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介護〜相続の間で、家族の立ち位置はかなりゆらぐ③終

今日は久々に寒かったですね。おまけに冷たい雨まで落ちてきて、外に出るのも億劫になりました。とはいえ、外に出ないと食べたいものが手に入りませんので、エイヤーで気合いを入れて、買い出しに行きました。

さて、……。

標題に関わり、以下の二つの記事を書いた。

今回はそのまとめ。

今では一人っ子もお一人様も珍しくない。そして、個人の意思が最大限尊重される建前において、家族の意思の確認をどのように捉えるべきなのだろう。

本人が意思表示をハッキリできなくなる。それは残念ながら起こり得る。その時に「それでは本人の代わりに家族の意見を伺います」というのが介護・医療現場のスタンス。でも、それが正しいという根拠は恐らくない。

少なくとも、民法上は保佐人・後見人の制度はあるものの、それは家族である事実だけでなれるものではない。また手続を経てなった家族に生命・身体に関わることまで本人の代わりに意思表示を求めるのは、やり過ぎだろう。

なぜ家族に意思確認をするのかを考えると、リスクを軽減したいからではないかとの仮説にたどり着く。施設や病院が独断で何かを決めることはリスクが高すぎる。でも、本人が無理だとすればそれに近い人にお願いしたいし、事実上費用を支払う家族の意向を無視できない。

そして、残念な結果となった時に「私たちは家族の意向に添って行動しました」と弁明できる余地を残すためにも、家族の意向を取り入れるのは重要となる。

成年後見制度については、家族の使い込み事案等の発生があることも踏まえ、本来の「成人は自ら意思決定することを周囲から期待されている」という大原則の貫徹を指向したものだとは思う。でも、選任された専門職の使い込み事案は発生している。

しかも、裁判所に選任された成年後見人にも医療行為への同意権はない。だから仮に成年後見人が選任されていても、医療機関からの意思確認においては法的立場があいまいな家族にお鉢が回ってしまう。

意思表示ができない本人は、何をどうやってもできないことをできるようにはならない。こうなると、一般通常人の思考を基に意思を類推するしかないが、それが必ず適合するとの確証は得られない。

そうであれば、意思表示を求めることを諦めるべきである。その代わりに、予め想定される事態についての対応マニュアルを国が定める他はないのではないか。「こうなったらこのような対応をする」と定めるのである。

こうすることで、表示されない意思に関係者が振り回される危険は回避できる。

介護施設から「血中酸素濃度が下がってきたので、病院に連れて行ってよいか」と尋ねられた「家族である私」は、回答に困った。判断根拠を持ち合わせていないからである。

病院で「心肺停止になった時に蘇生処置を望みますか」と尋ねられた時も、どこまでお願いするのかは「家族ある私」でも決めかねた。

生前、本人は「身体のあちこちに管をつないでまで生きたくはないからね」と言っていた。でも、家族として軽々に「何もしないで下さい」とは言いかねる。家族には家族の思いがあり、それが混ざると本人意思の代行者ではなくなってしまう。

だからこそ、家族の意思確認を求めるのではなく、国として標準的な対応を定めてそれに従うとした方が良いと思うのだけど、いかがだろうか。少なくとも経験者としてはそれが妥当だと考える。

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