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ジャグリング・ユニット・フラトレス 『白い花』感想 「言葉のあるジャグリング」

2016年3月6日(日)にジャグリング・ユニット・フラトレス第2回公演『白い花』を観ました。「言葉のあるジャグリング」というテーマで、感想を書きます。ちなみに、こちらはピントクルのブログで書いたものをまとめなおしたものです。


ジャグリング・ユニット・フラトレスは「言葉のあるジャグリングの舞台」を行う珍しい団体だ。だが、その珍しさは単に、無声劇を有声劇に延長したことに起因するのではない。それは言葉におけるジャグリングの拡張によってである。

日本では、10年ほど前からジャグリングの舞台というものが徐々に盛んになってきており、そこでの課題は「いかにパフォーマンスとしてのジャグリングを機能させるか」という点にあった。

そのために、キャラクター、非日常的な世界観を導入したものが開発されていき、ついには物語性をもった「演劇」のような作品も生まれるようになる。だが、それらはあくまでパフォーマンスが中心にあるという性質上「無声」劇の形をしている。

そして、フラトレスも物語のある舞台、つまり「演劇」のような作品をおこなう。言葉は演者のしゃべる「台詞」としてあらわれる。

しかし、そこでのジャグリングの役割に注目すれば、この団体が単に有声劇のジャグリング舞台をおこなうわけではないことが分かる。

今回の作品『白い花』において、台詞の発話者における心情の背景、つまり代弁としてジャグリングは現れる。

例えば、リングのオブジェを規則的に円のように並べると花弁のようにみえる、あるいは皿回しが傘にみえることから、ジャグリング道具の「見立て」が行われた。また、積むという言葉と箱の積載のタイミングがリンクするという言葉(概念)を直接的に具現化するという方法もあった。

つまり、ジャグリングをパフォーマンスとして捉えるのでなく、物体の扱いを多様にすること、豊かにすることへと拡張し、そのうえで、ジャグリングを背景として発話される「言葉」にはどのような力があるのか、とフラトレスは問うたのだ。

これがフラトレスを独自の立場にしている所以である。

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