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笑顔でいることは、正義だと思っていた。



物心ついた頃の私は、写真で笑うことができない子どもだった。
「はーい、こっちだよ! こっち見て」
「ほらあ」と、カメラマンの男性が、鈴を付けたブタのパペットを揺らしている。
私はそんな彼と、音のなるブタさんを頑張って見つめてみる。
いち、にの、さん。
カシャ。
「あー……、またダメでしたね。もう一度撮りましょう!」
威勢を失わないように必死で盛り上げようとしてくれるカメラマンと、「すみません」と冗談みたいにヘコヘコ頭を下げる母。
それから、水色のドレスに身を包まれて無表情のまま突っ立っている、7歳の私。
七五三の写真を撮りにメイクをして、「これがいい」と自分で選んだ可愛らしいけどちょっぴり大人っぽいドレスを着た私だったが、せっかくの記念撮影の間じゅう、一度も笑顔になれなかった。
記念に購入した台紙アルバムに写る自分は、やっぱりどこかぼうっとしたような無表情。
原因はなぜか、本当にわからなかった。
カメラを向けられると、緊張して顔が強張ってしまうからかもしれない。しかしそれにしたって、もっともっと小さい頃の私は、ちゃんと笑えていた。アルバムを見返しても、しっかりとカメラ目線で笑顔を浮かべている。
それなのに、どうしてか、小学生の私は、写真撮影の際にいつもむすっとしていた。
直前に嫌なことでもあったのか? 不機嫌だったのか? そのどちらでもないことは、自分自身が一番よく知っていた。
私はただ、本当に笑えないだけだったのだ。

「もえちゃんってさ、いっつもなんか微笑んでない?」
中学で仲良くしていた友達が、それこそニコニコと笑いながらそう言うのを聞いて、私は耳を疑ったものだ。
「え、ほんと? そんなつもりないのに」
「うん。たまにチラっと見たときちょっと笑ってる」
全然、いいことだと思うけど。
とその子が推してくれるので、私は「そっか、そうなんだ」と内心ほっとしていた。写真撮影でも誰かと会話をしている時でもないのに笑っているというのは、自分でもあまり意識していなかったが、「四六時中むすっとしている」女の子よりは、よほどマシに映るだろう。
その時はとにかく友達に褒めてもらえたのが嬉しくて、それ以降私は、複数人で会話しているときには常に笑顔でいるようにした。
そうするようになってから、人と関わるにも好印象を抱いてもらえるため、何かと好都合だったのだ。
何より、自分自身が楽しかった。いつも笑っている女の子は、確実に人気者になれる。幸せになれる。一番とはいかないまでも、むすっとした女の子よりは、一緒にいたいと言ってくれる人が多い。

だから、やめられなかった。
今の今まで、続けていた。


「さっきから笑ってるけどさ、なんか喋ってよ〜」
社会人になってから初めての上司との飲み会。
初対面のおじさんにそう言われた時、飲み会開始からすでに一時間以上経過しており、周囲のテンションはハイパーマックス。それに比べてあまりお酒を飲まない私は、通常テンション。周りの声がとてもうるさくて、ベタベタと身を寄せてくる酔っ払ったパートのおばさんもいた。
私はその光景に圧倒されて、ただただ皆が大きな声で話すのを、いつものように笑って聞いているしかなかった。
この瞬間になってようやく、自分が何か間違ったことをしていると知った。
初対面の人と、かつ大勢人がいる中で話すのが苦手な私は、「話せないなら周りの話を聞いて、とにかく笑っていれば良い」と思っていた。
笑顔は正義だ。
他人が笑っているところを見ると、こちらまで幸せな気持ちになれる。
そう信じて疑ったことなんて、なかったのに。
「もっと声張って喋って」
私の何倍も酔っ払って、私の何倍も大きな声で話す先輩たちが、冗談めかして言う。
でも、その冗談を、私は笑えなかった。
声が小さいことが、昔からコンプレックスだった。
小学生の時、「六年生を送る会」で、生徒のうち何人かが大声で小学校を去ってゆく六年生にエールを送るイベントがあった。
私はそれに、一度だけ参加したことがある。
もともと声が小さいという自覚があって、昼休みに一生懸命練習した。
先生が、20メートルほど離れたところに立って、
「じゃあそこから一人ずつ台詞を言ってください」
と指示した。
私は自分の番が来ると、予定どおり担当の台詞を叫ぶ。
「聞こえません。もう一回!」
何度挑戦しても、先生からOKサインは出ない。
慣れない声出しに、疲弊していく喉。
他の子たちは、一発で合格する人も多かったのに、私は何回やってもダメだと言われた。
ああ、私って、こんなに声が出ないんだな。
実感した途端に、諦めの気持ちに支配されて、本番までそれなりに練習はしたけれど、その日以降、「自分は他の誰よりも声が小さい」という意識が抜けなくなってしまった。


声が小さい自分は、人と会話をするのが億劫になってゆく。
いちいち「声ちっちゃいね」と指摘されるのが嫌だからだ。
それでも、たとえ大きな声で話すことができなくても、笑っていればいいと思った。
笑って誰かの話を聞く。
私にとっては、それが一番の処世術だったのだ。
でも、
「笑ってるけど、今の話わかってる?」
最近は飲みの席でそう言われることが増えて、話を聞いている最中に涙が目の縁にジワリと上ってくるのを感じた。
分からないよ。
でも、分からなくたって、笑ってていいじゃないか。
それとも、笑ってちゃダメだっていうの?
じゃあ、どうすればいいの? どんな反応をしろっていうの?
「他人の話はニコニコ笑って聞いているのが正義」だった私は、理不尽な注意を言ってくる人たちに憤慨したかった。目の前で叫びたかった。
分からないけど、笑ってるんだって。
いちいち突っ込まないでくれって。
私は皆みたいに饒舌に話ができない。だから聞き役に徹している。話を聞いている人がノーリアクションでもいいの? 絶対に笑って聞いてくれた方が嬉しいと思うけどな……。


「笑うことが、必ずしもいいこととは限らない」と痛感した私は、一時期とても悩んでいた。飲み会でどんなふうに振る舞えばいいか分からなかったから。笑っている以外に私にできることが何なのか、思いつかなかったから。

けれど、そんな私の悩みを打ち砕いてくれる出来事がつい最近起こった。
それは、この春に行われた大学の卒業式でのことだ。
「じゃあ、撮りますね。ここ見ててください」
大学の卒業式といえば、女子はほとんど袴を着る。
朝早くに着付け会場でたくさんの同級生たちが赤、黄、緑、と鮮やかな着物に包まれて綺麗になってゆくのを見ながら、自分も人生でそう着る機会も少ない袴を着ることができるのが、楽しみだった。
ヘアセットと着付けが終わると、記念写真を撮る時間があった。事前にオプションで申し込んだアルバム用の写真だ。私は自分の番になると、カメラの前に立ってカメラマンのお姉さん、それからカメラのレンズを見つめて、笑った。
昔はカメラの前で全然笑えなかったけれど、今ならすうっと自然な笑顔を見せることができたため、撮影はスムーズだった。
一、二、三。
カシャ。
「お、いいですね! いい笑顔」
撮影をしてくれたカメラマンのお姉さんが、ばっちりというふうに笑ってくれた。

「いい笑顔」

七五三で、あれだけ笑うことができずに母を困らせていた自分にとって、嘘みたいな褒め言葉だった。
いい笑顔、という時のお姉さんの表情がまた、完璧だった。
完璧に、輝いていた。笑っていた。
ああ、やっぱり。
笑顔っていいな。
もう一度、そう思うことができた。
笑顔が誰かをまた笑顔にする。
いつもそういうわけではないけれど、笑顔を向けられて不幸せだと感じる人はいない。
確かに飲みの席では、お酒の効果もあいまって、同席している相手には、笑ってるだけで喋らない人は、価値のない人だと思われることもあるかもしれない。
それでも、私は笑ってやる。
話せないことから逃げるためじゃなく、笑いたいから笑うのだ。

幸せになるために、笑うのだ。



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