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「自然」というワードがひっかかってしかたがない

これまでのあたりまえが次々に奪われていく毎日。これまでの延長線の仕事をしていてはだめだと漠然とおもった。

田舎では、都会ほど大きな経済的影響はないにしても、阿久根のひとりひとりの仕事は都会のだれかの生活を支えている。となると、目の前の画面の刻一刻と変わる状況はひと事ではない。

なんのために仕事をしているのか。改めて向き合わざるおえない。次から次に利益のために生み出す料理に限界を感じていたのかもしれない。ひとつひとつ丁寧に、自然の恵みに真摯に向き合いたい。そう感じて、流れゆくままに阿久根にやってきた。


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​あまり人には教えたくない店がある。「田」というお店だ。地域のお母さんが切り盛りしているお食事処だ。そこの料理がなんとも滋味深くいいのだ。山桜が咲き始め、山が色とりどりにほころぶ先日、久しぶりに訪れた。

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桜の写真はたんまり撮って歓喜して帰ってきたが、肝心の料理の写真は撮り忘れた。取り忘れるほどに感動した。

はじめにそばがきを頂く。そばがきを箸でつまみ、そこへめんつゆと少量のわさびをつけて頂く。そばのほのかな甘い風味がたまらない。

そこへお膳がやってくる。今日のメインはなすの一本揚げだ。そこに豚味噌がたらりと垂らしてある。添え物にはごぼうと大根の煮物。そして防風草の天ぷらとつくしの佃煮。脇にはごはんと、少量のかけそば。膳の隙間には豆皿が3皿並び、くみあげ豆腐に、だしをとったあとの鰹節に梅じそを混ぜ炊いたもの、そして大根と高菜のおしんこ。春野菜の力強いエネルギーをひしひしと感じる。

そしてさいごはお抹茶に、懐紙にザボンの砂糖漬けが添えられてくる。

全てが自然なのだ。お母さんの近づきすぎず、でもあったかい接客も。手直ししながらも大きなリノベーションをせずに使っている古民家も。出てくる素材の数々も。だから安心してその場に在れて、大地のエネルギーを存分に吸収して、生きる力を頂いている、そんな気分になる。つながっている。


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自分が見たもの、聞いたもの、感じたものがわたしの中を通って、「料理」という表現として目の前に現れる。そしてそれは無理なく、我慢なく、ただ在れる状態で。それがひいてはだれかを助けることになったり、社会的問題を解決する少し手助けになっていたら。それがわたしの理想のはたらくの形かもしれない。

まだまだ自己探求はつづきそうだ。今日も目の前のことから丁寧に。

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