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小説:花色の忘却/全文【15085文字】

春 

 薄くぼんやりと曇った土曜日。あっという間に散った桜が終わった途端、気温の高い日が続いている。

 私はいつものバス停で、いつも通り少しだけ早く家を出て、背中越しにピアノの音を聞いている。それは、Jの奏でる旋律。私の少し汗ばんだ背中から、痩せた背筋を抜けて、背骨の中心を通って、肋骨に響き、胸の真ん中に届く。私の情緒を落ち着かせる、静かな安寧。

 Jのピアノを初めて聴いたのは去年の春だった。バス停にいるとき、懐かしいような沈丁花の香りとともに、微かにピアノの音が聞こえて思わず振り向いた。それが、母の好きなシューベルトの「セレナーデ」だったからだ。バス停のすぐ後ろにある音楽スクールのガラス張りのレッスン室から、こちらに背を向けてピアノを弾いている男性が見えた。若い男性だった。物悲しくも美しいシューベルトに思わず聞き入った。私は、初めて、音楽が生まれる瞬間に立ち会ったと思った。男性の指が鍵盤を撫で、愛で、ときに叩きつけ、新しい音が発せられるたびに、そこに新しい音楽が生まれていた。バス停から少しだけ移動して、男性を斜め後ろから観察した。逞しい肩幅、適度に筋肉のついた腕、細く美しい指、紡ぎ出されるピアノの音。私はその男性から目が離せなかった。そして今まで聞いたどの「セレナーデ」よりも清らかなその音からも、立ち去り難かった。

 男性がピアノを弾き終えて立ち上がった。すっと振り向いて窓の外を眺めるその人は、若い、凛々しい、溌剌とした雰囲気の青年だった。白いTシャツの胸にJとプリントしてあった。そのとき、私は彼のことを自分の中でJと名付けた。Jは楽譜を整えて、鍵盤に臙脂色のフェルト布をかけ、蓋を閉めた。私は、そのいちいちを眺め、羨望にも焦燥にも似た、不思議な感覚を持った。眩しくて初々しくて懐かしいもの。若さ、未来、将来。そんな言葉の象徴。自分が失ってとうに忘れていたものを、Jは体全体に纏っていた。

 エンジン音がして、ふと我に返って振り向くと、乗る予定だったバスが走り去るところだった。

 それから私は、バスを利用するとき、少し早めに家を出て、運良くJがピアノを弾いているところに遭遇できれば、少し聞いてから出発するようにしている。中年の女にこっそり聞かれていると知ったら、不気味に思うかもしれない。でも、Jの弾くピアノは、私のほんの一時の癒しなのだ。そして癒されていると感じるとき、自分が何か不安を持っているという事実に、気付かされるのだ。目的地までバスに乗っている最中、Jのピアノの音は私の耳の中で揺れている。鼓膜の内側まで満たされている。それだけでも、私にとっては妙なる時間なのだ。

 バスは目的地に着くと、私を降ろし、排気ガスの匂いをさせながらぶうんと去っていく。Jのピアノの音も、バスとともに去っていく。しばしその後ろ姿を見送ってから、長い上り坂を歩き出す。自然に囲まれた静かな一角にその建物はある。心なしか、街中より少し涼しい。薄いピンクの外壁。色とりどりの花が植えられた花壇。

 この病院に、私の母は二年前から入院している。

 病院の入り口で名前を書いて、面会者バッジをもらって、病棟へ行く。淡いベージュ色を基調とした清潔な廊下。病棟は、消毒や薬みたいな病院本来の匂いと、生活臭の混じった、独特の匂いがする。

「あ、城田しろたさんの娘さん。今ちょうどおトイレが終わったところなんです。ちょっと廊下でお待ちくださいね」

 すっかり顔見知りになった看護師がにこやかに声をかけてくれた。

「あ、はい。いつもありがとうございます」
「いえいえ~」

 看護師は、声にまで微笑を含ませ廊下を去っていく。
 隣の部屋から「ぎゃー」と大きな声がして、びくっとする。もう二年、母のお見舞いに通っているけれど、この突然の大声だけは、まだ慣れない。
 母の部屋のドアが開き、別の看護師が出てくる。

「あ、娘さん、こんにちは。おトイレ終わりましたよ」
「ありがとうございます」
「城田さーん、娘さん、いらっしゃいましたよー」

 看護師が振り返り、部屋の中の母に声をかけていく。空調のコントロールされた母の部屋は微かに便臭が残っていて、窓が数センチだけ開けてある。でも、それ以上は、開かない。

「いらっしゃい。外は暑いのでしょう? どこのお嬢さんか知らないけれど、ゆっくりしていってちょうだいね」

 そう言って母は、ベッドから手を伸ばして、私に椅子を勧めた。

 母から妙なメールが来たのは三年前の夏だった。

【引き出しに入れていたお通帳がないの。泥棒が入ったのかしら】

 しっかり者で通ってきた母にしては、文面から不安そうな気配を感じたので【仕事の帰りに寄るね】と返信した。

 早々に仕事を終わらせ母のアパートへ行くと、珍しく少し散らかっていた。失くしてしまった通帳を探しまわったのか、几帳面な母らしくなかった。職場から一時間ほどで行けるため、たびたび母の部屋へ行くことはあったが、いつ訪れても片付いていた。掃除が行き届き、観葉植物やベランダの花は活気があり、無駄なものは一切なかった。それが、その日は室内が雑然としているだけでなく、シンクに洗い物が置いたままになっていて驚いた。私が子供の頃から、母がシンクに食器を置いたままにすることなど、一度も見たことがなかったから。

「お母さん、食器洗ってないの珍しいね」
「お通帳がないからそれどころじゃなくて。泥棒が入ったのかって心配なのよ」
「でも、今日ずっと家にいたんでしょ? お通帳、最後に使ったの、いつなの?」

 私は引き出しを探しながら言った。

「うーん、いつだったかしら」

 この返事に、もっと違和感を持つべきだったのだ。母が、通帳を最後にいつ使ったか思い出せないなんてこと、あるはずがないのだから。

「あ、あったよ」

 通帳は、母が言っていたのではない引き出しから出てきた。

「あら、本当だ。おかしいわね、こんなところには入れていないのに」
「まあ、あって良かったじゃん」
「そうね。泥棒じゃなかったのね。おまわりさん呼ばないで良かったわ」

 そう言って母は苦笑した。

「そうだね。普段、探し物なんて、私のほうが下手なのに」

 そう言って私も笑った。


【大切なネックレスがなくなった。泥棒が入ったのかもしれない】

 そうメールが来たのは、それから三日後だった。私は、見てはいけないものを見た気持ちになった。何かの間違いか、もしくは冗談か。でも、こんな類の冗談を、母が言うはずがないことを、私自身がよく知っていた。胸騒ぎというのは、こんな気分を言うのだろうか。指先の冷えるような、まっすぐ立っているのに視界が揺れているような、妙な気分だった。子供の頃、身に覚えがないのに職員室に呼び出されたときのような緊張感。

「悪いことはしていません、だから許してください」

 どこかへ引きずり出されて、尋問を受けるのかもしれない。何か聞かれる前から釈明したくなるような、そんな緊張感。


【泥棒が入った】と連日メールが来るようになって、さすがに心配になったため母を病院に連れて行ったものの、日に焼けた若い女医に「アルツハイマー型認知症の可能性が高い」と言われたとき、私はショックを受けるよりも「母がボケたりするものか」という戸惑いのほうが大きかった。いつも気丈で、賢くて、強い母。誰の世話にもならず、一人で私を育てた母。そんな母が、六十代でボケたりするものか。

 もっと詳しく調べてください。母に限って、認知症なんてありえません。
 そう言いたい私の横で、母は、医者の話を熱心に聞いていた。

 医者は、いくつか質問したあと、テーブルの上に、ボールペン、くし、ライター、ハンドクリーム、金属のスプーンを置いた。

「これを、よく覚えてください」

 そう言って、医者は一つずつ名前を言った。

「これは、ボールペン。これは、くし」

 母は一生懸命覚えているように見えた。馬鹿にするな。私はそう言いたかった。五つの品物の名前を言い終えると、医者は、布でそれらを覆った。

「城田さん、今ここにあったものを、教えてください」

 優しい口調だった。

「えっと……ボールペンと……くし。ボールペンと……くしと、えっと……ボールペンと……」

 嘘でしょ。お母さん、嘘でしょ。冗談でしょう。一番絶望したのは、この瞬間だったかもしれない。必死に、布で覆われている品物を思い出そうとする母の背中は、悲痛なものだった。

 六十八歳だった。まだ若い。そう思っていた。でも、診断されたアルツハイマー型認知症に「若年性」とはつかなかった。「若年性」と言われるアルツハイマーは、六十五歳以下だそうだ。自分の母が、認知症になってもおかしくない年齢になっていることに、私は自覚がなかった。四十三歳になった私は、まだ母の娘であった。これからも、一緒に、今までと何も変わらずに過ごして行けると思っていた。いつまでも二人で一つだと思っていた。でも、母は、いつの間にか認知症の高齢者だった。

 まだ三年前のことなのに、何十年も前のことのように感じる。この三年で、母は大きく変わった。そして私も。この変化は、悪いものではない。たぶん。そう思いながら母を見ると、オーバーテーブルに置かれた吸い飲みを不思議そうに裏返して熱心に眺めているので、思わず笑ってしまった。毎日使っているものでも、それが何なのか思い出せない。それは恐怖なのだろうか。それとも、新鮮なのだろうか。それとも、そのどちらの感情も、忘れてしまったのだろうか。

 独身の一人娘である私はいつまでも同居を望んでいたが、母は私が社会人になったのをきっかけに、一人暮らしをさせた。独立させることが目的だったというが、今となっては、一緒に住んでいたほうが良かったのかどうか、判断が正しかったのか、正解はわからない。


 今日は音楽プレイヤーを持ってきた。面会中に使用し、帰るときに持ち帰れば良い、と医者から許可が出たのだ。お見舞いの品も、差し入れも、何もかも医者の許可がないと持ってこられない。最初は違和感しかなく、反発の気持ちもあったが、慣れてきている自分が、少し寂しい。

「お母さん、CD持ってきたよ」
「CD? 音楽かしら?」
「そう。好きな曲だと思うよ」
「あら、ありがとう。どうして私の好みを知ってらっしゃるのかしら。ありがたいわ」

 母は私を娘だと忘れてしまっているけれど、私は母を「お母さん」と呼ぶ。私は、母を忘れていないから。最初は、そうすることで少しでも何か思い出してほしい、忘れる速度を緩めたい、そんな感情が強かったけれど、今は少し違う。忘れる速度を緩めたいとは思っているけれど、忘れていく母のことも、受け止めるようになったのだと思う。

 いろんなことを忘れてしまった母だけれど、音楽をかけると、ときどきメロディに合わせて「ふふふん」と口ずさむので、私は音楽の力を感じざるを得ない。私のことは忘れても、シューベルトのメロディは忘れない。残酷にも思える脳の構造に、今となっては感謝もしている。

 シューベルトの歌曲集「冬の旅」が真夏の病室に流れる。この部屋は季節感が希薄だな、と思う。シューベルトは、静かで少し暗い印象もあるが、どことなく激しさも感じられる。「冬の旅」は、恋に破れて冬の荒野をさまよう若者の心の風景を描いているそうだ。深くて美しい絶望の歌。シューベルトは、短命だったにも関わらずものすごい量の曲を生み出した作曲家だと聞いたことがある。三十代になったばかりの頃に書いたと言われている名曲たちも、三十代の若さや溌剌さよりも、酸いも甘いも知った老人の哀愁のようなものすら感じる。

 母は、北関東の生まれである。優しい母親と厳格な父親と、年の離れた兄に可愛がられて育ったそうだ。「そうだ」と憶測でしか言えないのは、私が祖父母を始め、親戚に会ったことがないから、わからないということだ。母は、相手が誰であるか誰にも告げぬまま私を身ごもり、家族から産むことを猛烈に反対された。それでも母の決心は固く、結局勘当された。母は、一人で上京し、私を出産し、育てた。

加奈かなはお母さんのたった一人の相棒だから」

 いつもそう言って、私の手をとって、両足をしっかりと地面につけて立っていた。若い頃は保険の外交員をしていた母。一人で踏ん張って立っていた。それは、子供ながらにとても格好良かった。私は、母と二人で生きてきた。父親が誰なのか、知ろうとしたこともなかった。親戚に会いたいと思ったこともない。私は母のたった一人の相棒。それが誇らしく、母みたいに強く優しく生きたいと願っていて、それだけで良かった。

 母の母、祖母からは、何度か連絡があったようだ。祖父に内緒で、母を援助したかったらしい。でも、それを母は断った。

「愛情だけもらっておくね、お母ちゃん。気持ちは十分伝わってるから。ありがとう」

 母が電話で話しているのを聞いたことがあった。それは、母なりの覚悟だったのだろう。自分で決めて出てきたのだから、自分の力で生きていく。そう決めていたのだろう。

 私が大人になって働いてからは、生活に余裕もできて、二人で買い物をしたり、ランチをしたり、ときには贅沢にマッサージに行ったりした。そんな時間が楽しかった。私は、それで満足だった。その時間は、まだ続くと思っていた。終わることなんて、想像したことすらなかった。

 認知症と診断されてから、私はほとんど母のアパートで過ごすようになって、母が今まで通りではないことを目の当たりにした。料理の味が、母の味付けではなくなっていった。物をすぐに失くし、泥棒が入ったと繰り返し訴えた。その都度、私はその物を見つけ出し、安心させなければならなかった。もう自宅では厳しいかもしれない。そう思い始めたのは、夜中に突然起きだして、布団を敷いたり畳んだりを繰り返すようになったときだ。私は翌日も仕事で、夜中の三時に起こされるのは、正直気が滅入った。

「お母さん、何してるの?」

 母は布団を畳んで、床を手でさすって何かをじっと見ているようだった。

「ここが、これは、ほら、あれを探さないといけないから」
「何? わかんないよ。何よ、こんな夜中に。もう寝た方がいいよ」
「そうね、寝ないと」

 そうして母は布団を敷き、横になった途端にまた起きだして、布団を畳んで床をなでさするのだ。このときばかりは、物忘れの粋を越えて、話が通じないのだ。そして、そのことを翌朝にはすっかり忘れている。夜中に起きていたこと自体、忘れているのだ。

 後日、医者に相談すると、「夜間せん妄」という状態で、意識障害の一つらしい。そんな専門的なことは何もわからないわけだから、ただ意味不明なことを言いながら奇行を繰り返す母に、私は苛立ちと恐怖を覚えた。もう家では難しいのかもしれない。そう思い始めたとき、医者から入院を勧められた。

「娘さんもお疲れでしょう。入院することは、お母さまのためでもあり、ご家族のためでもあります。ご家族が倒れてしまったら、お母さまを支えてさしあげる方がいなくなってしまいます」

 日に焼けた女医は静かに説明した。認知症になった母を家でられないことは私の落ち度だと感じていた。入院させることなど、親不孝なのだと思っていた。でも、そうではないと医者は言った。

「共倒れになってしまったら、お母さまが悲しみます」

 あのとき、家でられない私を責めず、入院を勧めてくれた医者に感謝している。自分で思っていた以上に、当時の私は疲弊していたのだ。仕事をしていても、母のことが心配だった。母の世話をしているときも、仕事のことが気がかりだった。両方とも、中途半端で、両方とも、一生懸命やろうとしていた。

 テレビで、認知症の方が徘徊して事故にあった、なんてニュースを見たりすると、母のアパートも、内側からは鍵が開けられないようにしたほうが良いのではないか、などと真剣に悩んで、ネットショッピングでそういう鍵がないか、検索してみることもあった。だから、入院を選択した。それは悪い判断じゃなかった。今はそう思っている。


 入院してすぐの頃、私は医者や看護師と多くのことを話し合わねばならなかった。それは、母に関するさまざまな選択なのだけれど、母の認知機能が低下しているため、母自身のことなのに、私が決めなければならなかった。

 例えば、入院自体もそうだ。母自身が入院を希望したというより、私が限界になって、医者の勧めもあり入院を選択した。それ以外にも「部屋を個室にするか」「洗濯は家族がやるか病院のレンタルパジャマを使用するか」など細かい項目から「自分や他者を傷つける可能性がある場合、身体拘束をしても良いかどうか」などという今までの人生では自分と関係するとは到底思えなかった選択もあり、私は大いに迷った。今でも、その一つ一つの選択が、正解だったかはわからない。

 一番迷ったのは「いざというとき、延命治療をするかどうか」という選択だった。

「急いで決めなくて大丈夫ですから」

 医者はそう言ったが、いつかは答えを出さなければいけない。そんなことまで、私が一人で決めなければならない。それは、私にとって非常に酷なことであった。そんな迷いを持ちながら母を見舞うことも、心苦しかった。まだ認知機能が正常だったときの母に聞きたい。相談したい。叶わぬ願いでも、私だけじゃ決められないと思った。いつもしていたように「加奈、お母さんはこう思う」そう言って私を安心させてよ。

 悩みながら母の顔を見ていると、母が、延命治療に関して話していたことがあったことを思い出した。確か「たくさんのチューブにつながれて、ベッドに縛られて生きるような最後は嫌だわ」というようなことを言っていた気がする。

「延命治療は悪いことじゃないわ。それを選ぶ人がいるのも、わかる。でも、私はいいかなあ。そこまでしないで、静かに逝きたいわ」

 テレビで医療関係のニュースを見ていたときだったと思う。何気なく言ったこの母の言葉が本音だったのか、今となってはわからない。当時はまさか自分がこんな選択を迫られると思っていなかったから、完全に他人事だったのだ。どうしてもっと話し合っておかなかったのだろう。後悔しても、仕方ないのはわかっているけれど、もっと母の本心を聞いておいても良かったと思った。それでも、今選択するのは私しかいない。邪気のない笑顔を見せる今の母を見ながら、あの日の母の言葉を、信じるしかないと思った。

 窓の外は炎天。病室には「冬の旅」。シューベルトは亡くなる直前まで「冬の旅」の校正を行っていた、と聞いたことがある。晩年、体調を崩してまで書いていた曲。だから、悲壮感の中に、仄暗い情熱を感じるのだろうか。

 人は様々なものを失いながら生きている。何かを得るためには、何かを失う。そうやって、得たり失ったりしながら生きていく。母は記憶を失う代わりに、何を得ているのだろうか。今まで生きてきて感じた歓喜や苦悩、日常の細やかな出来事、出会った人々、誰にも告げずに愛した人のこと、それらの記憶を少しずつ失いながら、母は何を得ているのだろう。どうかそれが穏やかなものでありますように。そんな気持ちで母を見ると、「ふふふん」と軽くハミングしていて、CDを持ってきて良かったと思った。

「じゃ、今日はそろそろ帰るね」
「あ、そうなの? もうすぐお夕食だから、召し上がっていけばいいのに」
「ありがとう。でも、明日仕事だから。お母さんは、ちゃんとご飯食べてね」
「ええ、食事は全ての基本ですからね」

 そう胸を張って微笑む母は、あどけない少女のようだった。


 金木犀の芳香で行き過ぎる季節を感じ、乾燥した空気で秋の深まりを知る。私はいつものバス停でバスを待っている。バス停まで歩いてくるとき、住宅の庭にきれいな白い花が咲いていた。土いじりや花が大好きな母だけれど、生花の差し入れは禁止されているため、他人様ひとさまのお庭だけれど、きれいな白い花の写真をスマートフォンにおさめさせてもらった。

 バスに乗ってピンク色の病院へ向かう。今日はJのピアノは聞けなかった。しかたなく私はイヤホンをして、自分で音楽を聞く。Jの代わりに私の気持ちを落ち着かせてくれるのは最近知った若いピアニストの演奏。楽譜なしで、一度聞いたらその場で弾けるらしい。いわゆる「絶対音感」というものだ。私にも、何か突出した才能があったら、人生は何か大きく変わったのだろうか。こんな平凡な人間でなければ、もっと母を支えられることが、できたのだろうか。

 面会バッジをもらって母の部屋へ行く。ベージュ色を基調としたシンプルな部屋。差し入れができないから、殺風景だなと思う。

「どこのお嬢さんか知らないけれど、せっかく来てくださったなら、ゆっくりしていってね」

 そう言って母は、いつものように私に椅子を勧める。母は基本的に穏やかだ。私がいないときは、隣の病室の患者さんのように、突然大声を出すこともあるのだろうか。今のところ、そんな場面に立ち会っていないから、私は「まだ母のほうがマシだ」なんて、心無い差別的なことを思ってしまうことがある。誰も、なりたくて認知症になっている人なんて、いないというのに。

「今、来るとき、きれいな花を見たよ」

 私は自分のスマートフォンの画面を母に見せる。

「どれ? ああ、きれいね。シュウメイギクね」

 画像を見るなり、母は言った。私は母が花の名前を覚えていたことが嬉しくて、胸の奥から何か言いようのない感情がこみ上げた。感動とも違う、ただの嬉しさとも違う、切ないような、懐かしいような感情だった。それは、二人で暮らした狭いアパートのベランダで育てた花々を思い起こさせたからかもしれない。パンジー、ビオラ、チューリップ、朝顔、クレマチス、なでしこ、ペチュニア。

「素敵なシュウメイギクの写真をありがとう。あなた、お名前は?」
「加奈だよ」
「いい名前ね」
「でしょ。お母さんが、つけてくれたんだよ」


「どちらさまですか?」

 初めてそう言われたときが、テーブルの上の品物を覚えられない母を目の当たりにしたときの次に、絶望した瞬間だったと思う。入院して三カ月ほどで、私のことを娘と認知しなくなった。

 よく聞く話ではあった。いつか自分のことも忘れるのだろう。わかってはいた。でも、実際に目の前で母から名前を尋ねられることは、想像をはるかに越えて、私の胸をえぐった。

「お母さん、何言ってるの? 加奈だよ、加奈。お母さんの、娘!」
「あら、私に娘がいたかしら」
「いるでしょ。私がその、む・す・め! 加・奈!」

 私は、怒っていたように思う。母は、少し怯えたように見えた。私のほうが、取り乱していたのだと思う。怖かったのだ。「加奈はお母さんのたった一人の相棒」と言われながら、手と手をとって母と過ごしてきた日々を母が忘れてしまったら、私の存在自体が消えてしまうような気がした。

「どうかされました?」

 私は、自分で自覚するより大きな声を出していたのだろう。看護師が部屋を訪ねてきた。

「母が、私のことまで忘れてしまったみたいで」

 唇を噛んだ。入院なんか、させないほうが良かったのかもしれない。大変でも、やっぱり家でるべきだったのだ。入院したから、私のことも忘れてしまったんじゃないか。

「城田さん、いつも娘さんの自慢ばかりしてらっしゃるじゃないですか」

 看護師は静かに母に話しかけた。

「あら、そうだったかしら?」
「そうですよ。『うちは、母一人子一人だから寂しい思いばかりさせてしまったけれど、あの子は本当に素直で優しい子に育ってくれた』って、毎日仰るじゃないですか。その自慢の娘さんが、加奈さんでしょ?」

 母はじっと私を見て、優しく笑った。それは、いつもの笑顔だった。

「そうよ、加奈よ。私の自慢の一人娘」

 そうはっきり言った。私は、まだこのまだらな記憶を行ったり来たりしている状態の母に慣れていなかった。母は、渦巻く記憶の端から端まで行ったり来たりを繰り返し、渦に飲み込まれたり、呼吸のために顔を出したり、脳内で溺れているような状態だったのだろう。私はその都度に、期待したり、不安に思ったり、裏切られたと感じたり、落ち着かない日々を過ごしていた。

 そんな私にとって、看護師の存在は大きかった。いつもにこやかに穏やかに母に接してくれる看護師たち。

 この病棟の看護師はみな、忙しいはずだろうと思うのだけれど、せわしなく走っているところを見たことがない。みな、穏やかな顔をして、ゆっくりと、でも手際よく仕事をしているのだ。テレビで見るような「救命救急24時」などの番組だと、看護師はみな走り回って大きな声を出してバタバタしている。不思議に思って、いつも母を担当してくれている看護師の一人に聞いたことがある。すると看護師は

「ああ、そうなんですよ、私たちは走らないんですよ。緊急の場合は別ですけど、基本的には走りません。私たちがバタバタ走っていると、患者さんを不安にさせてしまうかもしれないでしょ。だから、忙しくても、走らないんです」と微笑んだ。

 丁寧で手際よく、でもバタバタせず。所作の一つ一つが仕事の一部なんだと感じたものだ。それと同時に、ここは看護師が走っているだけで不安に思ってしまうような、繊細な人たちの集まる場所なんだと思って、その中に自分の母がいることに、複雑な思いがした。

 シュウメイギクの画像を嬉しそうに眺める母を見て、生花の差し入れができないなら、花の写真を病室に飾ることはできないか、相談してみようと思った。殺風景なこの部屋に、少し暖かさが宿ると良い。

 帰りのバス停で降りると、Jがピアノを弾いていた。久しぶりに聞いた気がする。Jのピアノは相変わらず静かに穏やかで、私の情緒を少しずつ落ち着かせた。心配なことはたくさんある。将来の不安なんて、抱えきれないほど溢れている。それでも、Jのピアノで私は少し中和される。希望の象徴のような若々しい才能。それは、光であり、一瞬の癒しであった。Jは何歳なのだろう。二十代に見えたけれど、もっと若いのかもしれない。

 母は二十五歳で私を産んでいるのだから、母が私の年齢のとき、私はすでに十八歳だったということになる。愕然とした。私は、Jくらいの年齢の子供がいてもおかしくない年になっているのだ。若々しいエネルギーに満ちた十代後半から二十代の青年。どう考えても、私がそんな青年の母親になるという感覚は湧かなかった。私は一生母の娘であり、誰かの母にはならない。薄くくすんだ猫背の自分の影を見つめながら、ただJのピアノを聞いた。これはこれで、いいではないか。

 母の部屋に飾る写真は「額縁やガラスがなければ可」と言われた。何の花の写真を飾ってあげようか。Jのピアノの音を耳に揺らしながら、私は一人ぽつぽつ歩いて帰宅した。


 母が、何かを飲むとき、むせこむことが増えてきた。コップからでも、吸い飲みからでも、何かを飲むとむせる。看護師に相談すると、飲み込む機能が弱まっているのだろう、ということだった。高齢者は嚥下と言われる飲み込みの機能が低下しやすく、むせてしまうと、飲み物や食べ物が食道ではなく気管のほうに入ってしまい(それを誤嚥ごえんというそうだ)、肺炎を起こす危険性があると言われた。さらさらの普通の液体より、とろみをつけたほうが飲み込みやすいそうで、私はさっそく、病院の売店で液体にとろみをつける粉を買いに行く。

 病院の売店には寄ったことがなかったが、思っていたよりもたくさんのものが売っている。飲み物や食べ物だけでなく、雑誌やクロスワードの本、ガーゼやおむつ、吸い飲みやストロー付きコップ、そして、とろみ粉。スポーツ選手が飲むプロテインのような巨大な袋のとろみ粉もあったが、母に合うかわからなかったので、とりあえずスティックタイプの小分け包装のものにした。このとろみ粉を気に入ってくれるなら、今後は大きな袋で購入したほうが良いかもしれない。

「お母さん、とろみ粉買ってきたよ」
「とろみ粉? 何かしら」
「最近、飲み物、むせるじゃん? とろみつけると、飲みやすいみたいだよ」
「とろみ? 美味しいのかしら」

 袋を見ると、無味無臭と書いてあった。試しに、母のコップに入っているリンゴジュースに入れてみる。さらさらした粉で、少量入れてスプーンでかきまぜる。なかなかとろみがつかず、加減がわからず入れているうちに、とろみどころかドロドロの葛湯のようになってしまった。

「あ、ちょっと入れすぎちゃった」

 私は苦笑しながら母にリンゴジュースを渡す。

「あら、すごい。ゼリーになったわ」

 そう言って、母はプラスティックスプーンでドロドロになったリンゴジュースを一口食べた。

「どう?」
「うん、悪くないわ」
「本当?」

 私は横から手を伸ばし、葛湯のようなものをスプーンですくって口にした。それは、ゼリーのようなつるんとした食感でもなければ、葛湯のようなとろんとした食感でもなく、ドロドロ、というのが一番適していて、あまり美味しくはなかった。

「お母さん、ごめんね。たぶん、もう少し緩くて大丈夫なんだと思う。ちょっと練習するわ」
「そう? なかなか、悪くないけれどね」

 そう言いながら、母はドロドロのリンゴジュースをぱくぱく食べた。確かに、液体で飲むようなむせこみはなかった。とろみ粉のパッケージを良く読むと「果汁の入っているものにはとろみがつきにくい場合があります」と書いてあった。だから、リンゴジュースは難しかったのか。

 これから母は、液体のものには全てこのとろみ粉が入れられるらしい。水やお茶、ジュースならまだしも、味噌汁もとろみがつけられるのか、と思うと、食欲が失せる気がした。それとも母は、「煮こごりみたいね」と言いながら食べてくれるのだろうか。

 母は、料理がうまくて、保険外交員の仕事をやめてからは惣菜店でパートをしていた。そこのメニューで気に入ったものがあれば家に帰ってきて作り、私が母の家に行くと、必ず新メニューでもてなしてくれた。ときどき私が料理をして母に食べさせることもあったが、私は生憎、料理上手とは言えなくて、それでも母はさまざまな語彙力で褒めてくれた。しょっぱいときは「ご飯が進むわ」。薄味すぎるときは「体に良さそうね」。今まで母が私を慰めてくれているのかと思っていたけれど、母は本心からそう思っていたのかもしれない。さまざまな角度から、物事を前向きにとらえられる才能。それは、人生において、重要な才能だと思う。ドロドロの葛湯ととるか、リンゴゼリーととるか。ドロドロの味噌汁ととるか、煮こごりととるか。何においても、とり方次第なのだ。

 母子家庭ととるか、最高の相棒との人生ととるか。

 母は、多面的に人生を捉えられる人なんだな、と改めて実感する。例え、それらを忘れてしまっていたとしても、捉え方の本質は変わらないのだな、と。

「お母さん、バス停の近くにある音楽スクールでね、いつもシューベルト弾いてる人がいるんだよ」
「あら、素敵ね。ピアノ?」
「そう。ピアノ。だいたい『セレナーデ』を練習しているんだけれどね、すごく良い音なんだ」
「聞いてみたいわ」
「そうだね。今度、一緒に聞きに行こうね」

 私は、もう外出の許可のでない母に、Jの演奏を聞かせることはできないことを知っている。それでも、CDのシューベルトじゃなくて、生演奏のシューベルトをいつか一緒に聞きたいね。そんな願いを口にすることくらい、許されてもいいと思った。

 全ての飲み物にとろみをつけていたのも虚しく、母は誤嚥性肺炎になった。飲み込みが悪くて、気管に食べ物やの飲み物が入ってしまって、そこから患ってしまう肺炎らしい。今は少し熱があって、呼吸が良くないため、カニューレと呼ばれるチューブのようなものを鼻につけている。そこから酸素を流しているらしい。

「高熱にならなくて良かった」と私が言うと、高齢者は体の反応が弱く、高熱はあまり出ない、と医者に説明を受けた。防御する機能が低下している証拠なのだそうだ。

 母は鼻にカニューレというチューブをつけたまま静かに眠っているので、私は小さな音でシューベルトを流し、ベッドサイドの椅子に掛けた。病室のベージュ色の壁に、シクラメン、クレマチス、シャコバサボテン、ビオラ、シンビジウムなど、冬の花の写真をプリントアウトしたものを貼っている。母は、これらの好きだった花の、いくつまで名前を言えるのだろう。例え名前は忘れてしまっていても、花の写真に囲まれていることが、母にとって喜ばしいことなら嬉しいのだけれど、と思った。

 帰り際、雨が降り出した。結局、今日の母は眠ったままで、話すことはできなかった。バス停を降りると珍しく通りには誰一人おらず、冷たく湿っているブーツのつま先を見つめながら、世界には私一人しかいないんじゃないかという錯覚に陥った。


 一月の冷たい静かな日。前日の夜から降った雪がすっかり積もり、街中を冷やしていた。世界は白一色で、色彩と全ての雑音は厚い雪に吸収され、静寂に張り詰めていた。

 冷えた指先をこすり合わせる。皮膚が乾燥して中指の爪の横にささくれができている。紅茶を飲むための湯を沸かす。ガスの火は、チチチチぼわんと音をたてて青白く灯る。やかんの上に手をかざしていると、携帯電話の振動が着信を伝える。母の入院している病院からだった。

 先月から患っていた肺炎が悪化していて、危ないかもしれないとは言われていた。電話の内容は、「いよいよです。病院に来てください」という内容のことを、丁寧な言い方で伝えてくれた。

 一つ一つゆっくりと忘却を続けてきた母は、とうとう生命をも失おうとしている。私は急いで着替えて、雪道を慎重に転ばぬよう、バス停へ走った。乗車の際、ICカードを忘れていることに気付き、覚悟していたとはいえ、気持ちが焦っていることを実感した。現金で払ってバスに乗る。バスは延々走り続けるように思えた。

 病室につくと、母は浅い呼吸を繰り返していた。意識はなかった。

「お母さん、加奈だよ」

 声をかけて、痩せた手を握る。温かく力強かった母の手。何でも器用にこなし、裁縫の得意だった手。保険外交員をやめてから惣菜店でパートをし、美味しい料理を作り、働き者の母の手。私の頭を撫でた手。花が好きで、日焼けするよ、と言っても気にせず、ベランダで作業して手の甲にシミを作った手。大好きな母の手。私の、大切な相棒の手。母を前にすると、私はいつだってただの甘ったれの娘だった。母が忘れてしまっても、私は永遠に母の娘なのだ。

「泥棒が入ったかもしれない」

 そう言ったあの日から、母はいったいどれほどのことを忘れながら生きてきたのだろうか。私が覚えている数えきれない母との日々を、母はどれだけ忘れてしまったのだろうか。例え母が忘れてしまっても事実が消えることはない。私たちは最高の相棒だ。

「私が全部ちゃんと覚えているから大丈夫だよ」

 そう言って、ぎゅっと手を握る。じっと母の胸を見つめる。浅い呼吸がだんだん少なくなり、ますます浅くなる。最後にゆっくりと一つ息を吐いて、母は静かに逝った。

 そのときの表情は、記憶を失くし始めるより前の、若い頃の母の顔であり、凛として美しかった。痩せて、老いてはいるが、確かに強く生き切った母の顔であった。母は、生命を失うと引き換えに、今まで失ってきた記憶を取り戻したのかもしれない。人生の最期に、走馬燈のように人生を思い出すというのならば、最期に記憶を取り戻した母は、さぞ、驚きや喜びや苦労もあった色とりどりの走馬燈を体験することができたに違いない。そう思うと私は、悲しみよりむしろ、ほっとしたような気持ちにもなるのだ。 

「加奈はお母さんのたった一人の相棒だから」

 そう言ってくれた母。私が相棒だったこと、最期にきっと思い出してくれたよね。


 もろもろの手続きを終えて、病院の帰り、バスを降りると、Jが背中を向けてピアノを弾いていた。それは、シューベルトの「セレナーデ」であった。私は突然にこみ上げる感情が喪失感であることに、涙が溢れるまで気が付かなかった。通りを足早に過ぎていく会社員風の男性や、雪道をゆっくり歩いている女性に見られていると感じたけれど、私は気にせずに泣いた。希望の象徴のような若者の弾くピアノは、今日に限ってことさらに優しく、悲しい旋律であった。

 私のたった一人の家族がいなくなった。私のたった一人の相棒。私は、大好きな母の相棒としての役割を、しっかり果たせたのだろうか。私の相棒はもう、この世界のどこを探しても、二度と会えない。その事実を受け止めるまでには、まだ時間がかかりそうだった。

 真冬の空の下、突っ立ったまま一人泣く中年の女を、シューベルトが静かに包む。足は雪にかじかんで冷たく、最期に強く握った母の手の温度だけを、今ひっそりと思い出している。


《おわり》

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