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クロディーヌ・ロンジェの数奇な(だけどありきたりの)運命

クロディーヌ・ロンジェの人生はほんとうに奇妙である。

もうすごい変だ。ものすごい変だ。これほどドラマに満ちた生涯を送る人というのは珍しいのではないかと思うと同時に、そのドラマの数々がまるで『昔の少女マンガ』のようであることに驚く。“いくらなんでも、そんなコテコテの展開はないだろう”と思うような事件に彩られているのだ。つまり、数奇であると同時にありきたりなのだ。クロディーヌ・ロンジェのそんな風変わりな人生について書こうと思う。


このひとはフランス生まれパリ育ち、生粋のパリジェンヌなのだけど、幼い頃からバレエを習っていて、ずっとダンサーになりたかったんだそうです。

で、1960年に渡米して、ラスヴェガスのショーダンサーの仕事につくんだけど、ある日の仕事帰り、運転していたクルマが急に故障したんだと。

クロディーヌが途方に暮れていると、偶然一台のクルマが通りがかった。そのクルマから降りてきたのはなんと、当時アメリカで大ヒットを連発していた歌手のアンディ・ウィリアムス。彼もクロディーヌとおなじく、ラスヴェガスのショーに出演していたのです。アンディは快くクロディーヌをピンチから救いました。

この出会いをきっかけとして二人は恋に落ち、その翌年に結婚したのでした。


もうすでに少女漫画みたいですが、クロディーヌの数奇な運命はまだまだこんなものではありません。


結婚してほどなく三人の子供に恵まれたため、クロディーヌは三年間、芸能活動を休止します。

そののち芸能界復帰したクロディーヌは、TV番組に出演するようになります。ウィリアムズのコネで、ウィリアムズが出演していた番組に出まくったのです。クロディーヌはまたたく間に人気女優となりましたが、ある日、某番組でボサノヴァを歌ったところ、その番組を偶然みていたレコード会社の社長が感銘を受け、『今すぐこの子と契約しよう!』となり、ソッコーでレコードデヴューしました。この社長こそが名うてのトランペッター、そして60年代から70年代にかけて無数の名盤を産み出す事となるA &Mレコーズの創業者、ハーブ・アルパートだったのです。ハーブの直談判によってクロディーヌはいきなりアルバム5枚契約を決めます。

そんで発売されたファーストアルバム『クロディーヌ』は50万枚以上の大ヒットを飛ばし、クロディーヌは押しも押されぬ人気歌手へとなりました。


もうBECK顔負けって感じの超絶サクセスストーリーですが、クロディーヌの数奇な運命はまだまだ続きます。


それから色々何やかんやあってクロディーヌとウィリアムズは1970年から別居状態に入り、1975年に離婚するのですが、クロディーヌはほどなく、ウラジミール・サビッチというクロアチア系アメリカ人の青年と同棲を始めます。彼は何とオリンピック出場経験のあるプロスキーヤーでありました。

しかしサビッチは若くハンサムでお金持ちのトップアスリートという激モテ君なうえ、めっちゃ遊び人だったので、子連れで押しかけてきたクロディーヌのことを内心疎ましく思うようになってゆきます。


そして1976年、事件が起こります。コロラド州アスペンにある別荘にて、サビッチが銃弾により死亡します。その銃の持ち主は他ならぬクロディーヌのものでした。


クロディーヌは法廷で『サビッチが銃の使い方を冗談まじりに教えてくれていたときに銃が暴発した』と主張しましたが、サビッチが背後から撃たれていることや、クロディーヌの身体からコカインが検出されたことなどから、クロディーヌは裁判で不利な状況に追い込まれます。

しかし、警察が令状もなしに血液を採取したり日記を押収したことからそれらは結局証拠として採用されず、また、子供たちがどれほど自分を必要としているかを涙ながらに訴える彼女の姿は、陪審員の心を大きく動かしました。

その結果出た判決は、30日間の禁固刑とわずかな罰金であったそうです。平日は自宅で過ごして週末だけ刑務所に入るという、大変温情に満ちた判決でありました。

ちなみに元・夫のアンディ・ウィリアムスは事件を聞くやいなやすぐにクロディーヌの元へと駆けつけ、弁護士を手配し、裁判費用なども全て払ったといいます。

しかし結局、この事件によってクロディーヌは芸能界から引退しました。そしてなんと、銃撃事件で自分を弁護した弁護士ロン・オースティンと結婚しました。ロンは妻子がいたにも関わらず、それでもクロディーヌと再婚したのです。クロディーヌは現在もアスペンでひっそりと隠遁生活を送っているそーです。

ちなみにクロディーヌは60年代から70年代にかけて7枚のアルバムを残しましたが、これらの作品群は現在、ソフトロックやサイケ・ポップの文脈で高く評価されています。




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