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掌編小説「役に立たない子宮、まだ触ってくれる人がいる乳房」

夫がソファでクラフトビールを飲みながらスマートフォンのメールチェックをしている。リモートワークになってからほとんど職場には行かず、自宅でパソコンかタブレットかスマートフォンに向かっている夫。

「出勤」「退勤」という概念が薄れたからか、夜まで仕事のメールのやり取りは増えた。

グラス片手に、今夜も仕事のメール中。

ビールは濃い土色で、香りも芳醇。もぎたての果実のようなフルーティーさとその後からスモーキーな香り。

私自身はアルコールをすっかり断ったが、最近夫がよく飲んでいるクラフトビールは、美味しそうな匂いだなと思う。



真面目な顔してスマートフォンを見ている夫にちょっかいを出す。

「ねえ、最近少し太ったから、おっぱい大きくなったと思わない?」

「ん」

スマートフォンから目を離さない夫。

「ねえ、ちょっと大きくなったよ、触ってみる?」

すると夫は片手をにょっと伸ばし、私のTシャツの首元から手を突っ込んで、片胸をがしっとわしづかみにした。

「ひゃっ」

まさか本当に触られると思ってなかった私はびっくり。

夫は、むんずむんずと片手で胸を2回揉むと、にやりと笑ってから手をひっこめてまたスマートフォンに向き直った。私はおもしろくなってケラケラと声をあげて笑った。

「ちょっと何触ってんのよー」

文句を言いながらも楽しくて、また笑った。



私たち夫婦には子供がいない。
私の子宮に病気があるからだ。
自然妊娠はしません。体外受精をしないと妊娠は不可能です。
病院でそういわれて、体外受精に挑戦した。

何回やっても妊娠しなかった。



「努力は必ず報われる。」
「成功するまで続ければ失敗はない。」
「神様は乗り越えられない試練は与えない。」
世の中は前向きな励ましで溢れている。


そんな言葉をバネにしてももう頑張れないのは、私が弱いからだ。
私は何もかもが嫌になっていた。

病院の張り詰めた雰囲気も、何日も連続で行う筋肉注射の痛みも、貼り薬の副作用も、まわりからの励ましの言葉も、親の期待も。何もかも嫌になるのは、私が弱いからだ。



いつまでもこんな私に夫を付き合わせるわけにはいかない。
夫の精子は健康なのだ。



私は不妊治療をやめたい、と夫に話すと同時に離婚を切り出した。

「あなたの体は健康だし、精子も問題ないし、まだ30代だし、今から再婚すれば父親になれるよ。私はもう疲れた。別れよう。」

夫は困ったような顔をしていた。

「本当に離婚したいの?」

「え?」

「俺は子供いなくてもいいって何回も言ってるじゃん。それでも、本当に離婚したいの?」


夫は、不妊治療を始めたときから「俺は子供いなくてもいい」と何回も言っていた。
それはただの慰めだと思っていた。


「本当に離婚したいなら、するよ。」


待って。

夫が真面目な顔をしている。冗談を言うときの顔じゃない。
私は人生の大きな選択を誤ろうとしている。

違う。違うでしょ?本当は何が言いたい?



「いやだ。したくない。離婚、したくないです。したくない。したくない。したくない。」

嘘です、離婚なんてしたくないです、本当はいつまでも一緒にいたいです、子供できなくてもあなたと一緒に暮らしていたいです、私の体のせいで父親になれなくてごめんなさい、でもいつまでも一緒にいてください、こんな私と一緒にいてください、いつも優しいあなたが大好きなんです、自分勝手でごめんなさい、離婚なんてしたくない、ずっと一緒にいたいです。

言葉にならない思いがこみ上げて子供のように号泣した。


「俺も離婚したくないよ。もう簡単に離婚とか言わないで。」

私はまだ泣いていた。



それから何年もたった。

今思えば、あの頃の私は心身ともに限界だった。
ほとんどノイローゼに近かった。

ストレスの最中にいるときは、案外気付かないもので、過ぎてみて初めて、あぁあれはきつかったな、と実感できた。体にも顕著に表れていたのだ。めまい、頭痛、不眠、倦怠感、不整脈、食欲不振、嘔吐、体重減少、意味のわからない体のしびれ、原因不明の眼球の痛み。何科に行っても、子宮以外病気はないと言われて、ただ頑張っていた日々。

無駄だったと思う。無駄な時間だった。お金も無駄になった。

でも、もしその無駄に意味があるとしたらそれは、無駄なことも愛せるようになったこと、だと思う。



女というのは何だろう。

動物のメスは、おそらく子孫を残していくことが仕事だろう。
では、人間の女はどうなんだろう。

子供をもたない自由。
子供をもてない事情。

私は人間の女だから、子供をもてない事情のもと、子供をもたない自由を選択して、無駄だったかもしれない時間を愛しながら、生きていっても許されるんじゃないかな。





夫はまだスマートフォンでメールをチェックしている。

「ねーねー、私最近太って、おっぱいがさー」

言うなり夫が手を伸ばしてくる。
私はすかさず自分の胸を手で覆いガードをかためる。
夫は私の手ごと胸を覆い、またむんずむんずと揉んでくる。

私は楽しくなってケラケラ笑う。夫はニヤニヤしながらメールに戻る。

「奥さんのおっぱい揉みながらメールしてます、って職場の人にバラしちゃおうかな。」

私が言うと夫がまた手をのばしてくる。

私は自分の胸をガードしながら楽しくて足をバタバタしながら笑った。







《おわり》

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