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作品の感情を読み取ること、感情を簡略化すること

映画の倍速視聴、ファスト映画が一時期話題になった。視聴方法としてそれらを選ぶ心理として、視聴済みというステータスを得ることで快適さを得たい、つまり内容自体にさして興味はないという話を聞いたことがある。したがって、そこでは内容に感情が揺さぶられる必要もなく、明るいだけの話がいい、という。
言うまでもないが、芸術やエンターテインメントは、受け取る人間に「受け取った」という記号を与えるために作られているわけではない。
それを観たという薄っぺらな事実だけを手に入れるのと引き換えに得ることができなくなる、情緒の機微や感情表現のふくよかさ。悲しさや怒りの感情が喜ばしいものに変換されるのは、作品と呼ばれるもの全般を鑑賞することによる特権ではないだろうか。鮮明な感情や他人の気配を感じずにして、それを観た、ということはできないだろう。

主人公が悲しんでいたら良い作品ではないのか

―何故ネガティブな作品を避けるのか―

ある作品が良いかを問うときに、その作品の内容がポジティブである必要はもちろんない。怖い映画や悲しい映画は、それだけではもちろんわるい映画ではない。

一般的に、ネガティブな情動からは回避の行動をとるのが我々人間の本能とされる。だが、悲しい、怖いフィクションに触れた時、必ずしも回避の行動をとるとは限らない。むしろ、面白がって見入ることは少なくないだろう。遊園地の中でもお化け屋敷は大盛況だったりするし、ホラー映画からもしばしば人気作がうまれる。失恋ソングだって支持を得る。
作品内容としてのネガティブさは、その作品の価値にネガティブをもたらさない。”フィクションがネガティブを表現する”、その表現力が評価につながるためであったり、ネガティブな表現が感動を呼び起こす(呼び起こされた感動はポジティブな感情)ためなど、理屈っぽく言えば理由はいくつもあげることができる(この手の話は 源河 亨さんの「悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学」に詳しい) 。

ネガティブな作品は、特にその人物や状況が悲しい・怖い背景を知ることが必要になる。悲しんでいる人物が登場したとして、我々はその人物に感情移入することで疑似的に悲しくなることができ、その理由を推察することで切なく、また怒りやより深い悲しみなどの感情を抱くことができる。しかし、そのような思案の間がない場合、ただ悲しんでいる人間がいるといった状況しか汲み取ることができない。状況がネガティブを指し示し、それが感動などのポジティブに変換されぬうちに物語が進行してしまうこともあるのではないだろうか。ネガティブを表現する作品は、倍速ユーザーが求める快適さを得るのには向いていないというのは、当然のことであるだろう。

圧縮した感情、途切れた興味

―何故時短が流行るのか―

ファスト映画や倍速での視聴は、SNSに順応した今だからこそ広まったものであるように思う。
15秒を中心に1分以内のTikTok、140字のTwitter、24時間で消える15秒のInstagramのストーリーと、制限付きの投稿が中心のSNS。我々が普段抱く複雑な感情を、簡潔なテキストと加工した写真、短くわかりやすくまとめた動画によって圧縮し、広く共有する。感情や言葉を圧縮し慣れた者たちにとって、同じように作品を圧縮したものを受け取ることは違和感が少ないのかもしれない。

加えて、文脈がなくなったことも関係していると思われる。検索して調べものをするにせよ、なんとなく目についた楽曲を聴くにせよ、TikTokの動画を見るにせよ、不規則に並んだものに触れる機会が多い。視聴者の興味の方向、作品の流れや文章の意図などはその都度途切れている。文脈なしに受け取ることが普通になってしまった今、とにかく数を見る、聴くことが第一によしとされる状況ができあがってしまうのは不思議なことではない。数が頼りなのだ。

記号化した視聴と感情

倍速にしていなくとも、感情や言葉を簡略化しがちになったSNS時代。もちろん、上で取り上げたような目的を見失った作品視聴などは無意味だし、動画サイトへの無断使用など権利侵害はもってのほかだ。だが、方向を見失った教養主義や圧縮した言葉やコンテンツが溢れていることによる弊害はきっとそれだけではない。今回はそれが問題になっただけで、同じような状況は各地に散見されるのではないだろうか。簡略化しない意思疎通、継続した享受。人の振り見て我が振り直せじゃないが、一度身の回りを見直すのも大事なのかもしれない。

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