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「母の涙と闘う保健師 〜私が陽性になった〜」


8月5日の夜、発熱38.5度。
翌朝6日も熱が下がらず、38℃後半。
家にあったPCR検査キッドで調べると陽性。
そのままかかりつけ医院の発熱外来で再度、PCR検査。陽性判明8月7日。
(本当は週末をはさむため、結果は12日になるかもしれないと言われていたが、かかりつけの病院が頑張ってくれ、早急に判明した。感謝である)
病院から管轄の保健所への連絡8月8日。
(検査を受けた病院が、住民票のない区や市の場合は自宅住所のある保健所へ連絡してもらわないといけない)
ちなみに、ワクチンはかかりつけの病院にて7月19日に1回目接種。
発熱外来も、そのかかりつけの病院に連絡して受診。


発症から、自宅療養がはじまった。

発症からわずか2日目の8月7日。
解熱剤も効かず、39℃台をさまよっていたが、ついに40℃を突破。
寝たきりのうえに、意識が朦朧とする。
味覚障害(その後、嗅覚障害)の症状が出る。
いつも口にするクラッカーの塩気が強く感じられ、岩塩を齧っている感覚になる。
咳症状もあるため、のど飴を舐めるが、どうも粘土のような味がする。
食べられないと、脱水症状が進んでしまう。
クラクラになりながら解熱剤を飲み、熱が少し下がった数分にお粥やりんご、OS1とゼリー飲料を流し込むが、すべて熱でもっていかれているようだった。
もともと不眠体質だが、苦しくて眠りが浅い。
だが、意識がはっきりしているわけでもない。
うつらうつらとしている。
何度も酸素量をはかる。
91まで落ちていることもあれば、98まで持ち直すこともある。

強烈な怠さ。
苦しくて救急車を呼んだ。
このご時世に救急隊員が来てくれるという安心感からか、解熱剤を飲んでやっと39℃になる熱が、この時だけは38.2℃にまで下がった。
オキシメーターも波はあるものの91〜97であった。

よく深夜に熱が出て、夜間救急外来の病院に着いた途端、もう辿り着いたら受診したも同然というプラシーボ効果が無駄に発揮して熱が引いてしまうあるある現象ではないか。

そのため、到着した際の救急隊員さんは「よくがんばりましたね」と言ってくれたのに、帰りは何事もなかったかのように華麗にスルーし、救急車は遠くへ帰っていった。


8月10日、発症から5日目。
二度目の救急車。
熱は40.2℃。オキシメーターも80後半〜95、おまけに血圧も上が160、下は130。

今回は違う。
相変わらず解熱剤はほとんど効かない。
42℃まで熱が上がる。
大人になり経験したことがない熱の高さに救急隊の方との話も、「はい」「いいえ」と受け答えすることがやっとであった。

今度そこ、「危なかったですね。呼んでよかったですよ」と言われるに違いない。期待は膨らむ。

……はずだったが、あえなく、「自宅で頑張って」「寝てても息できますよね」と撃沈。

理由は、入院はもちろん、宿泊療養するホテルも空いてないとのことだった。

ここまでくると、まるで、しんどいしんどい詐欺のような気がしてくる。

がっくりきたものの、まあ、落ち込んでも仕方ない。

救急隊員の方々も、激務である。次々と電話が入るが、搬送先がなく途方に暮れていた。

どうにか頑張ろうと思いなおした。

ちなみに、救急車を呼ぶかどうかの判断に困った時は、すかさず 【♯7119】の救急安心センター事業に電話した。
救急車を呼ぼうにも繋がらない状態も多くなっていたからである。

救急安心センター事業は、救急車を呼ぶかどうか判断がつかない時に、医者や看護師、専門の相談員が対応してくれるありがたいセンターだ。
そこに連絡すると、受診できる病院、または救急車を呼ぶか指示を出してくれる。
このセンター、保健所との連携で、罹患者が多い状態の時期、受け入れ先を探してくれたりもする。
ここに連絡したおかげか、すぐさま救急隊員の方がきてくれ、きちんと酸素量や状況をみて、あちこち連絡し、できる限りの手を尽くしてもらったことは有り難かった。


罹患してから声を聞いていなかった母に電話した。
なんと、いきなり泣き出したではないか。
「愛の不時着」を観ては泣きながら電話をしてきて以来である。
「なにもしてあげることができない。飛んで行きたいけど、行けない」と泣くのだ。

父がステージ4の中咽頭ガンになり、首にぽこっとデキモノ(ガン)が形としてみえた時でさえ、家族で「虫刺され」と笑い、庭のアロエを面倒くさそうに塗っただけのあの母がだ。(母の名誉のために追記するが、その後、父の闘病をずっと支える母はたくましい)

そんな母がさらに「最後にお父さんに声を聞かせてあげて」などという。
どうやら、罹患を報告してからの数日の間に実家のほうでは、私はもう死ぬことになっているようなのだ。

最後ではないであろうが、父に「色々心配かけてごめんね。ありがとう。お父さん、みんなで元気でね」と一応、ノリは大事にしたいので、遺言めいた言葉を放っておいた。

母が私の欲しいものを何でも送るという。「西瓜とかいる?」というので、「それは東京にもあるからいいよ」とやんわり断った。
「そうよねぇ、東京にも西瓜あるよねぇ」と泣いている母に「何でもいいなら、現金」とは、さすがに言わなかった。香典袋で現金を送られてきてもたまらない。


妹は「姉ちゃん、しんどいやろ。無理せんとってね」と適度にラインを送ってくる。(この妹は、家族で唯一お酒を飲まないヘビースモーカー。彼女のヤニ友論は実に唸るものがあるのだが、また今度)

兄は、「救急車を呼んで、廊下で倒れて白目を剥け。意識ないふりをしろ」「40℃が何日も続いたら死んでしまうぞ」「救急車に乗って数時間たらい回しにされても入院先見つけてもらったほうがいいぞ」「困ったら連絡してこい」
兄に頼るほど困ってないので、こちらからは連絡しないのだが、あまりのラインの多さに「ラインがうざくて困る」と返しそうになるほどだ。
そんなに私のことが大好きなのか、というほどしつこい。
そもそも、いい大人が救急隊員を演技で騙せると思っているところが情けない。
今は救急車へ乗せてもらうことが難しいのだと、いつかしつこく教えてやりたい。

そんなこんなで、怒涛の数日を過ごしていたら、夕方、保健所の方から入院先が見つかりましたと連絡があった。

8日に保健所扱いとなり、9日の朝に「おつらいですね。今日は無理だと思いますが明日には受け入れ先を探しますね」と言ってくれていた保健所の女性である。

10日の朝にも連絡があり、「今から探しますね」と言ってくれていた。

本当に9日、10日の二日間で受け入れ先を見つけてくれたのだ。ありがとう、闘う保健師さん。

で、8月11日午後、無事に入院して治療はじめた。

発症してからたった1週間、されど1週間。

もつべきものは、とんちんかんな家族と、闘う保健師さん、税理士さんである。


今は入院時に転倒防止のため、スリッパではなく、上履きをもってきてくださいね、と言われることが多いようである。

       

で、入院したらしたで、いまだ兄のラインはこうである。

お前が練習せい。で、ある。              

ちなみに、この自宅療養を支えてくれたのは、一緒に暮らしている大学生の娘であった。救急安心センター、救急車、救急隊員、保健所など、すべて調べ、電話をかけて対応した。

私ひとりでは、のたれ死んでいてもおかしくはなかったと思う。


                                                                            (了)

                                                                       月瀬りこ

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