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大切なひとの大切なもの。

ひとは、たとえある特定の人間が自分にとって大切な存在だとしても、そのひとが大切にしているものまでも受け入れられるとは限らない。

そう、世界は思った以上に複雑なのだ。



ただ、やっぱり大切なひとの大切なもの(必ずしも”モノ”でなくてもよい)を受け入れられないと、本当の意味で相手との関係を築くことはできないと思う。


「なんでゲームばかりして私と遊びに行ってくれないの」

「友達と遊んでばかり。なんでもっと構ってくれないの」


自らの体験でなくても、このフレーズを聞いただけで、こういうこともあるよねと思えるひとは多いのではないだろうか。



往往にして、自分の中で同じ物差しで図っているからといって、相手も同じ物差し上で図っているとは限らない。(というか、事実上ほぼないだろう)

相手にとって"どちらが大切"なんて概念はなくて、自分がそれを押し付けているのだ。

(もちろん、私はお互いの信頼関係がある、という前提の上で話しているので、この女よりもこっちの女のほうがいいだとか、同じ物差しで図られている場合も世の中にあることは百も承知だ。)



私には、相手の大切なものをどれほど大切か決める権利はない。

そしてそれを、放棄してくれと言う権利もない。


頭ではわかっているが、実際これはかなり難しいことだと思う。


余裕がなくなると、信頼に不安の絵の具が混じると、いとも簡単に心なんて真っ黒になるのだ。



そんな真っ黒になったパレットを再び鮮やかにするためには、大切なひとが大切なものに触れている瞬間をみることだとおもう。

どんな表情でそれをみて(取り組んで)いるのか、自分の目で冷静にみたときに、それを私も大切にしたいと思えるか





私は今日、まさに大切なひとが大切なものに触れる瞬間をみた。

もちろん今回が初めてじゃない。ただ、大切なひとの表情と、その大切なものをみたときに、とても純粋な気持ちで「このひとが大事にしているものもひっくるめて、大切にしたい」と思った。


実際本当にそのひとが大切にしているように大切にはできないかもしれない。

でもそれはきっと求められてなくて、相手の大切なものであることを理解して、"自分なりに"大切にすればいいのだと思う。


私と大切なひとと、そして大切なひとの大切なもの。


この三者間の関係性において世の中で全く同じなんて存在しないのだから、自分たちなりのかたちを模索していきたいと思う。



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