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ミステリートレイン


 冬は収穫がなかった。

 近所の八百屋で野菜を買うついでに、「季節の果物は何か」と聞くと、「今はほとんど取れないんだよ」と言って渡されたのは、12,3粒で10ユーロはするいちごだけだった。今の自分には少し贅沢に思えたが、他にそうする機会もなかったので、結局そのままそれを買うことにした。

 2月の15日に一度再開が決まっていたのが、結局3月まで延びてしまった。空白の2ヶ月を過ごし、ようやく3月に入って練習が始まった。

 カフェやバルはどこも閉まっていた。カフェは買ったのを公園まで持ってきて、日当たりの良いところで人だかりを避けて飲んだ。仕事がなくて出てきている人もいれば、それを良い機会と捉えて家族で集まっている人もいた。

 書くような出来事が何もない2ヶ月でも、案外退屈はしなかった。サッカーがないことで張り合いはなかったし、体力を余して夜の寝付きが悪いことはあったが、基本的に充実した毎日を過ごした。もともと趣味は多くあって、いつもではできないようなことをむしろ楽しんでいたのだ。

 週に一度、金曜の夜8時からチームでオンラインでのセッションがあった。それ以外にもメニューが与えられていて、体重や走った時の脈拍などを逐一、トレーナーへ報告することになっていた。数行だけ続くメッセージのやり取り、それが今自分が現役でサッカー選手をやっていることの自覚だった。

 時にはみんなでアプリゲームをやるだけのこともあった。スペイン版のアプリを入れるためにケータイのIDを変更したりしているうちに、音楽アプリに蓄積されていた一個人の記憶が消し飛んだりもした。それも、人類の長い歴史や宇宙の法則から見れば取るに足らない出来事だった。

 3月の始めは曇り、練習に向かう頃には雨も少し降り始めていた。春の気候になって、種類の分からない花粉に悩まされたかと思うと、すぐにまた天気の悪い日が続いた。4月にも何日かこんな日がある。バレンシアの人に聞けば、バレンシアは年中晴れていて暖かいと言う。彼らは、毎年少なからず訪れるこんな日を覚えてはいない。

 メトロでいつもの道のりを行って駅でビクトルがアパートから降りてくるのを待つと、久しぶりに見る顔に思わず笑みがこぼれた。髪の伸びたオレの姿を見ると、ビクトルの方からも、「日本人みたいだな」という第一声がかかる。彼はというと、今週から学校の試験が始まってすでに疲れている様子だった。

 Campo(スタジアム)に着くと、誰かに出くわす度にそこで足を止めて会話をした。ロッカールームに入っても、みんな話は尽きなかった。

 リーグ開始は15日から。つまり、次の週の週末からということだった。3月いっぱいは週一開催で通常通り行い、4月からは週に2試合ずつ消化していく。そこからの昇格については、また少しレギュレーションがややこしいことになりそうだ。なにせ、Preferente(5部)とTercera(4部)以上ではそもそも管轄が違っていて、連盟の話し合いはとにかく時間がかかった。各自治体で対処が違うのも厄介だった。細かい制限がかけられながらも、仕事をしている人たちは間を縫って、兎にも角にもシーズンが帰ってきた。オレたちの人生へと帰ってきた。

 久しぶりのサッカーは、何をしても楽しいものだ。ボールに触れる感覚、疲労感、求められる判断スピード、その他全ての負荷は、手綱を放たれた馬のように一気にこの肉体を開放へと向かわせた。もっとボールを触りたい、もっと前へ走り出したい、その一心だけで動き出せる。

 それも、やがてマンネリと苦痛に変わる。その感覚は繰り返されるほどに早く訪れ、一層強くなっている。思えば、今までサッカーをやっていて自由を感じたのはほんの僅かの時間だけだった。ここで言うサッカーというのは、オフの日に友達とやる遊びや子供の放課後にやるあれではなく、上を目指すんだという固い決意のもとに行われる日々の鍛錬のことだ。オレたちにとってサッカーは、人生を懸けた本気の遊びなのだ。

 一瞬にして、自分の至らなさや課題にぶち当たる。ああ、今オレはここにいたのか、といった感じ。気がつけば、ほんの数ヶ月前にもがき苦しんでいた自分に戻っている。それは、飽きたらやめられる趣味とはまるで違うものだ。

 帰りはすっかり疲れて口数が少なくなる。車の中では、新しく来た選手やいなくなった選手の話が出る。それも、次の日になれば忘れてしまう。

 また、始まる。何もない日々はただ幸福感が続いた。美味しい物を食べることだけを考え、その日やりたいことをやって、友達との時間も増えた。だが、そうやって生きたいわけではなかった。もっとお金が欲しければ、安定した仕事を手につけることもできた。しかし、Campoに戻ってきたチームメイトの誰一人、そういう生活をしてはいなかった。今日は良かったのか、オレのやっていることは正しいのか、それを絶えず自分に問う毎日がまた始まる。

 これが最後だ、といつものことのように思う。

 少なくとも、あともう少し。

 何かがつかめるところに今来ている、そんな気がしている。

 オレたちは片道切符の旅に乗り出している。

 後にも先にも来ることのない列車が、また自分の立っている駅の前で止まって、それに迷うことなく乗り込む。そして、外の景色を少し名残惜しそうに眺めていると、すでに列車は走り出している。



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