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終戦記念日に向けての3週間(3終)

今日は、午後から社外に出て直帰しました。正午過ぎに社外に出たのは久しぶりですが、出たことを後悔したくなるくらい暑かったです。地下街に入った時「命を守る行動をした」と自分で自分を褒めたくなりました。

さて、……

このシリーズも3回目となる。前2回は以下。

今日は言うまでもなく終戦記念日。昨年も終戦記念日に関わる記事を書いている。

今日の午前中、予定されていた会議が長引いた。そのため黙祷すべき時間にも会議が続行していたけれど、終わってから個人的に戦没者の方々の御霊にお祈りした。

ここで、終戦をもう少し明確にしておきたい。ポツダム宣言の受諾を連合国に伝達したのは8月14日のこと。そして8月15日は昭和天皇が日本国民に向けて日本が降伏する旨の『終戦に関する詔書』を発表、いわゆる玉音放送を行った。

なお、8月15日を以てあらゆる戦闘が終わったかのように思われている節があるが、これは明確に間違っている。北方領土を含む千島列島や南樺太では、戦闘状態が継続していた。

ソ連は8月8日、まだ有効であったはずの日ソ中立条約に反して日本に宣戦布告。9日からソ連軍が日本の勢力圏および領土へ侵攻を開始した。

千島列島に対し日本が降伏した後も侵攻を続け、8月18日に千島列島の北端にある占守島を占領、更に8月28日~9月5日にかけて北方四島を占領した。つまり、北方四島は日本が降伏した後に攻めてきたソ連軍により占領されたのである。

この遠因には、1945年2月に米英ソ三国により締結されたヤルタ協定があった。これは密約で、日本の早期降伏(=米英の戦争被害軽減)のために、今後ドイツが降伏したらその3か月後にソ連が対日参戦することが約束された。

その条件が「日本の降伏後には南樺太をソ連に返還し、クリル(千島列島)をソ連に引き渡す」だったのである。

もちろん、当時の日本はそんなことは不知だった。従ってやむを得ないことではあるものの、もしポツダム宣言後速やかに日本が降伏していたなら、北方領土問題も発生していなかった可能性が高い。

その後、今に至るまで北方領土問題が解決していないことを考えると、ポツダム宣言から終戦記念日までの3週間の重さを改めて考えてしまう。

戦争をどう終わらせるかを真剣に考えなかったことがここにも影響を与えている。何かを始める時には、終わりまでしっかりとしたプランを立てるべきことを、我々は再認識しなければならない。

お読み頂き、ありがとうございました。

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