしまた見つけたら、泡のように消えてしまうんじゃないかって心配するほどに恋焦がれていた。
別れてから、奏真はもうわたしとは違う世界線に行ってしまったんだと思っていた。でも、同じ空の下でこうして息をしていたんだ。

「わたし奏真のこと好きなの。奏真しか好きになれないの」

誰の口から漏れたんだろうと、他人事のように思う。
それはたぶん奏真にとっては暴力的な言葉。5年間、いや奏真に片想いを始めてから8年間、わたしのそばに寄り添って消えずにいた気持ちが、ただ「今でもここにいるよ」って呟いただけの。
奏真はわたしの身から放たれたありふれた気持ちの残骸を聞いて、ふうと息を吐いた。

「そうか」

徐に立ち上がり、わたしから少し離れて掌についた砂を払い落とす。地面に落ちていく砂の粒を、わたしはぼんやりと眺める。

「……俺さ、この前菜乃花と偶然会って、本当に懐かしいなって思って」

「うん」

「あの時は若くて……って、こんなこと言ったら会社のおっさんたちに怒られそうだけどよ。若くて、青くて、俺もまだ子供で。菜乃花のちょっとした言動に苛立って別れちまったんだけど」

そうだったのか。わたしの言動に、苛立って。

「もしかしたら、5年経ったいま、違う見方ができるんじゃないかって。……もう一度好きになるかもって思って、今日誘ったんだ」

身体中の神経が研ぎ澄まされて、波の音も遠くでウミネコが鳴いている声も、何もかも聞こえなくなる。奏真の言葉だけを拾おうと必死になっている。

「だけど」

奏真は悲しそうな表情でわたしを見た。わたしは、顔の筋肉が引きつっていく。

「……やっぱり違った。俺はたぶんもう、菜乃花のことを好きにならない」

奏真はポケットからタオルを取り出して砂塗れの掌を拭う。例の、わたしの次に付き合った相手が好きだったバンドのロゴが刺繍されていた。
ずいぶん勝手だと思う。あのインフレーション・ケーキの売っている店よりも客のことを——この場合わたしのことを、馬鹿にしている。
ざぶん、と一際大きな波が起きて、水しぶきがわたしたちの元に降りかかる。立っていた奏真はすっと避けたがわたしは潮まみれになった。あーあ、このスカート、お気に入りだったのに。
わたしも奏真と同じように立ち上がり、全身に降りかかった潮水をタオルで拭いた。

「そっか」

波が引くと同時に、わたしの中で何かがすっと引いていくのを感じた。
思えばわたしにだってあったのだ。奏真のことを、鬱陶しいと思う瞬間が。
奏真は自分に都合の悪いことがあると、決まって不機嫌になる。たとえわたしが原因でなくても、わたしに対して口を利かなくなり、せっかくの楽しいデートが台無しになったことも少なくない。悲しく濁った気持ちを抱えたままデートを終えた日、とんでもなく後味が悪かったのに、彼と別れてから5年間、そういう負の部分には蓋をして美化された思い出だけに浸っていた。

わたしは奏真のことを別れてからも好きだったんじゃないんだ。
わたしはたぶん、奏真のことを本気で愛していた自分のことが大好きで、忘れられなくて、胸がきゅっとなって、奏真のことをこんなにも好きなんだと勘違いしていた。
自己愛だったのだ。それも、好きな人を好きでいた自分が好きだという、歪んだ自己愛。

「さよなら」

怒るのでもなく、悲しむのでもなく、わたしは笑って奏真に手を振った。頭のおかしなやつだと思われたに違いない。だけどわたしはこみ上げてくる笑いが止まらなかった。なんて滑稽なんだろう。わたし、恋と自己愛すらも区別がついてなかったなんて。
水平線に夕日が沈んでいく。真っ赤に染め上げられた奏真の顔が驚きで強張っていた。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
この美しい景色は、100年後も1000年後も消えてなくなることはないんだろうな。
変わらずに誰かの心を感動させるんだろう。
わたしのこの厄介な気持ちも、奏真の心を支配しているわたしの次に付き合った元カノへの気持ちも、なくなることはないのかもしれない。
だけど、わたしは願わずにはいられない。
この気持ちがある限り、わたしはもう誰のことも好きになどなれない気がするから。
わたしの歪んだ自己愛なんて、色褪せて、消えてなくなれ。

「菜乃花」

何を伝えたいのか、夕日を背にして砂を踏み締めたわたしの腕を奏真が掴む。その目が「もう帰るのか」と聞いている。「もう会わないのか。もう終わりなのか」と訴えている。「お前の気持ちはそれまでだったのか」と。
わたしは何も言わず、奏真の腕を振り払う。決して痛みなどない。奏真を想う自分は幻想だった。
視界から彼の姿が消えた。波の音が次第に遠くなって行く。二人分の足跡のついた砂の上を、ひとり転げそうになりながら歩く。
後ろを振り返ればきっと夕日がいよいよ水平線に沈んでいく幻想的な風景が見られるんだろうけれど。そんなことよりもわたしはお腹が空いていた。家に帰ったらまた、手作りのスープカレーを食べよっと。


【終わり】




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