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小説:夏の終わり/全文【15992文字】

登場人物

清水しみず大五郎だいごろう…清水家の当主
寿美子すみこ…大五郎の妻
大輔だいすけ…清水家の長男。六年前に他界
春子はるこ…大輔の妻
きぬ…大輔の娘(双子)
綿わた…大輔の娘(双子)
田中たなか梨寿りず…清水家の長女
哲夫てつお…梨寿の夫

岩山田いわやまだまこと…刑事
鈴木すずき敬二けいじ…刑事


炎天を引き裂く



 例年よりも暑いと言われた夏の終わり、清水家には七人の人々が集まっていた。集まっていたといっても、うち六人が今はこの広い日本家屋に住んでいるので、客は一人だけだ。この家の主である大五郎だいごろうは、きれいに整えられた髭を撫で、満足そうな顔をしていた。六十六歳という年齢にしては背が高く、恰幅の良い大五郎。広い客間の上座に座り、みなが揃って昼食に寿司を食べているのを眺める。清潔な和室から、廊下をはさんで庭が見える。

 黒い服を着て、形だけのことはしたが、大仰なことをするつもりはなかった。このくらいが、世間的にも品があってちょうど良い。そう思っていた。今日は、清水家の一人息子、大輔だいすけの七回忌なのだ。

春子はるこさん、お茶をもう一杯お願いしようかしら」

 大五郎の妻、寿美子すみこが嫁の春子に声をかける。寿美子は痩せていて、六十五歳という年齢より若く見られる。「厚化粧だからよ」と陰で噂されていることは、本人は全く気にしていない。今日も、顔に真っ白いファンデーションを塗り、黒いツーピースに不似合な真っ赤な口紅を塗っている。

「はい」

 春子は台所へ立って、湯を沸かす。この家の家事は、ほとんどが春子の仕事なのだ。黒いワンピース姿の春子は、長い髪を一つに結って、自分の夫の七回忌であるにも関わらず、いつも以上に忙しなく動き回り、働いていた。それは、夫の大輔が三十一歳のとき不慮の交通事故で亡くなってからも、変わらずこの広い屋敷に住まわせてもらっていることへの感謝なのかもしれない。大輔が亡くなったときに、この家を出るという選択もあったのだろうが、この家を出たら、当時生まれたばかりで、今六歳になる双子の娘たち、きぬ綿わたを一人で育てなければならない。結局春子は、経済的に全く不自由のないこの屋敷を出ず、家事を行いながら双子の娘を育てている。

「絹ちゃん、タマゴ食べた?」
「食べたよ、おいしいよ」
「綿も食べたい」
「どうぞ」

 双子の姉妹、絹と綿は仲が良く、行儀よく正座をして寿司を食べている。艶のある黒髪をおかっぱにそろえた美形の双子。その顔は、家族でさえも見間違うほどにそっくりで、違いと言ったら、姉の絹には左頬に小さなホクロがあることくらい。今日の二人は、お揃いの黒いワンピースを着ていて、妹の綿が場違いに派手な黄色いカチューシャを付けていなければ、パッと見分けはつかないだろう。

「お義姉さんもどうぞ」

 春子が熱い日本茶を運んでくる。大輔の姉、田中たなか梨寿りずは青色の派手なネイルをした手で湯呑を受け取り、「あなたももらえば」と隣にいる男に促す。男は痩せており、黒いシャツは少しよれて、清潔感がない。この男だけが、この屋敷に住んでいない人物であり、梨寿と別居中の夫、田中哲夫てつおである。四十歳になる梨寿はネイリストとして仕事が順調で、四十二歳の哲夫はのらりくらりと仕事を転々としている。二人の間に子供はなく、哲夫のギャンブル癖によって揉め、今は別居中である。それはたびたび起こることなので、清水家の人々は、哲夫と梨寿の別居と、それにともなう梨寿の帰省は、何も驚くことではなかった。

「ねえねえ、哲おじちゃんが買ってきてくれたケーキ、いつ食べていい?」

 絹が、お茶を淹れ終えてようやく座った春子に言う。

「お寿司食べ終わって、少ししてからにしましょう。おやつの時間がいいんじゃないかしら? 哲おじさんに、聞いてごらんなさい」

 春子は、優しい口調で絹へ話す。絹は、口いっぱいに頬張ったイクラを咀嚼しながら「哲おじちゃん、ケーキいつ食べていい?」と聞く。

「絹ちゃん、イクラさんがお口から飛び出しそうだよ」

 哲夫は、絹の姿の頬を緩ませる。哲夫は、双子の姪っ子たちを大そう可愛がっているのだ。今日の法事にも、手土産にケーキを持参し姪っ子たちを喜ばせていた。

「お母さんの言う通り、おやつの時間にしようか」
「おやつって、三時? ねえ三時?」
「そうだね、三時にしよう」
「早く三時にならないかなー」

 そう言いながらまだイクラを食べている絹の隣で、「三時ってあとどのくらい?」と、綿も目を輝かせていた。


 みなの腹が満たされた頃、春子は台所で、寿司桶に残ったいくつかの寿司を皿にうつしラップをかけていた。その足元で絹と綿が座り込んで絵本を読んでいる。

「春子さん、お茶淹れてくださる?」

 客間から寿美子が声をかけ、春子は「はーい」と返事をする。

「キヌサン、オチャイレテクダサル?」

 綿が祖母の声真似をしてクスクス笑っている。

「はいはい。熱いお湯使うから、危ないからみんながいるお部屋に行っていて」

 春子が娘たちをたしなめる。六歳の子供にとっては、親戚が集まって昼から寿司を食べるなどということは、非日常的で楽しいことに違いない。それが自分たちの父親の七回忌であろうと、父親の記憶を持たない姉妹にはあまり関係がない。二人は「はーい」と言いながらも、少し離れたところから母がお茶を淹れる様子を眺めているのだった。

 春子がお茶の入った湯呑をいくつかお盆に乗せて運んでくる。

「お義父さんも飲みますか?」

 春子が声をかけると

「私はちょっと煙草をんでくるよ」

 大五郎はそう言って、腰をあげた。

「書斎にお茶をお持ちしますか?」
「いや、これくらい自分で持っていくよ」

 そう言って大五郎はお盆から湯呑を取り、離れの書斎へ向かった。

 離れの書斎は、もともと大五郎が趣味で集めた骨董の本などが置かれているのだが、双子の姉妹が生まれてからは、大五郎は主に喫煙所として使用している。子供の前で煙草を吸わない、というのが、大五郎の孫たちへの配慮であった。

「僕も一服しようかな」

 一家の主が離席したことでリラックスした哲夫が、庭へ続く引き戸を開けてサンダルをつっかけ外に出る。

「あっついなあ」と言いながら窓を閉め、煙草を咥えた。双子の姉妹ははしゃぎながら窓にはりつき外の哲夫を眺めているが、煙草を吸っているときは相手にしてくれないと知っているようで、早々に哲夫の観察をあきらめ、客間にバタバタと走って戻ってきた。

「絹ちゃんと綿ちゃんは元気がいいねえ」

 梨寿が、春子の淹れたお茶をすすりながら二人を眺めて目を細める。哲夫同様、梨寿も姪っ子たちを可愛がっているのだ。そうでなければ、哲夫と揉めるたびに姪っ子も暮らしている実家に戻ってきたりはしない。梨寿は子供が好きだ。梨寿に子供がいないのは、作らなかったのではなく、できなかったからだ。梨寿は、婦人科で検査を受けたが問題はなかった。哲夫にも検査を受けてほしいとお願いしたが、哲夫は自分に問題があるかもしれない、という可能性を知るのが怖くて検査を拒否した。そのときの諍いが、そもそも最初の別居の原因だったのだが、結局哲夫は検査を受けぬまま梨寿は四十歳を過ぎ、もう子供は諦めていた。こうして姪っ子たちを眺めていられれば、それで満たされているのかもしれないと、梨寿本人は思っている。

「もう一時か」

 煙草を終え、客間に戻ってきた哲夫がつぶやく。そのつぶやきに双子が反応し「ねえ、哲おじちゃん、三時まであとどのくらい?」と足元にまとわりついた。

「あと二時間だな。それまでゲームでもするか?」
「わーい」

 双子は自分たちの部屋にバタバタと駆けて、トランプや人生ゲームなどを抱えて降りてきた。

「お、人生ゲーム懐かしいな。お前もやろう」

 哲夫はゲームに梨寿を誘う。

「懐かしいわね」

 別居中とはいえ、それはいつものことなので、梨寿は哲夫の誘いに乗る。

「春子さんもやりましょうよ」

 梨寿が春子に声をかけ、結局大人三人と、双子は二人一組で人生ゲームを始めた。寿美子はお茶を飲みながらゲームの行方を眺める。哲夫は実際の人生同様仕事が定まらないことを梨寿に笑われ、双子はそろってアイドルデビューを果たし、おのおのの人生が完結して、一時間ほどでゲームは終わった。それは、そこにいる誰にとっても、楽しい時間であった。

「久しぶりにやると楽しいわね」

 一位で勝った梨寿は機嫌が良い。

「楽しかった!」

 二位で抜けた双子も上機嫌であった。

「ゲームも実際の人生も、厳しいねえ」

 最下位の哲夫は渋い顔をしていたが、それでも双子を楽しませたことで、十分に満足していた。

「もう一回やる?」

 春子に聞かれた双子は「もういい!」と言い、大人たちはゲームから解放された。姉妹は母に促されゲームの片付けを行い、部屋へ持って行った。

 春子と梨寿と寿美子はテレビを見ながら談笑し、哲夫は自分の持ってきたスロットの雑誌を読み始めた。双子は、客間の隣の部屋から廊下を行ったり来たりするのが楽しいらしく、きゃっきゃと笑いながら、交互に廊下に走ってきては隣の部屋に引っ込み、二~三分するとまた廊下に駆けだし、バタバタと走って、また隣の部屋に戻る。そんな遊びを繰り返していた。その途中、何度か哲夫に「ケーキまでどのくらい?」と絹が尋ね、「四十分くらいだな」と言われると「まだか!」と言いながら走り去り、次に綿が哲夫に「ケーキまでどのくらい?」と尋ね「三十分だな」と哲夫が答える。延々そんなことを繰り返して、遊んでいた。

 そしていよいよケーキが食べられる三時になったとき、双子はへろへろに疲れて汗だくであった。

「もう、走り回りすぎよ。哲おじさんのケーキいただくから、ちゃんと座ってちょうだい」

 母の春子にたしなめられ、双子は言うことを聞いて客間に座った。

「お父さんも食べるかしら」

 梨寿が言う。

「あ、私声をかけてきましょうか?」

 春子が腰を浮かす。

「いいわよ。春子さん、ずっと動きっぱなしでしょう。私が行ってくるわ」

「ありがとうございます」

 そうして、梨寿が大五郎の書斎へ向かった。離れへ行くには、勝手口から一度外へ出なければならない。

「暑いわねえ」

 梨寿は、やっぱり春子にお願いすれば良かった、と思いながら、暑い砂利道を歩いた。離れは六畳ほどの狭い和室で、一見茶室のようにも見える。趣のある外観が大五郎は気に入っており、古い建物であったが、書斎にリフォームしたのだ。

「お父さん、哲夫の持ってきたケーキ食べるけど、お父さんもどう?」

 梨寿は引き戸をノックしながら声をかけた。返事がない。

「お父さん? 開けるわよ」

 書斎の引き戸を開ける。クーラーの涼しい風が足元を抜ける。

「お父さん?」

 次の瞬間、梨寿の大きな悲鳴が炎天を引き裂いた。


捜査開始



岩山田いわやまださん、こっちです」

 ベビーフェイスの若い刑事が規制線の前で手をあげて立っている。捜査一課に配属されたばかりの鈴木すずき敬二けいじは、若々しくスーツをぱりっと着こなしているが、さすがに暑いのか、汗で張り付いた前髪を指で撫ぜる。

「おお、敬二。おつかれ」

 鈴木に近寄るのは、いつもペアを組んで行動しているベテラン刑事の岩山田まことである。スーツのジャケットを脱いで手に持ち、汗を拭きながら歩いてくる。強面で体格の良い岩山田は、テレビドラマに出てくる、いわゆるザ刑事といった風体で、鈴木は時々おかしくなる。そんな鈴木は「刑事になりたての敬二くん」と先輩たちにいつも冷やかされているのだ。

「立派な家だな」

 清水家の日本家屋を眺めて岩山田がつぶやく。

「はい。代々続く地主だそうです」
「マルガイは」
「この家の主人です。もう運び出されています」
「そうか」

 岩山田は規制線をくぐり、現場へ入る。六畳ほどの狭い和室で、鑑識がまだ作業をしている。小さな換気用の窓が一つ。部屋の両側に、胸の高さほどの本棚。部屋の真ん中に、床に座って使うタイプの小さなテーブル。そして立派な座椅子。テーブルには、吸い殻の入った灰皿と本が数冊。本は、骨董に関するものだった。畳にはこぼれた飲み物のしみがあり、湯呑が転がっている。

「亡くなったのは、この家の主人、清水大五郎、六十六歳。死因は、ビピリジニウム系の農薬による中毒死と見られています」
「パラコートか」
「はい。ご家族によりますと、家の裏手にある納屋の棚に、置いてあったとのことです」
「最近使っていたのか?」
「いえ、孫が生まれてからは、危ないので使っていないということでした」
「ふん」
「このあたりはもともと蚕の飼育が盛んだったらしく、清水家もその蚕飼育で財を成した家系だそうです。最近は、もう蚕はやらず、もっぱら農業を行っていたそうで、家の裏手の畑は全て清水家の土地だそうです」
「うむ」

 岩山田は厳しい眼差しで家屋と離れを眺めている。

「今日は、この家の長男、大輔の七回忌の法事だったそうで、マルガイを含め、七人の人物が家にいました。六人はこの家に住んでいる人物で、長女、梨寿は別居して出戻り中。その夫、哲夫は、横浜の家からこちらに来ていたようです」
「別居中なのに、法事には顔を出していたわけか」
「そのようですね。死体発見者がその梨寿ですので、そのあたりも含めて、話を聞きましょう」
「ああ」

 二人はそろって、清水家の人々がそろう客間へ向かった。


 客間では、四十代くらいの女が床に座り込んで泣いており、その背中を男がさすっていた。岩山田と鈴木が入ると、三十代くらいの女が、「お茶を」とつぶやいて立ち上がろうとするが、台所も鑑識が入っている。それに気付いたのか、女は座り直し、じっとしていた。その女にへばりつくように、少女が二人両脇から抱き付いている。

「今回の件を担当することになりました。岩山田と申します」
「鈴木です」
「まずは、お悔やみ申し上げます」

 そう言って岩山田は頭を下げた。

「主人の死因は何ですか?」

 気の強そうな、六十代くらいの女が声を張る。主人ということは、この女が清水寿美子か。鈴木は、上司にいたら嫌なタイプだなと思った。

「おそらく、農薬による中毒死です」

 岩山田が答える。

「納屋の棚にあったものですか?」
「今のところ、そう考えています。同じものかどうか、今調べているところです」
「そうですか。自殺……ということでしょうか。使わないなら、早く捨ててしまえば良かったわ」
「本当よ! そうじゃなければ、お父さんがあんなことにならずに済んだのに」

 座り込んで泣いていた女が叫ぶように言う。長女で第一発見者の梨寿のようだ。岩山田は梨寿のそばに座る。

「田中梨寿さんですね。申し訳ありませんが、もう一度、お父さんを発見したときの状況を話していただけますか?」

 涙をぬぐって、梨寿は岩山田に向かって正座をし直し、話し出した。

「発見したときって言われても……みんなでケーキを食べようってことになって、お父さんだけ一人で書斎にいたから、声をかけに行っただけです。扉の外から声をかけたんですけど返事がないので、開けて入りました。そしたら、いつもの座椅子に座った状態で、上半身だけこっちを向いて倒れていて、すごい顔をしていて、苦しそうな……。驚いて大きな声をあげました。こっちに向かって手を伸ばしていたので思わず握りました。温かかったので、息があるんだと思って、息がある、温かい! って叫んでいた気がします。私の声を聞いて集まってきた誰かが、救急車を呼びました」

「救急車を呼んだのは僕です」

 梨寿の背中を撫でていた男が言った。

「田中哲夫と言います。梨寿の夫です」
「どんな状況でしたか?」
「お義父さんを呼びに行った梨寿が、悲鳴をあげたので、驚いて駆けつけました。すると、部屋の中でお義父さんが倒れていて、梨寿が手を握っていました。何があった? と聞いても、『わからない、来たら倒れてた、でも温かいから息はある』と繰り返すので、自分の携帯電話から119番をしました」
「そのとき他の方は何を?」

 岩山田が寿美子と春子のほうに目をやる。

「私たちも、梨寿の悲鳴が聞こえたので、哲夫さんと一緒に駆けつけました。春子さんも、子供たちも、みな一緒にです。しかし、主人があまりにも苦しそうな形相をしていたので、子供たちに見せるものではないと思い、春子さんと一緒に、子供たちはすぐに客間に戻しました」

 気丈に答えている寿美子だが、唇が震えているのを岩山田は観察していた。一家の主を亡くした今、自分がしっかりしなければ、と踏ん張っているに違いない。

 そのとき、捜査員の一人が客間の入り口から岩山田を呼んだ。

「ちょっと失礼します」

 岩山田が席を立つ。鈴木は、客間に残され、四人の大人と二人の少女を順番に眺めた。気の強そうな寿美子。娘の梨寿は、今は父親の死を発見したショックが大きそうだ。その夫の哲夫は、いかにもダメ男という雰囲気が漂っている。しかし、性根は優しそうな憎めないタイプにも見える。嫁の春子は、美人だが幸が薄そうな印象だ。その春子にへばりついている少女たちは、双子らしいが、本当にそっくりで見分けがつかない。

 岩山田が戻ってくる。

「みなさんに報告することができました」

 客間に一瞬、静かな緊張が走る。

「大五郎さんは、何者かに殺害された可能性が高いことがわかりました」

「えっ」「そんな」「っ!」

 みな一様に驚きを見せる。岩山田は、一人ずつをじっと観察していた。もともと殺人の可能性が高いことはわかっていた。現場から、毒を入れてあった容器が発見されていないからである。農薬のプラスチックボトルは納屋に戻してあり、現場である書斎では、本人が使っていたと思われる湯呑からのみ、毒が検出された。そのため、当初から自殺にしては不明な点が多いと思われていた。そうでなければ、捜査一課の岩山田と鈴木が呼ばれることはない。しかし、確証がなかったため、家族には伝えていなかった。そして今、台所のシンクに入っている湯呑から、少量ではあるが同じ成分の毒が発見されたことにより、自殺ではなく殺人として捜査されることが決定したのだ。つまり、この部屋にいる人物たちが、ただの遺族から、容疑者に変わった瞬間である。

「こ、殺されたって、どういうことですか?」

 寿美子が声を震わせながら言った。

「主人は、自殺じゃないんですか?」
「どうして自殺だと思ったのですか?」

 岩山田は、静かに聞く。

「え、だって、どうしてって、はずみで毒を飲んでしまうことなんてないし、一人で書斎で毒で亡くなったなら、自殺と思うのが普通じゃありませんか」

 気丈に振る舞っていた寿美子も、さすがに動揺を隠せない様子であった。それは、客間にいたみなが同じらしく、梨寿は「怖い……」と哲夫に寄り添い、春子は両脇に双子の娘を抱きかかえて不安そうな顔をしていた。母親に抱かれた双子の姉妹だけが、状況を飲み込めていないのか、そっくりな顔でじっと岩山田を見つめていた。

「そこで、お一人ずつ、大五郎さんが書斎に行ってからの行動を細かくお聞きしたいのですが、よろしいですか?」

「アリバイ調べってことですか?」

 寿美子が、もはや弱々しさすら感じる声で言った。

「形式的なものだと思って下さい」

 岩山田はそう言ったものの、これが事実上、容疑者たちへの事情聴取であることに、かわりはなかった。


事情聴取



「どなたからでも結構ですが」

 岩山田が声をかけると、寿美子が「では、私が」と言って立ち上がった。

 事情聴取は、客間の隣の部屋で行われた。客間の隣は、六畳ほどの和室で、客間とは襖で仕切られている。大きな声で話せば隣へ聞こえるだろうが、容疑者たちが口裏を合わせるとしたら、もうとっくに済ませているだろうから、聞こえてしまっても構わないと岩山田は思っていた。その部屋には、箪笥と古めかしい鏡台があった。客間に別の捜査員を残し、岩山田と鈴木で事情聴取を行う。

「散らかっている部屋でごめんなさい。私の、趣味の部屋なんです」

 寿美子が話す。

「趣味というと?」
生絹きぎぬです」
「きぎぬ?」

 そう聞き返したのは鈴木だ。

「はい。このあたりは、蚕産業が有名だった土地で、その名残で呉服店がけっこうあるんです。生絹とは、シルクで作った着物のことです」

 そう言って、箪笥を手で指した。

「たいそうなものはありませんが、たしなむ程度に楽しんでおります」

 そしてふっと息を吐いて下を向いた。

「刑事さん、主人が殺されたのは、間違いないのですか?」
「はい。奥様もご自分で仰ったように、事故で毒を飲んでしまう状況ではなかったと言えますし、自殺にしても不自然な点が多いのです」
「そうですか。行きずりの殺人ってことはありませんか?」
「書斎に金目のものはありましたか?」

 岩山田が、質問に質問で返す。寿美子は少し間を置いてから、ゆっくり首を振った。

「ありません。骨董の本はたくさん置いていましたけれど、主人は写真を眺めるだけで、骨董品を買うまではのめり込んでいなかったのです。高価なものなど、何も置いていませんでした」
「そうですか」

 寿美子は、客間を出てからなお一層憔悴しているように見えた。家族の手前、気を張っていたのかもしれない。

「では、今日の集まりの様子から、教えて下さい」

 岩山田と寿美子は向かい合って座布団に座り、鈴木は岩山田の隣でメモをとる。

「今日は、息子、大輔の七回忌でした。大輔は三十一歳という若さで、春子さんと絹と綿を残して他界しました。不運な交通事故でした。大輔のお友達の運転する車に乗っていたのです。そのお友達が事故を起こし、お友達も亡くなりました。春子さん一人で、生まれたばかりの双子を育てるのは大変だろうということで、大輔は亡くなりましたけれど、春子さんと絹と綿は、六年間ずっと一緒に暮らしています。今日は七回忌でしたが、僧侶を呼んだりはせず、家族だけで集まって、食事をしただけです。それは主人が決めたことです。仰々しいことをしなくても、本当に近しい家族だけでやればいい、と言っていました。私も賛成でしたし、春子さんも、家族だけでやりたい、と言ってくれましたので、そうなりました」
「では、今日は、今いらっしゃる方以外、この家には出入りしていないんですね?」
「はい。お寿司を届けてくださった出前の方だけです」
「わかりました。続けてください」
「はい。娘の梨寿が哲夫さんと別居していて、一週間ほど前から帰ってきていました。お恥ずかしい話ですが、あの夫婦は、いつもそうやって喧嘩をしては梨寿が家出をして、しばらくすると哲夫さんが謝りに来て戻っていく、そんな夫婦なのです。まあ、喧嘩するほど仲が良いとまでは言いませんが、それが二人の良いガス抜きになって、それなりに仲良くしているのだと思っています」
「夫婦にはいろいろな形があります」

 岩山田の相槌に寿美子は、少し寂しそうに微笑して頷く。

「今日は、午前十一時頃に哲夫さんが来て、みなさんで食べましょう、とケーキを買ってきてくれました。それを絹と綿が大喜びして、主人も嬉しそうにしていました。それから、十一時半くらいに出前していたお寿司が届いて、みんなで食べました」
「食事中、何か変わったことはありましたか? いつもと違うようなことは」

 寿美子は少し黙ったあとに「いいえ」と言った。

「特に、何もありませんでした。私たちはみんなでお寿司をいただいて、楽しく話しておりました。大輔を偲ぶというより、談笑しながら食事をしていた感じです。主人が湿っぽいことは嫌っていましたから、楽しく食事をしていたほうが大輔も喜ぶだろう、と。みんな同じ思いだったと思います」

 故人を偲びながらも、残された家族は前向きに生きていた。そのような印象を寿美子は与えたい様子であった。

「お寿司をおおかた食べ終えて、みんなお腹いっぱいになった頃に、春子さんがお茶を淹れてくれて……お勝手のことはほとんど春子さんがやってくれているので。それで主人もそのお茶を受け取って、煙草を吸う目的で書斎に立ったんです」
「それは何時頃かわかりますか?」
「えっと……一時より少し前だったと思います」
「ご主人はどうして書斎で煙草を?」
「あ、それは、主人はヘビースモーカーなんですが、孫が生まれてから、子供に煙草の煙が良くない、と言って、子供たちの前で煙草を吸うことをしなくなったんです。それで、書斎を喫煙所代わりにしていました」
「そのことを知っているのは?」
「家族なら全員知っています」
「そうですか。お茶を淹れて渡したのは、春子さんですね?」
「え、ええ。そうです。あ、でも、お茶を淹れたのは春子さんですけれど、それをお盆から選んで取ったのは、主人でした」
「確かですか?」
「はい。春子さんがいくつも湯呑の乗ったお盆を持って客間に来て、そのお盆から主人が自分でお茶を選びました」
「ご主人だけが使う専用の湯呑があるということは?」
「ありません。全部、お揃いの湯呑です」
「そのとき、お盆に乗っていた他のお茶は?」
「私や梨寿や春子さんで飲みました。哲夫さんは、そのとき庭に出て煙草を吸っていたような気がします」
「庭ですか」
「はい。哲夫さんも子供たちの前では煙草は控えてくれていて、煙草を吸うときはだいたい庭に出ます」
「そのとき哲夫さんがどこかへ行っていたということは?」
「ありません。見ていただいたらわかる通り、客間から庭は完全に見通せますし、煙草を一本吸って戻ってきただけです。ほんの数分です。あ、やっぱり主人が書斎に行ったのは、一時の数分前ですね。哲夫さんが煙草を吸い終えて客間に戻ったときに、ちょうど一時だったのを覚えています」
「どうして明確に時間を覚えてらっしゃるんですか?」
「それは、哲夫さんが持ってきてくれたケーキを、子供たちと三時に食べようと約束していたのです。子供たちはお寿司を食べているときからケーキを食べたがって、三時まで我慢しましょうって話していたんです。それで、子供たちが『ケーキまでどのくらい?』と何度も聞いていたので、覚えています」
「そうですか。わかりました。そのあとは?」
「ケーキが食べられる時間までまだ二時間あるということで、哲夫さんが子供たちにゲームをしようと言って、哲夫さんと子供たちと、梨寿と春子さんで人生ゲームをやっていました。私は参加せずに見ていただけですが、みんな楽しそうにやっていました」
「その間、誰かは席を外したことは?」
「私と春子さんが一度トイレに行きましたが、ほんの数分で戻りました」
「わかりました。ゲームのあとは?」
「えっと、ゲームを終えて、その時点で二時くらいでした。子供たちはもうゲームは満足したらしく、私と梨寿と春子さんはテレビを見て、哲夫さんは何か自分で持ってらした雑誌を見ていました。子供たちは、廊下を走り回って遊んでいて、そんなことをしているうちに三時になりました」
「そして、大五郎さんに声をかけに梨寿さんが書斎へ向かった」
「はい。その通りです」
「わかりました。では、今日に限らず、最近変わったことはありませんでしたか? 不審な人物を見かけた、とか」

 寿美子は少し考えたあと「いいえ」と言った。

「このあたりは地主が多くて、ご近所も古い付き合いです。だから、見かけない人がいたらわりと目立つと思うんですけど、そんな人はいませんでしたね」

 話しているうちに落ち着きを取り戻したのか、寿美子の口調はしっかりしたものへ変わっていた。

「あ、でも……」
「でも?」
「三日前くらいでしたか。納屋の近くで、バケツに入ったカエルが数匹死んでいたんです。気持ち悪いと思って、納屋の裏のあたりに放って捨てましたが、今思えば、今までそんなことはありませんでしたから、ちょっと不気味ですね」

 岩山田は無表情のまま「そうですか」と言った。

 

 岩山田が寿美子とともに客間に戻ると、ペットボトルの飲み物を、みな紙コップを使って飲んでいるところだった。台所のものは使えないため、捜査員の誰かが差し入れたのだろう。


 その後、梨寿、哲夫、春子、と順番に話を聞いたが、寿美子の供述と食い違いはなく、みながおおむね同じことを話した。話している内容に矛盾は見当たらず、それは全員のアリバイを認めることでもあった。

 勝手口から出て、家の裏手にある納屋まで行って、農薬を湯呑に入れて運び書斎の大五郎の湯呑に入れて、勝手口から戻って台所で湯呑を軽くすすぐ。どんなに急いだとしても、五分では難しい。勝手口の近くに農薬をあらかじめ置いておいたとしても、農薬のボトルは納屋の棚に戻してあったため、どちらにせよ納屋までは行かなければならない。勝手口に、農薬を入れた湯呑を準備しておいたら? いや、それは大五郎や春子に発見される可能性が高い。

 岩山田は、客間の隣の和室で、座って腕を組んでいた。じっと考え込んだあと、おもむろに鏡台の横にある小さなゴミ箱を見た。

「敬二……この事件、想像以上に嫌な終わり方をするかもしれん。覚悟してくれ」

 ぼそっと話す岩山田の言葉を、鈴木は眉根を寄せて聞いた。鈴木は、岩山田の刑事としての眼を信じているからこそ、それは嫌な予言のようであった。


パートナー



 岩山田と鈴木は客間に戻る。全員のアリバイが確認されたことで、寿美子は持ち前の気丈さを取り戻していた。

「刑事さん、やっぱり強盗のような、行きずりの犯行だったんじゃありませんか? だって、これだけみんな揃ってアリバイがあって、どうやって主人を殺したりできるんですの?」

 岩山田は少し視線を動かしてから

「人生ゲームを始めてからケーキを食べようとするまで、その約二時間の間、本当に誰も五分以上客間を出ていないのですか?」
「だからー」

 いい加減にしてくれ、と言いたげに哲夫が言った。

「人生ゲームは全員で囲んでやっていたんです。ゲームのあとだったら、僕はここでスロットの雑誌を読んでいました。お義母さんも春子さんも梨寿もずっと一緒にいました。絹ちゃんと綿ちゃんが廊下を走り回っていて、交代で僕のところに来ては時間を尋ねるものだから、よく覚えていますって」

 哲夫がそう言った瞬間、春子が手にしていた空の紙コップを滑らせて落とした。すとんと畳の上に転がった紙コップは、半円を描きながら、揺れている。

「大丈夫ですか?」

 岩山田が声をかける。

「あ、はい。すみません」

 春子は、目の焦点が合っていないように見えた。それから、ふと話し出した。

「あの……やはりお義父さんは、自殺だったのではないでしょうか」

 眉をぎゅっと寄せて苦しそうに話す春子の言葉を、岩山田は静かに聞く。

「どうしてそう思いますか?」
「だって、ここにいる全員にアリバイがあって、お義父さんはお一人で亡くなってらっしゃいました。まさか、刑事さん、全員が共犯だなんて、仰いませんよね」
「全員が共犯だとすれば、全員が嘘をついていることになります」
「そんなまさか!」

 声を荒げたのは寿美子だ。

「そんなはずがないでしょう」
「ええ、全員共犯、というのは、私も無理があると思っています」

 岩山田の冷静な返事に、寿美子はふんっと鼻を鳴らす。

「大五郎さんが自殺する動機は、何か思い当りますか?」
「その……最近、物忘れがあると、気に病んでいらっしゃいましたから」

 春子は、黒いワンピースの裾をぎゅっと握りながら、一言一言慎重に言葉を選んでいるように見えた。

「他の方から見て、大五郎さんの自殺の動機に思い当る方はいますか?」
「そういわれてみれば、物忘れのことは気にしていましたけれど」

 寿美子が言う。

「だからって、自殺しそうに見えたかと聞かれると、そうは見えませんでしたけど」
「でも、自殺する方が、全員自殺しそうにみえるとしたら、自殺なんて起こらないと思いませんか?」

 春子が寿美子に意見するのが珍しいのか、寿美子は一瞬虚を突かれた顔をした。

「まあ、そう言われてしまえば、そうなのかもしれないけれど」

 静かになった客間の、沈黙を破ったのは岩山田だった。

「二時から三時の間、絹ちゃんと綿ちゃんを、二人同時に見た人はいますか?」

 春子が青ざめた。それ以外の人々は、どういう意図の質問か理解できずにいた。

「刑事さん、どういう意味っすか? さっきも言った通り、絹ちゃんと綿ちゃんは、交代で僕のところに走ってきていたんすよ。それも、二~三分置きに。そっくりだからって、見間違えたりしませんよ。はじめましての刑事さんには同じ顔に見えるかもしれませんけど、絹ちゃんの左頬を見てください。小さなホクロがあるでしょ? それに今日は綿ちゃんが黄色いカチューシャをしている。さすがに、見分けつきますよ。二~三分置きに二人が交互に現れたんだ。二人同時に見たのと変わらない」

 哲夫は敬語が崩れてきている。もともとあまり形式ばったやりとりは苦手なのだろう。

「では、二人同時には見ていない、ということですね」
「まあ、そうだけど、同時に見たようなもんっすよ」

 哲夫がふてくされている。春子は、無言のまま双子を両腕で抱きかかえていた。

「春子さん、何かお気づきのことがおありですか?」

 岩山田が、丁寧に声をかける。

「何も、ありません」

 下を向いたまま答える春子。

 岩山田は確信を持った。春子はわかっている。気付いている。そして、それを隠している。寿美子も梨寿も、岩山田が何のことを言っているのかわかっていない様子だった。春子の表情が固い理由も、双子が春子にしがみついている理由も。

 岩山田が、春子のそばに寄る。

「絹ちゃん、綿ちゃん、おじさんと一緒にあっちの部屋に来てもらってもいい?」

 双子は体をびくっとさせて驚いた。春子が腕に力をこめて娘たちを抱きしめる。

「関係ありません。娘たちは関係ないでしょう!」

 静かだが攻撃的な物言いに、寿美子はじめ、家族たちが驚く。

「春子さん、何をそんな言い方して。刑事さん、絹と綿には関係ないんじゃありませんか?」

 寿美子が戸惑いの声を出す。岩山田はそれを無視する。

「絹ちゃん、綿ちゃん、おじさんとお母さんと一緒に、ちょっとあっちの部屋に行こう。見てほしいものがあるんだ」

 双子は春子の顔をのぞいた。

「大丈夫よ」

 春子は優しく双子にそう言って、手をつないで立ち上がった。岩山田をにらみつけるようにして「娘たちに何を見せる気ですか」と春子が言う。

「ちょっと説明してもらいたいだけです」

 そう言って、岩山田は客間の隣の部屋へ行った。あとを追う春子と双子。そして、他の家族たち。

「絹ちゃん、綿ちゃん、ちょっとこれ、見てくれる?」

 岩山田が指したのは、鏡台の横にある小さなゴミ箱だった。そこには、丸めたティッシュが何枚か捨ててある。それを見た途端、綿が「あ!」と言った。

「綿ちゃん、これ何か知ってるの?」

 岩山田は優しい声で聞いた。

「綿、言っちゃだめだよ、しー!」

 絹が綿の口を手でふさぐ。春子が「ああ……」と息をもらし、両手で顔を覆って下を向いた。岩山田にじっと見つめられた綿は、じんわりと涙を浮かべ始めた。

「綿、泣いちゃだめ」

 絹が綿を叱る。それを聞いて綿は、「だって、だって」と言いながら、しまいにはヒックヒックと声をつまらせて泣き出した。

「ちょっと、どういうことですか! 刑事さん! 子供を泣かせたりして!」

 寿美子が大きな声を出す。

「春子さんも、何とか言ったらどうなの!」

 寿美子に声を荒げられ、春子は顔を覆っていた手をはずし、しゃがんで絹と綿の二人を優しく抱きしめた。

「ごめんね。お母さんが悪かった」

 それを聞いて、絹も綿も、一緒に泣き出した。

「違う! 違うもん! 悪いのは、おじいちゃんだもん! おじいちゃんがお母さんをいじめるから、いつもいじめてるから、仕返ししたんだもん!」

 絹が泣きながら、大きな声で死者を罵倒した。


 鏡台の横にあるゴミ箱に入っていたのは、寿美子の使っているアイブロウペンシルを拭き取ったティッシュだった。その意味を、春子は瞬時に理解した。いや、双子の娘たちが交互に現れていたときから、その両方が綿一人であったことを、母親はわかっていたのかもしれない。そのときは、綿がカチューシャをはずし頬にホクロを描くことで絹になりすまし、哲夫をだまして遊んでいるだけだと思った。でも、大人全員にアリバイがあり、双子がなりすましていたことを考えると、導き出される答えは一つしかなかった。

 事態を理解していない家族を客間に戻し、春子と双子だけを部屋に残す。

「どうして、おじいちゃんに仕返ししたのか、教えてくれる?」

 岩山田は、ようやく泣き止んだ双子に優しく聞いた。

「お母さんが、おじいちゃんの書斎で嫌なことされてるの知ってたから」

 絹がぶすっと答える。

「お母さん、泣いてるの見たことあるもん」

 綿も答える。

「二人で相談して決めたの?」
「そう。綿にホクロ描けば、絹とそっくりだから」

 絹が答える。

「カエルで練習して?」

 岩山田が聞くと、そこまでバレているのか、といった感じで、二人は渋々頷いた。警察が大勢やってきて、大人たちが泣いたり大声を出したりしている中で、自分たちがやってしまったことの重大性を感じ取っていたのかもしれない。

 岩山田は、双子を客間とも別の部屋へ行かせ、婦人警官と一緒に過ごさせた。家族たちに質問攻めにされないためだ。否応なく、今後二人には過酷な環境が待ち受けている。せめて今だけでも、静かに過ごさせてやりたかった。


「春子さん、大五郎さんとの間に何が?」

 部屋に残された春子に、岩山田は聞いた。春子は唇を噛み、痛みに耐えるような顔をした。そして、小さな声で話し出した。

「お義父さんに……その……無理に関係を迫られていました」
「いつからですか?」
「主人が、亡くなってすぐからです」

 それをあの少女たちが見ていたと考えると、鈴木は胸糞悪い気持ちがした。

「どうして家を出なかったのですか? 経済的な問題ですか?」

 岩山田の質問に、春子は言い淀んだ。

「何か、弱みを握られていましたか?」

 静かに言う岩山田の顔を、そっと見上げる春子。

「娘たちの……絹と綿の父親は、主人ではありません」

 鈴木は驚いた。岩山田は、すっと目を細め「どんな事情ですか?」と聞く。

「主人と結婚する直前まで付き合っていた男性の子供です。私は、愛していた男性より、目の前の生活の安定を選んだのです。妊娠していることを薄々感じていたにも関わらず。私がそんなことさえしなければ……」
「大五郎さんはなぜそのことを知っているんですか?」
「主人が六年前、交通事故で亡くなったとき、運転していたのが、私の元恋人です。主人は、私の元恋人に呼び出されたようでした。そして、事実を知ったようです。元恋人は、絹と綿との親子関係を証明する書類を持っていたようです。どうやって娘たちの何かを手にいれたのか不思議でしたが、決定的な証拠があるようでした」
「どうしてそんなに詳細なことがわかるのですか? その人も、事故で亡くなったんですよね?」
「事故のあと、主人の携帯電話から録音されていたボイスメモが見つかったんです。義父はそれを警察に渡さず、私への脅しに使いました。それに……元恋人の話はそれで終わりじゃありませんでした」

 春子は唾を飲んでから、青い顔で言った。

「元恋人はこう言いました。『春子や子供たちを返さないとお前を殺す』と」

 岩山田も、さすがに眉間に皺を寄せた。

「では、六年前の事故は、あなたの元恋人が故意に起こしたものだと?」
「義父はそう言いました。そして『君の娘たちの本当の父親が殺人犯だと知れたら、絹と綿の将来は、どうなると思うかね?』そう言って、私の体を求めました」

 春子は項垂れた。

「私が……私が悪いのです。はっきりと拒めば良かったのです。交通事故が故意だったかどうかなんて、わからないじゃないですか。実際、警察は事故と処理したのです。それを、私は、私は……娘たちを守りたかったばかりに……それがこんなことになるなんて」

 春子は両手で顔を覆った。すすり泣く涙が指の間を流れて落ちる。

 鈴木は、やはり最悪の結末だったな、と思った。岩山田は、何かに耐えるように、じっと春子を見つめるだけだった。

 蒸し暑く、残酷な夏が、終わった。

《おわり》

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