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批判は蔑みを含まなくてもできる

ゴールデンウィークの初日、天気は今一つでした。気温もあまり上がらず過ごしやすかったのですが、それでも外では蚊が飛んでいるのを発見。もうそんな季節かとちょっと鬱になりました。

さて、……。

明日、長崎3区、島根1区と東京15区の3つの選挙区で衆議院議員補欠選挙が行われる。その中で、与野党が激突するのは島根1区のみ。長崎3区、東京15区で自民党は候補者を立てなかった。

自分は東京にいて流れる情報が偏っているせいもあるのだろうけれど、今回の選挙で注目されているのは与野党激突の島根1区ではなく、東京15区のようだ。ネットで検索をかけて頂くと、ニュースの多くが東京15区についての記事である。

候補者の話題性を考えればそれもやむを得ないと感じる反面、選挙は国政に対する国民の厳粛な信託を行うための一大イベントであり、ただ話題性だけで切り取るのはよくないとも思う。

Xでも、いろいろな方が支持政党や候補者の応援ポストを投稿している。そして残念ながら、それだけではなく候補者に対しネガティブな投稿も少なくない。

ネガティブな投稿も、民主主義のためには最大限受容すべきもの。少なくとも客観的な事実を基にしているのであれば、排除してはならないと考える。

ただ、実際のネガティブな投稿を読むと、かなりの確率で候補者への人格攻撃、蔑みが見て取れる。それはやめるべきだろう。

そもそも、批判と蔑みは違う。そして批判するのに汚い言葉や表現を使う必要がないからだ。それらの表現を目にすることによって不快な気持ちになることで、選挙に行かなくなるようなことがあってはなるまい。

「○年前、××な主張をしていた(或いは、△△な行為をしていた)。それは社会一般的な価値観に照らしておかしいと思う。だから、この候補は応援できない」と書けばそれで足りると思うのだけど、いかがだろうか。

肝はやはり「社会一般的な価値観に照らして」評価することだと思う。これ自体個人ごとに違うという言い方もできるのだけど、それでもおおよそのところで一致するものってあるはず。

これを否定してしまうと、そもそも応援ポストが成り立たない。個人の感想の垂れ流しであれば、共感を得て意中の候補者への投票行動をお願いできなくなってしまうのだから。

タイトルの通り「批判は蔑みを含まなくてもできる」のである。トゲのある表現、人格を否定する言葉、上から目線の書きぶりは必要ない。

お読み頂き、ありがとうございました。

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