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山塚りきまるの『なんかメロウなやつ聴きたい』第八十一回 これから「ジョン・ライドン」の話をしよう(後編)


はいどうも。



前回は“これから「ジョン・ライドン」の話をしよう(前編)”と題して、セックス・ピストルズ加入〜脱退までの経緯をざっくりと追いましたが、後編に当たる今回ではそれ以降のキャリアについて語っていこうと思います。


えー、前回でもちらっと触れましたが、ジョン・ライドンが脱退して最初にやったことは、三週間のジャマイカ旅行です。

このジョン・ライドンはヴァージン・レコーズの新人発掘部門でバイトし始めたんですね。ヴァージンの社長が当時流行だったレゲエの専門レーベル『フロントライン』を立ち上げたのですが、ジョンはそこでご意見番みたいなことをしていたらしく、その新人発掘のための出張であったとも言われています。ピストルズ脱退後、執拗に自分をつけ回すパパラッチに嫌気が差しての逃避旅行だったとも言われていますが、まぁ、いろんな意味があったんでしょう。

ジョンはピストルズ時代、『キンクスみたいな曲やろうぜ』と言われて『俺はキンクスのアルバム14枚持ってるけどどのキンクスがやりたいんだ?』と言い返したほどの筋金入りの音楽マニアでありまして、ポップスもクラシックもクラウト・ロックもレゲエ/ダブやディスコも造詣が深く、アンプもレコードプレイヤーもカセットデッキもスピーカーもこだわり抜いた逸品(スピーカーは英国のメーカー・タンノイの38センチ型で、クラシックを聴くのに適していると言われている製品です。アンプは日本のメーカー・ナカミチ)を使用していたジョン・ライドンに、新人発掘というのはまさにうってつけの仕事だったのではないでしょうか。

ジョン・ライドンがこの旅行で誰かを発掘したという話は寡聞にして知りませんが、なんとリー・ペリーにピストルズの曲を何曲かレゲエ・ヴァージョンでカヴァーさせたというから驚きです。そのヴァージョンは結局世には出回らなかったようですが、当時リー・ペリーはスタジオを全焼させていたので、まぁ、金に困ってたんでしょうね(笑)。ちなみに旅行には旅行には映像作家のドン・レッツや写真家のデニス・モリスも帯同しました。デニス・モリス曰く『あの旅行は別の意味でリラックスした。最高に満喫したよ(笑)』ということだそうです(笑)。何したんだろ、気になるなー(笑)。

レゲエ・ファンであり、ジャマイカに訪れたこともある水木しげる曰く、『ジャマイカの民家や教会には畳二畳ぶんぐらいのスピーカーがあって、低音のもう一つ下の低音が流れている。ジャマイカの人たちは音の魔力を知っているんだね』と評しておりますが、ジョンも同様そのサウンド・システムには魅入られたようで、これはのちに彼が結成することとなるパブリック・イメージ・リミテッドに大きな影響を与えます。

そして帰国後、持ち帰ったアイデアや、大好きなクラウト・ロック、オノヨーコのソロ作品(!)などを参考にして曲を書きまくったジョンは、友人のジャー・ウォブル、同じく友人でクラッシュの元ギタリストだったキース・レヴィン(“ホワッツ・マイ・ネーム”にはキースの名前がクレジットされています)と、オーディションによって雇われたジム・ウォーカーと共にパブリック・イメージ・リミテッド(以下PIL)を結成します。なおこの結成に際し、ジョンは当初、シド・ヴィシャスをベーシストにしようと思っていたそうですが、断られたそうです。

ジャー・ウォブル、本名ジョン・ジョセフ・ワードルはそのあだ名通り、大変なレゲエ・マニアでした。なんせ名前に『Jah』が入っているのですから。『Jah』とはラスタの神様のことです。ジャーは、ベースに関しては全くの素人でしたが喧嘩がめっぽう強かったので(警官を殺したという噂もあるぐらいです)、喧嘩がクソ弱い上に絡まれやすかったジョンのボディ・ガード的な立ち位置で加入しました。

初心者だったジャー・ウォブルは立ってベースが弾けなかったため、椅子に座ってベースを弾いていたそうですが(ベースのネックに音階も書き込んであったらしい)、それを観た人は『あいつヤベエ! タダ者じゃねえ!』って騒いだらしいです(笑)。まぁ、座ってベース弾く人ってあんまいないもんねぇ。

キース・レヴィンは気難しく辛辣なナルシストで、『俺はギター・ヒーローとしてこのバンドに参加してやってる』と本気で思っていました。

しかしながら彼の才能と嗅覚は本物で、まだニュー・ウェイヴという言葉すらなかった時代に、完全なるニュー・ウェイヴィーなギター・サウンドを構築しました。いわゆるフォーク的なものとは徹底的に隔絶された、スカスカで痙攣しまくりのギタープレイ。『変なギターを弾く』ということでクラッシュを追い出された彼ですが、彼のプレイがついに正当な評価を受ける時代が来たのです。実際、彼が在籍していた時代のクラッシュの音源を聴くと、もうすでに彼のスタイルは完成されていたのだということが解ります。

彼の独特のギターは数多のフォロワーを生み、まさしくニュー・ウェイヴを象徴するサウンドとなります。こととなります。

ジム・ウォーカーは…よくわかりません(笑)。タイトなドラムを叩く、完全な正気の善人だと思います(笑)。そして1978年12月、PILはファースト・アルバム『ファースト・イシュー(創刊号)』をリリースします。ジョンがピストルズを脱退したのが同年の1月ですから、本当に行動が早い。





彼らの代表曲『パブリック・イメージ』。いま聴いても余裕でかっこいいですねー。レゲエ/ダブに影響を受けたぶっといベースラインと、高音域の光沢まばゆい軋むようなギターが絡み合い、独自のサウンドを鳴らしています。ジョンのヴォーカルもピストルズ時代と比べると遥かにメロディアスです。





ぶっといベースラインがすげえクール。

ちなみにこのアルバム、タイトルに沿ったアートワークもかなり凝ってて、ジャケがヴォーグ誌の表紙みたいなかっちりしたスーツ姿のジョンで、ジャーがタイム誌みたいにビジネスマン風のスーツで険しい表情をしてて、キースがポップ誌(アメリカの風刺漫画雑誌)ふうのコミカルなヴィジュアルで、ジムはゲイ雑誌のグラビアふうの上半身はだけて濡れた格好(笑)という、明確なコンセプトをもったものでした。

このアイディアを出し、撮影をしたのはデニス・モリス。

ジョンがかっちりしたスーツを着るというのは大変な反響を呼び、のちのニューウェイヴ/ポスト・パンクシーンのほとんどが衣装としてスーツを着用していたのも、このジャケの影響だと言われています。

まぁジェームス・チャンスは違うだろうけど(笑)。

ちなみにこのジャケ撮影では、キース・レヴィンが『なんで俺がジャケじゃないんだよ!!』ってブチギレたそうです。お前どんだけ自分に自信あるんだよ(笑)。


ちなみに日本のPILフォロワー、INU



ギターがそっくりですね。INUの方が上手いけど。てか久々に聴いたけどINU演奏上手いなー(笑)。



そしてPILは翌年11月に衝撃作『メタル・ボックス』を発表します。このレコードはなんとスリーブケースではなく、金属製の缶にレコードが収められているという代物でした(何千枚かの限定リリースですが)。これは『金属製の缶なら音質が劣化しないから』という、オーディオ・マニアのジョンによる発案でした。

ちなみにこれ、のちにCD版でも缶入りのヴァージョンが再発されてて、結構可愛いんですよね。僕も持ってます。期限が切れた免許証とか入れてますね(笑)。

あと缶入りじゃないスリーブケースのヴァージョンは、ファーストのとき散々文句垂れたキース・レヴィンがジャケになってます。よかったね! で、このアルバム結構売れたんですよ。これはPILの代表作としても位置付けられ、ニュー・ウェイヴシーンが盛り上がる中で、PILはシーンの顔とも言える存在となっていきます。




ファーストに比べてベースの存在感が増しているのが解ります。サウンドもよりダブ志向に。歌詞もより暗く文学的に。フリー・フォームなセッション感も強くなってます。

ちなみにこの『PIL』のロゴをデザインしたのもデニス・モリスです。当時のアスピリン錠剤には『PIL』というマークがついていたそうですが、そこから着想を得たものらしいです。ウォーホルみたいな、ポップ・アート的発想ですね。

これを聴いて分かる通り、PILのサウンドの鍵を握っていたのはまさしくジャーの重厚なベースラインでした。どれもこれもすごいシンプルながら、頭に残るベースラインなんですよね。音も凄いし。

僕はこのアルバムを修学旅行先の沖縄のタワレコで買って、宿泊先のホテルでずっとこれ爆音で流して踊ってました。いわゆる友達いない組のグループで、全員仲良くもなかったんで、好き勝手にやってました。楽しかったなぁアレ。




当時のスタジオ・ライヴ&トーク映像です。カッコいいですねー。演奏しているのは『メタル・ボックス』収録の『チャント(繰り返し)』。ジョンのヴォーカルの表現力も凄みを増してますねー。キースもスタジオ盤より明らかにデカい音でフリーキーなプレイしてて、彼の自意識の強さが伺えます(笑)。要のはずのベースがほとんど聴こえない(笑)。ちなみにこの頃からドラマーはマーティン・アトキンスに変わります。タムとシンバルを多用する、なんか神経症っぽいプレイをする人です。




ちなみにこのころ、ジョンはバラエティ番組に出たりもしてます。後年サバイバル番組に出たり、免許がない著名人に車を運転させるバラエティ番組に出たりしている、TVタレントとしての才覚もこのころからすでに発揮されています。サーヴィス精神旺盛で、求められているキャラを理解した上で、そのラインをちょっとだけ超えてみせたりするところとか、泉谷しげるっぽくもありますね。バンドの発明・運営に秀で、音楽的知識が豊富でトレンドも把握しており、知的で誠実であるにも関わらずあえて粗野に乱暴に振る舞ってみせる器用なインテリジェンスという点において、ジョン・ライドンと泉谷しげるは共通しています。



この記事において、泉谷についての僕の考察を述べているのでよろしければご覧ください。数多ある泉谷論考の中でも比較的マトモな文章だと思います(笑)。音楽ライターのほとんどが無視してるか、誤解してると思うので(笑)。音楽ライターさんは一度はゴダイゴ、米米クラブ、泉谷しげるの功績についてちゃんとディグった方がいいと思いますね。オザケンの話ばっかしてないでさ。


しかし順風満帆に見えたPILに事件が起きます。なんとサウンドの要であったベーシスト、ジャー・ウォブルが脱退してしまうのです。これによりバンドは一時的な活動停止を強いられますが、そこは我らがジョン・ライドン、『メタル・ボックス』から2年の時を経て、アルバム『フラワーズ・オブ・ロマンス』を発表します。




ジョンはキースとほぼ二人でこのアルバムを作り上げました。

キースはこの頃からギターよりシンセサイザーの方に興味を示すようになったんでギターもほとんど入ってませんし、全編にわたってほぼベースレスです。ヴォーカルと、シンセと、パーカッションと、ドラムだけ。

フラワーズ・オブ・ロマンスってのは昔シド・ヴィシャスがキース・レヴィンとやってたバンドで、シドはドラム叩いてたんですよね。これは2年前に亡くなったシドへの鎮魂歌というか、そんな感じの歌です。





カッコいいですねー。ジャケも良い。このジャケ、当時PIL界隈でデザイナーとして雇ってた女の人らしいんですけど、ジョン曰く『あいつは何もしないで給料だけ貰ってた』らしいです。でもこのジャケだけで十分すぎるぐらいいい仕事してると思います。

で、このトライバルっぽいサウンドですけども、当時こういうのめちゃくちゃ流行ってたんですよね。エセ・アフリカ、エセ・トライバルみたいなやつ。時代の気分っていうか、そういうのがクールだったんですよ。トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』とかさ。あれはもっと音豪華だし、ポップスとして強度高いですけどね。




でもエセじゃなくて、アフロのリズムとかテンションをちゃんと咀嚼してるバンドもいて、フレッド・フリスがやってたマサカーとかそうですね。






カッコいいですねー。

“ファンクに影響受けたポスト・パンクじゃん、こんなんいっくらでもあるでしょ”と言う御仁もいらっしゃるでしょうが、フレッド・フリスのギターの発想めちゃくちゃアフロですよ。


まあまあ、そういう流行のサウンドだったエセ・アフリカ、エセ・トライバルに、ありありとヴードゥーな、呪術的な要素をドカーンと持ち込んだジョン・ライドンのポップ・センスたるや流石だな、と思いますね。

わかりやすすぎるぐらいわかりやすいものって、やっぱ面白いんですよね。

ヴォーカルにめちゃくちゃリヴァーブかけて、不協和音入れて、無闇にタムがドコドコいってて、洞窟の中みたいなミキシングしたら、そりゃあもう面白いですよ。アフリカの儀式なんか一回も参加したことない僕でも『すごーい。アフリカの儀式みたーい』とかバカみたいなこと言っちゃうもの。


はい、ここまでが世間一般で言われるところの、ジョン・ライドンの黄金期ですね。5年間を約15000字で駆け抜けてきましたが、どうですか? どうもこうもないですよね。職場の休憩時間にトイレでうんこしながら読んで『へー』って思ってくれたらそれで十分です。

さて、このあとの動向についても少し書かせていただきますが、このあとさらに2年間、バンドは沈黙します。ライヴこそしていたものの、シングルやアルバムのリリースは一切ありませんでした。

この時期、ジョン・ライドンはなんとイタリア映画に主演しています。もともとTVっ子で映画好きだったジョンは、この時期とくに映画に興味があったらしいです。かつて『さらば青春の光』の主演オファーが来たときは蹴ったのにね。

タイトルは、『コップキラー』

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ニューヨーク市警の麻薬捜査官が相次いで殺されるという事件が発生している最中、事件を追うフレッド刑事(ハーヴェイ・カイテル)のマンションにレオ(ジョン・ライドン)が現れる。彼は自分こそが事件の犯人だと主張するが……というサスペンスものです。ハーヴェイ・カイテルってタランティーノ作品の常連なんですけど、彼を起用するということは結構お金かけた作品だったんじゃないかなと思いますね。いやでもこの頃そんな売れてなかったのか。わからん。

サントラもPILが担当する予定でしたが、イタリア映画は権利関係がややこしいらしく結局頓挫してしまいました。

ジョンはこの映画を振り返り、『俺はあの映画で、演技というものの定型を打ち破ることができたと思っているし、その点では、ボウイやスティングなんかよりはるかに上等な俳優さ』と語っています。




ヤマシタトモコのBLみたいな雰囲気を感じるシーンです。

実際、ジョン・ライドンの存在感はかなりイケまくっていて、この時期にもっといろんな映画に出てほしかったなあと思います。あと、『ピストルズの頃に着てた服は全部捨てた』と言っているジョンですが、この映画で、ピストルズ時代の服着てるんですよね(笑)。

ジョンは嘘つきで、ツンデレで、サーヴィス精神旺盛なワルぶりたがる人です。ここは覚えておいてください(笑)。


さて、そんなこんなで1983年、ジョンとキースはアルバム『ディス・イズ・ホワット・ユー・ウォント…ディス・イズ・ホワット・ユー・ゲット(長え・笑)』の制作を始めます。

なんとヴァージン・レコードが『ヒット・シングルを書いてくれ』という依頼をぶちかましたのです。

『僕らのために一曲、素敵なラブソングを書いてくれよ。そうすればお互い金儲けできるだろ?』という社長に、ジョンはきっぱりこう言い放ったそうです。

『お前は俺たちがやってきたことをちゃんと見てきたのか? 誰に向かって何を言ってるのかわかってるのか?』

と言いつつも、ポップス狂だったジョンは、キャッチーなポップスを書けるという自信はあったそうです。ただ、それがレコード会社の命令であるというのには耐えられなかった。曲を書くときは、直感的かつ、自然発生的であるべきだというのが彼のポリシーでした。

『安っぽいラブソングなんか書いて小銭を稼いだって無駄遣いするだけだ』

と嘯き、ジョンはこの曲を発表します。




ジョンはこのとき27歳でしたが、このポップなシングルによって往年のファンにはもう『あいつは死んだ、もう終わった』とか『老害』とか言われるようになりました。27歳でそんなこと言われるミュージシャンなんてジョン・ライドンぐらいです。『あのジョン・ライドンがポップスを歌うなんて…』って愕然としたファンもいたらしいですけど、そもそもジョンはABBAのファンであることをピストルズ時代から公言してますからね。

ちなみに僕この曲大好きです。超いい曲。

そうしてシングルもリリースし、いよいよアルバムだ。となったときに、なんとキース・レヴィンが脱退してしまいます。ナルシストで強烈なエゴイズムの塊だったキースがジョンと衝突するのは無理からぬことでした。そればかりか脱退したキースは、『ディス・イズ・ホワット・ユー・ウォント…ディス・イズ・ホワット・ユー・ゲット』のデモに手を加えたものを自身のソロ・アルバムとして、『コマーシャル・ゾーン』というタイトルでPILより先に発表してしまいます。まさに外道。裁判とかよく起きなかったな。

でもこれ聴き比べると、オーヴァー・プロデュース感ある『ディス・イズ・ホワット・ユー・ウォント…ディス・イズ・ホワット・ユー・ゲット』より、『コマーシャル・ゾーン』の方が聴きやすいし、よく出来てるんですよね。

そしてついにジョンひとりになったPILは、来日公演を行います。




このライヴ映像好きだなー。カッコいいですねー。なんとこの来日公演では『アナーキー・イン・ザ・UK』のカヴァーも飛び出しました(ピストルズのカヴァー自体は前からやってましたが)。

いやしかし、ジョンよりむしろ、客席の金髪のツンツンヘアの若者に目がいってしまいますね。このひとブルーハーツの『僕の右手』のモデルになったと言われる右手のないパンクス、グールのマサミって説ありましたよね。違うみたいだけど。

この来日公演の模様はアルバムにもなってます。


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すごい良いジャケだと思う。1983年当時の新宿東口ですね。ある種、vaporwave的な感覚の先駆だと思います。ノスタルジーと近未来感の融合というか。この頃ぐらいからジョン・ライドンは急激に太り出し、衣装もなんかよくわかんない感じになっていきます。

まぁ、ここまでが一般的に語られるところのジョン・ライドン・ヒストリーですけども、この後も面白いですよー。坂本龍一やスティーヴ・ヴァイやジンジャー・ベイカーを招集して制作したアルバム『アルバム(すげえ良いタイトル・笑)』を作ったり。

このメンツを揃えながら普通のハードロックというところが逆に凄い。


アフリカ・バンバータとコラボしたり。



エレクトロ・ヒップホップ・パンクって感じで今こそ再評価されるべきサウンドじゃないかなと思います。

順に聴いていくと分かるんですけど、ちゃんとトレンド追っているっていうか敏感な人なんですよね。本当に音楽好きなんだろうな。他にもピストルズ再結成だの、PIL再結成だの、いろいろな面白いトピックがあります。


歌も下手、楽器も出来ないのに音楽史にその名を残した大巨人、ジョン・ライドンについてはまだ1/10000も語れていませんが、興味が湧いた方はぜひこの機会に調べてみてください。2冊出てる自伝も面白いですよー。



というワケでいかがでしたでしょうか、山塚りきまるの『なんかメロウなやつ聴きたい』第八十一回 これから「ジョン・ライドン」の話をしよう(後編)、そろそろお別れのお時間となりました。次回もよろしくお願いします。



騙された気分はどうだい!!!!!!!???????????




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