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小説:SISTER【46361文字】

センシティブな場面、暴力的な場面、フラッシュバックを想起させる表現があります。苦手な方はご注意ください。

一章 現在・沙湖さこ三十歳


 金木犀が満開で、風に溶けた香りが優しい秋。木漏れ日はチラチラと美しく反射し、何もかもが平和で穏やかな日。私は小さな洋食レストランにいる。
 結婚祝いのパーティをするには、いささか地味な、小さなレストランではあるけれど、落ち着いた雰囲気のお店で、美湖みこちゃんのセンスらしいな、と思う。個室は壁も床も木目調で、窓からは淡い採光。白いテーブルクロスの長テーブル(真ん中にピンクの薔薇をメインにした、卓上装花が飾られている)に向かい合って、両家合わせて七人。花嫁は私の姉、水島みずしま美湖。結婚するから、明日から桑田くわた美湖になる。妹の私、沙湖。私たち姉妹の叔父さんと叔母さん(忠司ただし叔父さんと由美子ゆみこ叔母さん)。美湖ちゃんの旦那さんになるひとしさん。仁さんの大学の恩師とその奥さん。身内だけのささやかな披露宴。
 美湖ちゃんは、白いチュニックに紺色のスラックス姿で、黒いストレートの髪は低い位置でシニヨンにまとめられている。いつもより少しだけ発色の良い口紅を塗っていて、普段の何倍も華やかであった。こんな晴れの日でもパンツスタイルの姉を見て胸に微痛を感じるが、そういう私も、青と水色がグラデーションになった派手なブラウスに黒のスラックス。
 私たち姉妹は、スカートを履かない。

 飲み物が運ばれてきて、仁さんの恩師という人が乾杯の挨拶をするために立ち上がった。背が低く小太りで丸眼鏡の、どこか胡散臭い風貌であったが、歴史学の有名な先生らしい。
「ええ、ご紹介にあずかりました、仁くんの大学時代の教員をしておりました、平野ひらのと申します」
 平野先生は、顔の汗を拭きながら上ずりそうな声で話し始めた。緊張しているようだ。
「先生、堅苦しいです」
 仁さんがコソっと声をかけると、参列者はみんなクスクス笑った。平野先生は、また顔の汗を拭いて、おほんと一つ咳払いをして続ける。
「はなはだ僭越ではございますが、乾杯の音頭をとらせていただきます。仁くん、美湖さん、本日は誠におめでとうございます。仁くんは、大学時代、非常に優秀な学生でありまして、真面目で実直な性格の、好青年でございます。ええ、専攻は歴史学と申しまして、主に日本史の戦国時代の……」
「あなた、長いですよ」
 平野先生の奥さんがコソっと耳打ちするから、またみんなでクスクス笑う。クスクスと笑いたくなるような空気なのだ。みんなの体が嬉しい気持ちで膨らんで、それが漏れ出てしまうような、そんな集まりだった。
「あぁ、そうだね。それでは、乾杯のご唱和をお願いいたします。お二人の前途とますますの繁栄をお祈りしまして、乾杯!」
「乾杯」
 口々に言い合って、みんながグラスを目の高さまで掲げる。私が口にしたジンジャーエールは、生姜の辛味の効いたスパイシーな喉越しだった。小さな店ながら、料理や飲み物に拘っていることがわかる。美湖ちゃんは微アルコールのシャンパンを飲んでいる。静かに微笑みながらグラスを傾ける姉の、美しい横顔。あぁ、今日の美湖ちゃんは特別にきれいだな。私は姉の花嫁姿を見るだけで、指先までふかふかと血液が満ちるのを感じた。私にとって、唯一の姉。世界で一人だけの、大好きな姉。
 美湖ちゃんの旦那さんになる仁さんという人は、第一印象と変わらず、優しくて誠実そうで控えめな人だった。白いシャツに薄水色のネクタイ、薄グレーのジャケットで、全体的にぼやっとした色の服装は、仁さんのおっとりした優しさを表しているようでもあった。
 平野先生は、シャンパンを少し口にしたらすっかり緊張がほどけたのか、とたんに機嫌が良く、饒舌になった。平野先生は日本史の戦国時代が専門らしく、仁さんも歴史学の専門家だ。仁さんは、今は学芸員として歴史博物館で働いている。
「仁くんは本当に優しいし、優秀で、真面目で、素晴らしい男性だよ」
 平野先生は仁さんの自慢ばかりしていた。それを横で微笑んで聞いている先生の奥さん。照れた顔で謙遜する仁さん。とても微笑ましく、優しい光景であった。
 先生の奥さんは、穏やかで優しいきれいな人だ。学者肌の夫を一歩引いて支えるような、内助の功というのはこういう人のことを指すのかな、と思ったりした。
 食事が運ばれてきて、それらはどれも見栄えも美しく、とても美味だった。丁寧に焼いたパン、芳醇な香りのスープ、彩り豊かなサラダ、そして柔らかいお肉。どれも美味しくて、私はゆっくり味わった。美味しさを噛みしめながら、私は右手でそっと自分の左肩を撫でる。
 みんな食事に満足し、それが新郎新婦にも伝わり、二人も喜んでいるように見えた。
 普段は無口なタイプの叔父さんが、今日は珍しく饒舌であった。
「美湖は子供の頃から本当にしっかりしていて、勉強もできるし、歌もうまいんですよ。真面目なのは仁さんと同じですね。価値観が似ているから、うまくいったのかもしれないですね」
「そうね、美湖は本当にしっかりした子。今まで良いお相手が見つからなかったのは、仁さんと出会うためだったのね。それにしても、今日の美湖はいつもに増して一段ときれいよ、本当にかわいいわ」
 叔母さんも負けじと美湖ちゃんを褒める。白髪を染めたショートカットにパールのイヤリングが揺れる。淡いピンクのツイードのセットアップが、子供の頃に授業参観に来てくれた叔母さんを思い起こさせ、懐かしい気持ちになった。
 由美子叔母さんは、私たち姉妹の実母の妹で、叔父さんと叔母さんは私たち姉妹の育ての親だ。私たちの両親がそろって交通事故で他界し、当時六歳と二歳の私たちを引き取って育ててくれた。
 だから、叔父さんも叔母さんも、娘の結婚式の親の顔そのものだ。少し無口だけれど、人一倍私たちを心配してくれた忠司叔父さん。優しくて気丈な由美子叔母さん。私たちの母が他界したとき、叔母さん自身が実の姉を亡くしたばかりだということを、自分が大人になってから理解すると、当時どれほど大変だったか、想像を絶する。
 北海道にいる叔父さんの母親が骨折して、介護が必要になったのをきっかけに、北海道に引っ越した叔父さんと叔母さん。今は、実家の牧場を継いで仕事をしている。叔父さんも叔母さんも、私たち姉妹を本当の家族として迎えてくれた。そうじゃなかったら、少なくとも今の私も姉も、いないだろう。
 仁さんのご両親は仁さんが子供のときと、大学の在学中にそれぞれ他界したそうで、大学時代の恩師である平野先生が、大学をやめて働こうとしていた仁さんを説得し、奨学金の手配や、さまざまな手続きを手伝ってくれたらしい。だから、大人になっても親代わりなのだそうだ。そんな仁さんだからこそ余計に、姉のことを理解してくれたのかもしれない。
 叔母さんも叔父さんも、こぞって美湖ちゃんを褒めちぎり、平野先生と叔父さんと叔母さんで、親バカ対決みたいになっていた。美湖ちゃんと仁さんが照れるように笑う。
 私はそんなやりとりを眺めながら、自分がこんな空間にいることに微かな驚きを覚えていた。私は、自分は幸せになる資格のない人間だと思っている。だから、こんな場所にいることが、ふいに奇異に感じられたのだ。ここは、生温かくて柔らかい寒天のようなものに、とっぷりと閉じ込められている。とても居心地が良い。このまま体ごと飲みこまれてしまいそうで、これが幸せという気持ちなのか、と幸福の概念を実感した気がした。
「お写真とりましょうか?」
 食事が一段落したところで店員が声をかけてくれる。
「ありがとうございます」
 美湖ちゃんがスマートフォンを店員に渡し、参列者は席を立ち、壁際に並ぶ。窓からの柔らかい日差しが私たちを温めて、幸せは余計に膨らんでいくようだった。新郎新婦を真ん中にして、みんなが笑顔。店員は何枚か写真をとり、美湖ちゃんにスマートフォンを返す。
「いやあ、本当にめでたいですな」
 平野先生が言う。
「本当によき日です」
 叔母さんがしみじみ微笑む。
「美湖ちゃん、おめでとう」
 私は姉にそっと歩み寄って、声をかけた。
「さあちゃん……ありがとう」
 私は姉の手をとり、しっかりと握った。絶対に離さないと決めていた姉の手。私が何を犠牲にしても一緒にいると決めた姉の手。大好きな姉の手。ようやく、仁さんに託すことができるのかもしれない。手を取り合って目を合わせると、美湖ちゃんの目の縁が赤くなり始め、すーっと一筋涙を流した。姉が人前で泣くことなんて、見たことがなかった。
「ちょっと美湖ちゃん、泣かなくたって……」
 私は笑った。美湖ちゃんが幸せだから泣いているんだと、わかったから笑った。
「だって、さあちゃんが泣いてるから」
 そう言われて初めて私は、自分が泣いていることに気付いたのだ。
「やだ、本当だ。私、泣いてるじゃん」
 二人で手を取りながら、笑って、泣いた。涙がいっぱい出たけれど、それは今まで私が、そしてたぶん美湖ちゃんが、人知れず流した涙とは、違うものだった。
 姉が幸せになることで私の重りは少しだけ軽くなる。逆もそうだ。私が幸せになることで、姉の重りは少しだけ軽くなる。私たち姉妹は、自分たちをがんじがらめにしている重い鎖を、少しずつ、慎重に、丁寧に、恐る恐るはずしていく。そうやって、あれから二十年生きてきた。そしてこれからも、そうするより、他ない。

「お姉さん、きれいやった?」
 家に帰ると、ルームメイトの千波ちなみが自分の部屋からリビングに出てきた。千波は、長い髪にチリチリのパーマをかけ、ライオンのような髪型をトレードマークにしている。今はそのライオンヘアを頭の上で大きなお団子にまとめ、ラスタカラーのバンダナを巻いている。パーカーは色とりどりの葉っぱ柄。今日のテーマはレゲェなのかもしれない。
「うん、きれいだったよ」
 私はお土産のチーズを千波に渡した。引き出物類を片付けて、手を洗って着替えて、床に敷いた座椅子に座る。思わず、はぁーと息をはいた。
 幸福の余韻が大きい。幸福酔いとでもいうのだろうか。自分の人生の中で、一番幸せな場面に立ち会った私は、途方もなく疲れている気がした。いや、疲労というより、達成感だ。私は人生で成し遂げなければならなかったことを、やり遂げた気がした。その達成感からくる、喪失感か、やはり疲労感か。ともかく、大きなイベントが終わった。祭りの後の寂しさに近いのかもしれない。もしくは姉ロスか? その可能性もあるな、と思った。私の人生はいつだって、姉と二人で一つだったのだから。
 千波は床に座って、ビール片手にさっそくチーズをつまんでいた。私も一つ口に入れる。濃厚でとても美味しい。何チーズというのだろう。種類を聞くのを忘れてしまった。とりあえず美味しい。ねっとりしていて、独特な香りが鼻を抜ける。
 私は煙草を咥えて火をつける。深く吸うとメンソールが鼻から抜けて、私は情緒の落ち着きを取り戻す。煙草は、私の肺を十六歳のときから少しずつ少しずつ青藍に染めてきた。私にとって煙は、空の色だ。私の目に映る空は、いつでも澄んでおらず、私の指ごしに立ち上る煙の色そのものだ。青藍と鈍色の混沌とした空。怯えと恐怖と罪の色。
 千波は片膝を立ててビールを飲んでいる。ビールとチーズは合うのだろうか。アルコールを飲まない私にはわからない。では、煙草とチーズは合うのか? と聞かれても、やはり私にはわからない。
「写真少し撮ったけど、見る?」
「見る見る」
 私はスマートフォンで撮影した写真を数枚、千波に見せる。小さな画面に収まる笑顔。
「おー、お姉さん美人やね。沙湖とそっくりじゃん」
 やね、とか、じゃん、とか、千波はいろんな地域の言葉がごちゃまぜだ。徳島生まれ、大阪育ち、大人になってから横浜で、今は東京、という環境のせいだ、と本人は言う。変な大阪弁を使って大阪の人に嫌がられるのだが「バイリンガルやねん」と言って笑っている。
「似てるかな。あんまり言われたことないけど」
「雰囲気は違うけど、顔は似てるよ」
「そうかもね」
 美湖ちゃんはどの写真でも、ひっそりと静かに微笑んでいた。これが花嫁の笑顔か、と言われたら一般的にはあまり幸せそうに見えないかもしれない。でも、美湖ちゃんを知っている人が見たら、こんなに笑う美湖ちゃんは見たことがない、と驚くだろう。そのくらい披露宴の姉は楽しそうであったし、そのくらい普段の姉は感情を外に出さない、おとなしい人なのだ。
「沙湖のブラウスかわいいね、似合ってる」
 千波がスマートフォンの画面をスライドさせて写真を見ている。
「ありがとう。主役の美湖ちゃんより目立っちゃった」
 私のブラウスは、襟のデザインが立体的なもので、美湖ちゃんの白いチュニックより断然インパクトがあった。肩の上あたりで切りそろえてある髪はインナーカラーで赤を入れている。だから主役の美湖ちゃんより数段カラフルで、数段派手なのだけれど、美湖ちゃんの隣で笑っている私の顔はやはり姉を祝福する妹の顔そのもので、いくつになっても姉と一緒にいると自然に子供のような気持ちになるのだ。
「沙湖は結婚願望ないの?」
 スマートフォンを私に返して千波が聞くから「ないね」と即答しながら煙草をもみ消して、二本目に火をつける。煙を深く吸い込んで、ゆっくり吐き出す。煙草から立ち上る煙は青白く見えるのに、私の呼気から吐き出される煙は灰色に見える。私の肺で青を濾過し、私の中の灰色を吸着させて排出される煙。煙草は体に悪いと聞くけれど、私の場合は私の中の灰色を外に出してくれる優秀な存在なのだ。その分私の肺は、今頃真っ青に染まっていることだろう。
 ニコチンで、すーっと末端の血管が収縮するのを感じながら思う。姉のケースがレアなのだ。私も、三十歳を過ぎて彼氏はいないが、真面目でおとなしく控えめな、信用金庫勤務の姉と違って、奇抜な服装で髪をピンクにしたり赤にしたりしている私に、叔母さんは結婚を勧めたことはない。好きなことを仕事にして楽しんでいる、と思ってもらえているのだろう。
 私は、男性を好きになれない。男性を好きになれないのなら、いっそレズビアンに生まれた方が良かったな、とふと思ってしまってから、これはずいぶんと同性愛の人への偏見に満ちた考えだな、と反省する。男を愛せないから女。同性愛の人がそんな風に愛し合っているわけじゃないことなんて、当たり前のことなのに。私は、同性も異性も好きになれない。私が知っているのは、家族の愛だけだ。それだけ知っていれば、私が生きてくるには充分だった。
「千波は結婚しないの?」
「どうやろ。わかんない。うちらもう三十でしょ? でもさ、なんか、若いときに思ってた三十じゃないんだよね、まだ」
「あ、それわかる。もっと大人だと思ってたよね、三十って」
「そうそう。もっと大人で、もっと責任も持てて、もっとしっかりしてると思ってたんだよ。けど、自分はどう? って思うと、結婚するなんて考えられないくらい、子供なんだよね」
「わかるわ」
 ずっと、大人になんかなりたくないと思っていた。それが、大人になった今、しっかり大人になれている自覚がない。私の思い描いていた大人がこれなのか、と聞かれても、わからないとしか言いようがない。わからないことが、良いことなのか悪いことなのか、それさえ自分ではわからない。でも、少なくとも、大人になってしまった今、大人になる恐怖は感じなくなった。今から大人じゃなくなることはできないから、大人になる恐怖を感じない。少なくとも、そのことだけは安寧だ。
「まあ、今が楽しいってのもあるけどね」
 そう言って千波はへらっと笑った。
 デザイン学校を卒業した私たちは、ありがたいことに二人とも服飾関係の仕事につくことができて、好きな仕事ができている。十年くらい前から千波とルームシェアを始めて、大きなトラブルもなく仲良く過ごせている。このままで何が悪いのだろう? いつか千波が結婚してこの家を出ることがあっても、私は笑顔で見送ろう。そして、私は変わらずこのまま生きていこう。それ以外の生き方を、私は知らない。
 そんな私の頭の中が見えたのかのように、「どちらかが結婚することになっても、うちら、ちゃんと祝福して見送れそうやね」と千波がにっと笑った。
「そうだね。同級生の結婚式ってつまんないこと多いけど、千波の結婚式なら楽しそう」
「結婚式ってさ、本当に心から祝福してくれてる人しか呼びたくないんだよね」
「あぁ、そうね」
「だから、私の結婚式は呼ぶ人少ないわー」
 千波はまたビールを飲んで、チーズをつまむ。
「このチーズうまいなー」
 美湖ちゃんの結婚式で東京にきた叔母さんが、お土産に持ってきてくれたチーズ。私も何度か行ったことのある中標津の牧場。叔父さんの実家で、窓からエゾリスが見えるほどに自然が豊かだ。そこの牧場の乳製品は、本当に美味しい。叔母さんは、私が誰か親しい人と一緒に、何か美味しいものを食べていることをとても喜ぶ。私がちゃんと食べて、健康に暮らしていれば、叔母さんは安心してくれる。
「チーズまじでうまいな、沙湖の叔母さんに感謝やね」
 言いながら、千波は加熱式タバコを咥える。禁煙すると言いながら、「加熱式タバコは煙草じゃないねん」と笑って、千波は相変わらず水蒸気からニコチンを摂取している。私はこのまま、この優しい友人と二人で暮らしていけたら一番良いな、と勝手な理想を思い描いた。

二章 一年前・沙湖二十九歳


「来年の夏の新作の案件受けたから、忙しくなるわよ」
 うらうらとした陽ざしの暖かな秋の日。のどかな外気にそぐわない少し緊張した、よく通る声で、デザイナーのAyaさんが言った。フロアは一瞬、ぶわっと静かな興奮に包まれ、その直後、ぴりっとした空気が張りつめる。Ayaさんが口にした企業は大手アパレルブランドで、社員たちに気合いが入ったのをひりひりと肌で感じる。私は、濃いピンクに染めた髪を一度撫で、緊張をおさえる。
 私の就職したデザイン事務所は、小規模ながら、大手企業からのデザイン案件の受注も受ける実力のある事務所だ。仕事も八年目にもなれば、慣れてくる。就職してすぐは、学生と社会人の責任の差や、納得のいかないことを飲まないといけないという社会全体の暗黙のルールに面食らうことも多かったが、やりたいことの最低限の拘りさえ見失わなければ、要領も自然に身についてくるものだ。
それは人間関係においても同じで、デザイン学校のときより実力が認められる分、陰では何を言われているかわからない。でも、それをあからさまに態度に出すほど、みんな子供じゃない。それは表面上とても過ごしやすく、周囲の人間は人畜無害が一番、と考えている私にとっては、居心地が良かった。上司であり事務所のデザイナーであるAyaさんがさっぱりしているのも良い。男女も経歴も年齢も実績も関係なく、良いと思ったアイデアを採用してくれる。世間のニーズやトレンドの調査、商品コンセプトの企画、デザイン画作成、それが私の主な仕事内容だが、私は好きなことには没頭できる性格らしく、とても楽しんで働けている。独立できるほど甘い世界でないことはわかっているが、できることなら一生続けていきたい仕事だと思う。
 Ayaさんが発表したブランドの案件は大きな仕事になるだろう。来年の夏のトレンドを今年の秋から調査しなければならない。有名アパレルブランドがどんなトレンドを作ろうとしているのか、私はまず情報を集めなければ、と思った。小さいものから誰でも名前の知っている大規模なものまで、ありとあらゆるファッションショーや新作披露会の予定を調べることにした。

 家に帰ると千波が夕飯を作ってくれていた。千波は古着屋と雑貨店が一緒になった店の仕入れバイヤーをしている。ユニークで個性的な商品が多く、千波の好みにとてもあっていると思う。
「ただいまー。ごはんありがとう」
 脱いだ靴を揃えずに部屋にあがる。
「おかえり。沙湖、遅くなるって言ってたから、先食べたで」
「うん、大丈夫。しばらく忙しくなりそう」
「なんや、大きな案件?」
「うん、大きい。やりがいありそ」
「ええことやね」
 にっと笑って千波は、夕飯を出してくれる。琥珀色に艶めくハヤシライスは、とてもいい香りがする。付け合わせにきゅうりのスティックサラダ。思わず「あーお腹すいた」と子供みたいな声を出すと千波が「ええことやね」と言って、またにっと笑った。
 ハヤシライスは、玉ねぎの甘味が良く出ていてとても美味しかった。千波はスティックサラダのきゅうりに味噌をつけて、ビールを飲んでいる。私は、食事を美味しく食べられることに感謝し、自分の左肩をそっと右手で撫でた。食事が美味しいときの、感謝の祈り。私だけの儀式みたいなものだ。中学生のときから始まり、今では癖になってしまった。
「ごちそうさまでした」
 手を合わせて感謝する。これも、中学生のときからの決まり。食事に感謝すること。私にとって、特別なことだ。
 それから煙草に火をつける。満たされた胃のすぐ上で、今度は肺が満たされていく。食後の一服がこんなに美味しいのはなぜだろう。人間の臓器は単純で愛おしいな、と思いながら、青白い煙を深く吸い込む。仕事場は完全に禁煙であるため、家に帰らないと吸えないのだ。
「ねえ、デザイン学校のときの、芽衣めいって覚えてる?」
 きゅうりをパリパリかじりながら千波が言う。
「芽衣?」
「うん、なんかちょっとの間、友達からハブられて、うちらと一緒にごはん食べてた子いたじゃん」
「あ、あぁ、あの芽衣」
「そうそう、あの芽衣」
「芽衣がどうしたの?」
「離婚したらしいよ」
「へえ……てか、結婚してたんだ」
「うん、結婚して子供いるみたい。けど、なんか旦那がひどい人で、働かないわ、芽衣の家事に文句つけるわ、酔うと暴力ふるうわで、大変だったみたい。やっと離婚できた、みたいなことSNSに書いてたわ」
「ふーん」
 全然知らなかった。私は個人的なSNSはやらないし、やるとしたら仕事で必要な情報収集に使うのみだ。若者に流行っているもの、流行っている服、流行りそうなもの、その調査にしか使ったことがない。
「芽衣も大変だったんだね」
「うん、明るい子やったけど、苦労してたんやって思ってね」
「ほんとだね」
 他人様の苦労なんて、傍から見ていただけじゃ絶対にわからない。自分ですら、自分の苦労に気付かないときがあるのだ。他人様の苦労なんて、わかるはずもない。それでも、わかろうとして寄り添おうとするから、人間はややこしい。ややこしくて、不器用で、憎たらしくて、憎めない。結局、家族や千波に助られてきた私は、一人じゃ生きていけないことを身に染みて知っている。もし芽衣が今大変な思いをしていて、何か力になれるなら声をかけたいな、と思った。他人なんて人畜無害が一番だ、と思っているくせに、結局、情にほだされる私。
「で、連絡しといたよ」
「ん?」
「そんな大変な状況って知らんかったから、何もできることはないかもしれないけど、愚痴くらいなら聞くでって、芽衣に連絡した」
 千波はさすがだなと思った。いつもへらへら笑顔で、派手な服でチリチリパーマを揺らして、穏やかな千波。友達がしんどいときは、いつもすぐに手を差し伸べられる千波。思いついても、それをすぐに行動にうつせる人は少ない。すぐに行動できることは、迷いがないということだ。私とルームシェアを決めたときも、千波の行動は早かった。
 あれは、件の芽衣の紹介で知り合った男と一悶着あった日の夜だった。千波はもともと近所に住んでいて、その日は私の家に来ていた。ぐったりと心身の疲れ切った私に温かいハーブティを淹れてくれて、「一緒に住もうか」と言ってくれたのだ。もう九年近く前のこと。
「沙湖が嫌じゃなければ、一緒に住もうか」
 心強い言葉だった。私にも味方がいる。家族以外でも、味方がいる。そう思えた。
「……千波が嫌じゃなければ」
 小さな私の返事に、「じゃ、決まりね」と言って、本当に私の家に引っ越してきた。物置のように使っていた一部屋を片付けて、そこを千波の部屋にした。一人暮らしのとき、荷物が増えそうだな、とやたら広い部屋に決めた私の決断が、そこで活きることになった。それから今も、一緒に暮らしている。
「芽衣、大丈夫だといいね」
 私が言うと、「うん、ほんと。変な男っているもんやな。最低やろ、暴力なんて」と千波は怒っていた。本当にその通りだ。暴力なんて、最低だ。私は微か遠くに始まりそうな耳鳴りを深呼吸で遠ざける。雨の音が始まる前に煙草を深く吸うと、耳鳴りは去って行った。やり過ごすのが少し上達している。私みたいな人間でも、少しは成長するみたいだ。

 仕事が俄然忙しくなり、その分気持ちは充実していた。やりがいのある仕事ほど、没頭できるものはない。ネガティブな感情を忘れられる没入感。私は、デザイン学校を勧めてくれた高校時代の担任と、進学させてくれた叔父さんと叔母さんに改めて感謝する。
 今日は、都内でやるという小さなアパレルブランドの展示会に行く予定だ。フリーランスのデザイナーが手掛けているブランドで、最近若者に人気が出始めている。流行は早めに抑えるべきである。色づき始めたイチョウ並木のアスファルトを闊歩して、私は後輩を連れて展示会に行った。
 展示会はまずまずの収穫だった。トレンドというには少し古いかもしれない。今年の流行は抑えてあったが、来年の夏の新作となったら、「去年感」が出てしまうかもしれない。でも、色使いは良かった。そんなことをタブレットにメモしながら後輩と電車に乗る。車窓は涼やかな秋の夕景。都会の真ん中、西日を反射するビル群も、この季節は物寂しく感傷的に見える。一緒に行った後輩はやたら嬉しそうな顔をして外を眺めている。この子なりに勉強できることがあったなら良いな、と思った。

「水島さん、今週の金曜日って空いてますか?」
 先週一緒に展示会に行った後輩が話しかけてきた。新しくベンチャーで立ち上げたデザイン会社の新作披露ショーの予定を確認していた私は、てっきり仕事の相談かと思い、スケジュールを確認する。
「その日は外回りないけど、どうしたの?」
 すると後輩は手を口元に当ててふふっと笑う。
「空いてるって、仕事の後のことです。飲み会があるんですけど、水島さんを誘ってほしいって言う人がいて」
「はぁ? 飲み会? 私を誘いたいって、誰?」
 後輩との飲み会などは、新年会や忘年会、歓迎会などの季節ものしか顔を出したことはない。そもそも、私はアルコールが飲めない。
「先週、展示会行ったじゃないですか?」
「あ、うん。フリーランスの」
「はい。そこで受付やってた男の人、覚えてます?」
 受付やってた男の人? 全く記憶にない。デザイナーとは話をしたが、受付の男性と話なんてしなかったし、受付をしていたのが男性だったか女性だったかも、記憶にない。
「覚えてないけど、その人がどうしたの?」
「あの人が、水島さんに一目惚れしたって言ってきて、なんとか飲み会ができないかって」
 一目惚れ? 全く記憶にない男性だ。突然そんなことを言われても困る。
「何それ。っていうか、何でそんなことあなたが知ってるの?」
「展示会のとき、イケメンだなって思って連絡先交換したからです。でも、水島さんに取られちゃいました」
 いたずらっぽく笑うこの若い女の子に、私は呆れてものが言えなかった。仕事中に好みの男性を見つけたら連絡先の交換をするというのは、どういう神経なのだろう。若い子に限ったことなのか、男女の間では当然のことなのか、私には理解できなかった。そして、「イケメンだなって思って」と連絡先を聞きに行くうちの後輩も後輩だが、それに嬉々として応える男性も男性だ。その時点で、私の中では社会人として「ナシ」のレッテルが貼られた。
「向こうが水島さんのこと気に入ってることは内緒にしてくれって言ってたんですけど、言っちゃいました。けっこう大人数呼んで飲み会やるんで、来てくださいね。向こうのデザイナーさんも来るみたいなんで」
 口が軽いというのは無自覚に劣悪だな、と思いつつ、コネクションを優先したい自分がいる。大人数で集まるというなら、向こうのデザイナーについている技術者で良い人がいれば、Ayaさんに紹介して、ヘッドハンティングすることだって可能なのだ。そういう意味でも、コネクションを繋いでおくことは大事だ。
 ただ、私に好意のあるらしい男性の存在が邪魔だ。うまく避けられないものか、と思っていると「じゃ、金曜日お願いしますね~」と明るく言って、後輩は去っていった。私は、あの日後輩がやたら嬉しそうな顔をして電車に乗っていたことを思い出した。
「まったく今どきの若者は……」
思わず口をつく。こんなこと、自分が思う日が来るとは、思っていなかった。

「男よけ? なら、指輪じゃん」
 帰宅して千波に相談すると、開口一番言われた。私は、千波が作ってくれたカレーライスを食べる手が止まる。
「指輪?」
「うん。仕事中はつけてないけど、プライベートではつけてるんですって言って、左手の薬指に指輪しちゃうのが、一番手っ取り早い」
「え、薬指?」
「そうそう、彼氏がいるんです、でもいいし、結婚してるんです、でもいいし」
 私は何のアクセサリーもついていない自分の左手を眺めてみる。
「嘘つくってこと?」
「うん」
 にへらっと邪気なく笑って千波は続ける。
「だって、職場の人にプライベート全部明かしてるわけじゃないでしょ?」
「うん、ほとんど言ってないほうだわ」
「やろ? だったら、同棲してる人がいるんです。ほとんど事実婚状態で、って言っちゃえばいいじゃん」
 そんな手があるとは。ぽかんとしてる私に千波は「自分を守る良い嘘は、たまにはついてええんよ」と言って笑った。

 翌日仕事の昼休みを使って、千波の働く古着屋兼雑貨店に行って、一緒に指輪を選んだ。
「男なんてパッと見で指輪の価値なんかわからんのやから」
 千波にそう言われて、シンプルなシルバーの安い指輪を買った。少しアンティークな感じの細い指輪で、つけてみると、実際、長年つけている結婚指輪に見えなくもなかった。自分の左手薬指に指輪がはまっている。それは妙に居心地が悪く、不気味なものに見えた。

 金曜日、飲み会の時間に少し遅れてしまった。事務所を出るとき、千波の店で買った指輪をつける。自分の左手が、自分の手じゃないみたい。偽物なのに、束縛感があって窮屈な気がする。飼い犬の首輪みたい。
 指定された店は、お洒落なダイニングバーだった。照明の抑えられた店内に静かなBGMが流れている。入ってみると団体客が多く、思っていたより騒がしかった。
後輩が私に気付き「水島さん、こっちこっち」と言って、手招きをしてくる。受付をしていた男性の席にいるようだが、とりあえず先方のデザイナーのいる席につく。
「遅れてしまって申し訳ありません」
 挨拶をするとデザイナーは淡い空気のような笑顔を見せた。
「いいえ、大丈夫ですよ。先日は展示会に来ていただきありがとうございます」
 若い男性で、色白の中性的な顔立ち。グラスを持つ指が細くて、この手でデザイン画を描くのか、と思うと、硬めの細い鉛筆で繊細なデッサンを描くのだろうな、と勝手に想像してしまう。
「こちらこそ、大変勉強になりました」
 私は、千波に「全然笑顔に見えない」と言われる仕事用の笑顔を顔にはりつけ、しばし談笑する。今季のトレンドの話、新しいデザイナーの話、私が来週行こうと思っているベンチャーでデザイン事務所を立ち上げたデザイナーの話にもなった。情報収集は重要だ。こちらも少しだけ情報を提供し、隠すべきところは隠す。いつの間にか私もそんなことができる大人になったのだと思うと、今すぐパンプスを脱いでジャケットを脱いで男よけにつけてきた指輪もはずして、走って家に帰りたいと思った。でも、それを我慢できるほどにまで大人になっている私は、「では、ちょっと失礼します」と小さく会釈をして、席を立った。
 後輩が、やっと来た! という顔をしている。私は後輩と男性二人がいる席につくが、どちらの男性が受付をしていた人なのか本当に思い出せなくて、さずがに失礼だな、と思った。でも、本当に覚えていないのだから仕方ない。向かって左側にいるのが、面長の眼鏡。右側は、丸顔の無精髭。どっちだったか。
「水島さん、覚えてますか? 僕、この前の展示会でお会いしたんですけど」
 左側の面長眼鏡が話しかけてきて、あぁこっちか、と思ったけれど、見覚えはなかった。
「ごめんなさい、あの日は私、展示会を見るので精一杯で……」
 申し訳なさそうに言って、左手で口元を抑える。「指輪に気付け」と願いながら。
「あれ! 水島さん、指輪してる!」
 薬指の指輪に気付いたのは、面長眼鏡ではなく、職場の後輩のほうだった。こういうのは、さすが女子のほうが目ざといな、と感心する。
「あれ、見たことなかった? 仕事以外ではいつもしてるんだけど」
 白々しく嘘をつく。これは千波相手に練習した。面長眼鏡が後輩のことを見ている。「話が違うぞ」とでも言いたいのだろうか。
「水島さん、彼氏がいらっしゃるんですか?」
 面長眼鏡が直球で聞いてくる。いい流れだ。
「ええ、同棲している人がいます。もうほとんど事実婚状態なんですよ」
 そう言ってまた左手で口元を覆うように微笑む。婚約会見をする芸能人みたいだな、と白けた気持ちが顔に出ないといいけれど。
「えー! 知らなかったです! なんで言ってくれないんですか? 水くさいですよー」
 後輩が大きな声を出しているが、知ったことではないし、後輩にとっては面長眼鏡が私を諦めるなら好都合なのだろう。口調に責めるような気配は含まれておらず、逆に楽しんでいるようにも聞こえる。
「言ってなかったっけ? もう何年も一緒に住んでるから、わざわざ言うほどのことでもないって思ったのかも」
 よくもまあ、すらすらと嘘がつけるものだ。
「自分を守る良い嘘は、たまにはついてええんよ」
 千波に言われた言葉がよみがえる。そうだ。私は元来嘘つきではないか。嘘なら子供の頃からずっとついている。今さらこんな軽い嘘に罪悪感も何もあったもんじゃない。
 後輩と男性たちが話している会話を聞くともなしに聞きながら、薄まったウーロン茶を飲んで、ダイニングバーの喧騒を遥か彼方にある蜃気楼を見るような気持で眺めた。

 デザイン画の社内コンペの日が発表され、私は仕事に没頭した。コンペで勝てなくても、一生懸命やることに意味があるし、今できる自分の精一杯を試してみたい。千波と一緒に買った指輪はあれから一度もつけていない。でも、今後もあるかもしれない男よけのお守りとして、とっておこうと思った。

 美湖ちゃんから久しぶりに連絡が来た。一人暮らしをしてから月に一度は会っていたが、私が働いてからはなかなか時間があわず、最近は三カ月以上会っていなかった。コンペ用のデザイン画が行き詰っていて、息抜きもしたかったから、週末にランチをすることにした。

 紅葉の終わったイチョウの葉が地面に黄色い絨毯を敷いている。日当たりの良いカフェのテラス席で、美湖ちゃんは俯いて文庫本を読んでいる。いつも周囲に溶け込みすぎて、存在感のない美湖ちゃんだけれど、今日はきらきらした秋空の下で、心なしか頬が紅潮しているように見えた。いつもより少しだけ存在感のある美湖ちゃん。私はしばし姉を眺めてから、近付いて声をかけた。
「美湖ちゃん」
 はっとして顔をあげる美湖ちゃん。私を見ると、本当に優しい顔で微笑む。子供の頃から変わらない、私の姉。
「さあちゃん、久しぶり。元気だった?」
「うん。忙しくて、なかなか会えなくてごめんね」
 言いながら席に着く。グレーのニットに黒のジーンズ、髪を後ろで一つに結った化粧っ気のない美湖ちゃん。鮮やかなターコイズブルーの柄シャツに濃紺のガウチョパンツ、濃いピンクに染めた髪の私。私たちはどんな関係に見えるのだろう。
「さあちゃん、何食べる?」
 いつも私より先に来て、メニューを先に決めている姉。私は、ゆっくりメニューを眺め、さんざん時間をかけて悩んだ結果、結局お店のおすすめだというハンバーガーに決めた。私は姉の前でだけ、いつでも簡単に子供に戻れる。注文をして、店員が運んできたレモン水を飲む。
「仕事忙しいの?」
 美湖ちゃんはいつもおっとりしている。しっかりしていて、おっとりしている。セカセカしたり、パニックになったりしない。その口調は、私をいつも安心させる。
「うん、忙しい」
「いいことね」
「ほんと。忙しいけどめっちゃ楽しい」
 私が仕事を楽しんでいることを、姉は喜んでくれている。やはり没頭できるものがあると生きていきやすい。たぶん、美湖ちゃんもそのことを知っているのだろう。
 店のおすすめというハンバーガーが美味しくて、私は右手で左肩をそっと撫でながら、やっぱり美湖ちゃんと一緒なら大人になっても大丈夫だった、と思った。私がなりたくなかった大人に、もうなっているけれど、思っていたより怖くなかった。
「ここ、煙草吸えるよ」
 美湖ちゃんが言うから、私は店員に灰皿を依頼し、煙草を咥えた。秋の乾いた爽やかさが心地よくて、煙草の煙がいつもより青く見える。こんなに天気の良い日に、屋外でアイスコーヒーを飲みながら煙草を吸う。贅沢だな、と思う。
「私は煙草を吸わないけど、煙ってきれいね」
 美湖ちゃんが言うから、私は口をすぼめて煙で輪っかを作ろうとしたけれど、全然うまくできなくて、二人で笑った。
「あのね、今日はさあちゃんに報告があってさ」
 笑った勢いに乗っかるようにして美湖ちゃんが言う。
「報告? どうしたの?」
 姉はひとつ息をしてから
「さあちゃん、私……結婚する」
 珍しく明瞭な声で言った。
 私は驚いて一瞬何も言えなかった。指先に挟まった煙草から緩やかに煙が立ち上り、音もなく灰が落ちる。何が起こったのか、理解するのが難しかった。
「け……っこん?」
「そう、結婚」
 私は自分を落ち着かせるために、とりあえず、アイスコーヒーを一口啜る。
 三十歳を過ぎても独身で、彼氏のいる様子もない姉を気にかけて、何度か叔母さんが縁談を持ってきていたから、付き合いでお見合いしているのは知っていたけれど、まさか本当に結婚するなんて思っていなかった。
「仁さんっていうの。相手の人。その人の話、してもいい?」
 美湖ちゃんの旦那さんになる人。私の義理の兄になる人。仁という名前の男性。
「うん……聞かせて」
 私は慎重に返事をした。
「ありがとう」
 美湖ちゃんは薄らと微笑んで話し始めた。
「叔母さんの紹介のお見合いだったの。それで、私はどんな人であっても断るつもりで、まあ、付き合いで顔を出した感じだったんだけど、最初に会ったときね、叔母さんたちが部屋から出て行った途端、仁さんが『ごめんなさい。僕は結婚するつもりはありません』って言ったの」
 思い出し笑いをするように微笑む美湖ちゃん。仁という名の男性はこう言ったという。
「結婚するつもりがないので、なるべく早くそのことをお伝えしないといけないと思いまして。その──結婚しないのは、美湖さんのせいではなく、僕は誰とも結婚するつもりがないのです。大学の恩師が気にかけてくれてお見合い話を持ってきてくれるのですが、毎回断っています。ちゃんと理由を言わないとお相手に失礼になると思うので、自分勝手なことですが、説明させてください」
 そう前置きをして語りだしたそうだ。
「僕には、性欲がありません。『アセクシャル』というらしいです。性的なものを一切欲しないんです。女性を好きになることはあります。一緒にいて楽しいなとか、そういう感覚はあります。でも、それ以上は全く何も思わないんです。手をつなぎたい、体に触れたい、キスをしたい、抱きたい、どれも全く思ったことがありません。欲求がないのです。何が原因なのかわからないのですが、僕はずっとこの状態で生きてきたので、苦しくも何ともありません。でも、お付き合いしたり、まして結婚するなんてなったら、そうも言っていられません。だから、お見合いはお断りさせていただきます。恩師にも、今度こそちゃんと説明しようと思います。わざわざ来ていただいたのに、申し訳ありませんでした」
 そう言って、深く頭を下げたそうだ。姉はこのとき初めて、男の人を好きになれるかもしれないと思った。そしてこう返事をした。
「私も性行為はしたことがないし、この先一生したくありません」
 私はここまで聞いて、思わずアイスコーヒーを吹きだして笑った。眩しいほどに白いガーデンテーブルにアイスコーヒーの粒が散る。
「美湖ちゃんにそんなこと断言されて、相手の方、びっくりしたでしょ?」
「うん。びっくりして口をパクパクさせていたわ。どうしても結婚したい女の、執念の嘘だと思ったってさ」
 ふっと微笑む美湖ちゃん。晴れた真昼間のカフェテラスで、「性欲」だの「性行為」だの、女二人の会話が聞こえたら怪訝な顔をされるかもしれないけれど、私は嬉しかった。こんな単語の出てくる話をできるようになったのだ。少しだけ身軽になった証拠だ。少しずつ、本当に少しずつ身軽になってきた私たち。
「おめでとう」
 話を聞き終えて、ようやく言えた。心を込めてゆっくり伝えた、本物の祝福だった。私たちは幸せを慎重に扱ってきた。薄っぺらに甘いオブラートのように、拭いきれない痛みをやんわりと包み込む幸福。それを姉が手に入れるのならば、私は自分のこと以上に祝福したい。どうか姉が幸せでありますように。そのことだけを祈ってきた人生でもあったのだ。一般的に幸せと呼ばれるものは、私の分も全て姉に体験してもらいたい。そもそも、私にはその資格がないのだから。

三章 十年前・沙湖二十歳


 いつまでもしつこくへばりつくような残暑がようやく過ぎて、窓から入る風が少し涼しく感じる。何かの花の香りが混じっている空気は、湿度も幾分下がってきて、過ごしやすい。
 私は授業のあと、教室に残ってえんぴつ画を描いている。一年生後期のデザインデッサンの課題だ。「今季の冬に着たい服」というテーマの課題で、今私はアウターのデザインを描いている。芯の硬い薄い色のえんぴつが好きだ。滑らかな質感の細目の紙に、硬めのえんぴつで細く描く。紙独特の木の皮みたいな匂いと、えんぴつの芯の削れる感覚、音。その中で自分が思い描いているものを絵にしていくという作業は、時間も食事もトイレすら忘れてしまうような、没入する時間だ。少し個性的なデザインのライダースジャケットにしようと思っている。素材を変えてフードをつけたらかわいいかもしれない。私は描くことに没頭する。
「水島さん、まだデッサンの課題やってるの?」
 突然話しかけられて振り向くと、同じ服飾学科の女の子がいた。
「あ、うん。まだ完成しなくて」
「ふーん。水島さん、真面目だもんねぇ。いつも成績良いんだから、ちょっとくらい手抜いても大丈夫なんじゃない?」
 嫌味ったらしいことしか言わないのなら、話しかけないでくれ。思ったけれど何も言わず、黙ってデッサンを続けた。

 デザイン学校というのは思っていた以上に面倒な場所だった。入学して、数ヶ月もすれば、自ずと気付かされた。世の中の人たちは、どうしてこうも他人と比べたがるのだろう。うんざりする。
高校三年の進路相談のとき私は、進学するつもりはない、と言った。実子でもなく、姉のように頭が良いわけでも、やりたいことがあるわけでもなかったから、私は高卒で全然構わなかった。姉の美湖ちゃんは簿記会計の資格がとれる専門学校を卒業して、地元の信用金庫で働いている。私は取り立てて長所のない人間だし、やりたいことも別にない。でも、もともと美術だけは成績が良く、デザインや洋服に興味はあった。そんな私に、担任の先生が、デザイン学校を紹介してくれたのだ。叔父さんも叔母さんも、もともと進学させてくれるつもりだったらしく、私がデザイン学校に興味を示したことを喜んでくれた。だから、受験してみた。
 でも、実際に入ってみると、思っていた以上に面倒だった。授業はおもしろい。イラストやアニメの学科もあるが、私は服飾学科を専攻した。一年生のときは、基本的な勉強がメインで、生地について学んだり、デッサン技術、縫製技術を学んだりしている。それ自体は楽しくて、夢中になった。
 でも、高校のときより人間関係が複雑で、それが面倒くさい。実技もあるから、優劣が出る。それが気にくわない女子集団がいて、馬鹿みたいなスクールカーストを作りたがる。正直、鬱陶しくて学校を辞めたいとも思った。私は、デザインも実技もわりと成績が良く、いつも奇抜な服を着て髪を緑色に染めているから、悪目立ちしたのかもしれない。お洒落アパレル店のマネキンが着ていそうな服装の、流行最先端のモテ系女子たちから少し引かれていた。別にデザインと服飾の勉強ができれば友達なんかいらない。学校を辞めないなら孤立は覚悟だな。もともと友達とわいわいするのが好きなタイプではないし、それで全然構わない。そう思っていた。
 そんな私に普通に話しかけてきたのが、千波だった。猛暑の最中、エアコンの効いた学食で、一人で昼食を食べていたときだった。
「その服、かわいいね。どこの?」
 千波は長い髪にチリチリのパーマをかけて、ゆるめのアフロヘアのような髪型だった。色白の頬にそばかすが目立つ、にも関わらず、すっぴんだった。私はその日、派手な幾何学模様のカラフルなTシャツを着ていた。
「この服? 古着屋で買ったの」
 私は授業料を出してもらえているだけでありがたいから、服などはなるべく安くすませるため、古着屋をよく利用していた。ビンテージものなどは高額だが、掘り出し物で個性的なかわいい服が安く買えることも多い。
「どこの古着屋? 安いん? 今度連れてってや」
 どこの訛りなのかよくわからないイントネーションで千波は言い、にへっと笑った。裏表のなさそうなその笑顔を見て、もしかしたら孤立というほどの状況には至らないかもしれないな、となぜか予感した。そして、服を褒めてもらったのに、ありがとうと言い忘れた、と気付いた。遅れて感謝を述べられるほど、私は器用じゃなかった。

 少なくとも孤立せずに済んだ夏が過ぎ、秋が近付いてきた今、私は後期の課題をやっている。細目の紙に硬いえんぴつで線を引く。夢中になれることが見つかるのは良いことだ。「ネガティブの対義語はポジティブじゃなくて夢中だ」と言ったのは誰だったか。本当にその通りで、没頭できることがあるだけ、私はネガティブな感情から離れていられる。そのこと以外考えなくていい、という時間は本当に大切で、おもしろい小説を読んでいる時間に似ているかもしれない。あっという間に全く知らない世界に連れて行ってくれて、何もかも、どうでもよくなる。それを「現実逃避だ」などというような論破野郎とは気が合わない。現実逃避の何が悪いんだ。過酷な現実に真っ向勝負するような生き方してきたんだ。たまには逃げ道を作ったって、いいじゃないか。
 ふーっと一つため息をつく。フード付きライダースジャケットのデッサンは、いい感じに仕上がった。既に外は暗い。秋の日は釣瓶落とし。ことわざを考えた人は比喩の天才だな、と思う。
 
 二年生になると、実技の授業が増えるとともに、就職活動が始まった。今日は、就職活動の説明会に特別ゲストとして、学校出身者でデザイナーとして名前が知れているカズマという人が講師として教壇に立った。カズマはシックなデザインで手頃な値段のブランドを立ち上げ、中高年のお洒落な女性たちから指示が高い。本人も、自身のブランドのメンズの黒いジャケット姿で、着こなしはさすがというところ。春にしては色が重いんじゃない? と思ったが、素材が軽めで、そりゃ素人の私なんかがいちゃもんつけるような存在じゃないか、と思ったりした。教壇に立つカズマは、少し緊張した顔をしていたが、それより母校で講演できることを喜んでいるように見えた。最初こそ声が上ずっていたが、元来お喋りなのか、どんどん饒舌になった。
「チャンスの神様は前髪しかなくて、後頭部はツルツルの禿げ頭」という、今更何の新鮮さもない話を熱弁していた。
「みなさんがぼーっとしていて、あれ? 今のはチャンスだったのかな? と振り向いても、チャンスの神様の後姿しか見えません。でね、チャンスの神様はツルツル禿げですからね、あれ? と手を伸ばしても、後ろからじゃ掴めない。ツル! ツル! ってね」
 カズマは何度も宙を掴むようなジェスチャーを繰り返している。前列にいる女子学生の何人かがクスクス笑っているのが嬉しいのだろうか。
「だからね、みなさん、チャンスが来たら、どーんと正面から構えて、ガシーっと前髪を掴んでやらなきゃいけないんです。いつチャンスが来てもしっかり前髪を掴めるように、日々コツコツと努力して、備えておかなければならない」
 熱弁しているが、聞き古した、誰にでも言えるような薄っぺらい話だ。就職に有利な資格や通っておくと良い習い事なども説明しているが、そんなことちょっと調べれば誰でもわかる。
「いいですか? 人生のチャンスを逃してはいけません。しっかり準備して、目をカーっと見開いて、構えておくのです」
 目を見開いて、のところでカズマは実際に目をかっと大きくして、前列の女子たちがまたクスクス笑っている。
 目を見開くも何も、人生など目隠しをされたまま地雷原に投げ出されるようなものじゃないか。目隠しの下でどんなに目を見開いても、見えるのは闇だけだ。恐る恐る手探りで一歩ずつ進んでも、一瞬で爆発して、体ごと吹っ飛ばされることばかりだ。万が一、地雷を踏まずに進めたとしても、油断した瞬間に足を踏み外して、到底自力では這い上がれない深さの穴に落下するのだ。登ろうとしても暗く湿った土は脆く崩れて、土を掻いた爪が汚れるだけで全く登ることはできず、はるか遠く頭上に見える空を仰ぐだけだ。
 カズマの話はつまらなくて退屈だな、と思いながら、講義室の窓から見える蒼天を眺め、ただ時間が過ぎるのを待った。

 講師のカズマとの親睦会と称して行われた飲み会の席で、千波に地雷原の話をすると「沙湖は怖いこと考えるね」と言って、ビールを飲んだ。千波はアルコールが強い。
「沙湖が穴に落ちたら、私が上から頑丈なぶっといロープ垂らしたるわ。力づくで引っ張り上げてあげるから、ちゃんと掴んどき」
 千波はチリチリのパーマをふわふわ揺らしながら笑った。私はそのロープがカンダタの頭上に降りてきた蜘蛛の糸に思えた。私は他人を蹴り落とさずにいられるだろうか。アルコールを飲まない私は、いい加減ウーロン茶でお腹いっぱいになり、仕方なくストローでグラスの氷をぐるぐる回す。そんな私を見て千波が「なんか悩んどんの?」というから、「別に」と言い、「でも、ありがと」と、千波のグラスにビールを注いでやった。照れ隠しに、緑に染めた髪をいじる。
「何がありがとなん?」
 ビールを飲みながら千波が言う。
「私が奈落の底に落ちたら、ロープ垂らしてくれるんでしょ?」
「あぁ、そのことね。うん、まかしとき。意外と力あるで」
 にへっと笑って言う千波はどこまで本心なのかわからないけれど、少なくとも、奈落の底に落ちた私に手を差し伸べると言ってくれる他人は、千波だけだろう。素直に感謝しないといけないな、と思いながら、私は煙草を咥えた。

 流行最先端女子たちは、ときどき仲間のうちの一人をハブきたくなるらしい。最近は芽衣という子が仲間はずれにされていて、一人になってしまった芽衣は、今までほとんど存在を無視していたはずなのに、急に私と千波に話しかけてくるようになった。私は別に、誰かを嫌ったりするために学校に通っているのではない。だから、私は千波と一緒に食事をするとき、ときどき芽衣も誘うようになった。

「わぁ、美味しそう」
 私の家でテーブルを囲んで待っていた千波と芽衣が、同時に声をあげる。私が運んだ土鍋には、鮭や貝が煮込まれていて、たくさん入れたジャガイモはホクホクになっているはずだ。立ち上る湯気は甘めの味噌の香り。本当に美味しそうだ。
「どうぞ、召し上がれ」
 最近北海道に引っ越した叔母さんが石狩鍋セットを送ってくれたのだ。一人では到底食べきれず、友達を呼んで一緒に食べる。だいたいいつも千波と食べるのだが、最近は芽衣も呼ぶ。叔母さんが三、四人前の鍋セットを送ってくるのは、私が誰かと一緒に食事を楽しんでほしいという願望の現れなのだろうし、それは今でも叔母さんが私を心配している証拠でもある。私は、叔母さんに何か食べ物を送ってもらったときは、食べている写真を撮ってメールで送ることにしている。それは感謝の気持ちと、叔母さんを安心させるための両方の意味を持つ。
「ねえ、沙湖んちって、鍋つかみないの? ミトンっていうの、あれないよね」
 芽衣が言う。私は一瞬表情が硬くなったことを自覚する。それを紛らすようにカセットコンロの火加減を調整する。言われるまでもなく、私の家にはミトン型の鍋つかみはない。あえて持っていない。今も、厚手の布巾で土鍋を持って運んだ。
「最近よくご飯ごちそうになってるから、プレゼントしようか?」
 一瞬目を閉じる。息をはいてから「いいよ、いらない。大丈夫」と答える。雨の音と草の匂いが一瞬で私を覆う。緑色の毛先をいじりながら気持ちを整える。耳鳴りが来ないように、細心の注意を払う。
「けど、ミトンあると便利だよ~」
 芽衣が話す邪気のない声をかき消すように、ざぁーざぁーと耳鳴りが始まりそうになる。私は落ち着くために深呼吸をする。目を閉じて唇を噛む。
「どんな色のミトンが──」
「いらないって!」
 自分でも驚くほど鋭い声が出てしまった。楽しそうに話していた芽衣が怯んだ顔で私を見ている。
「ありがとう。でも、鍋つかみは持たない主義なんだ。布巾で十分」
 冗談めかせて、無理して笑顔にしてみせる。耳鳴りが始まってしまう。噛みしめる奥歯が痛い。
 黙って私たちを見ていた千波が、一人で鍋を食べて突然「うんまぁー!」と大きな声を出した。
「これめっちゃうまいで。はよ熱いうちに食べよ」
 千波がへらへらしながら促し、私の鋭い一言はうやむやになり、私も芽衣もなんとなく鍋をつつく。 
「わ! ほんと、これすっごい美味しい!」
 芽衣が表情を緩めてくれたから良かった。
「よかった、いっぱい食べてね」
 私は耳鳴りを遠ざけ、一生懸命口角をあげる。今日叔母さんに送る写真を撮るときは、表情に気を付けなければいけない。耳鳴りがしているときは、よほど意識しないと笑顔にはなれないのだし、私の微妙な表情の変化を、叔母さんは見抜いてしまえるんだから。
 私は、美味しそうに鍋を食べてくれている友達を眺めて、何もかも全て誰かに打ち明けられたらどんなにか楽だろう、と思うときがある。それは決して、叶わぬ望みなのだけれど。

 就職活動は思っていたよりスムーズに進んだ。服飾関係の会社に絞って、説明会を聞きに行ったり、OB訪問をしたり、面接を受けたり、パンツスーツがまだ涼しい初夏になる頃から積極的に動いた。面接は苦手なタイプだと自分で思っていたけれど、好きなことについて喋るというのは苦痛がなかった。どんな服をどんな風に作りたいか、どんな風にマーケティングしたいか、どんな人に着てほしいか、言いたいことはいくらでもあった。学校のように、熱意を白けた目で見る同級生もいない。就職活動は、私にとって難しいことではなく、むしろ楽しいくらいだった。そして、夏には私は大手服飾会社の下請けデザイン事務所の内定が決まった。
「あなたみたいに、センスもあって熱意もある人、ほかにとられる前に早く決めておきたいわ」
 オリジナルデザインのデッサン画を見せた上で、面接の最後に言われた言葉が忘れられない。こんな私でも、必要としてくれる場所がある。それは信じられないほど、自分の価値観を変える出来事だった。何もできないと思っていた自分。ただ好きだからという理由で勉強させてもらっていたデザイン。進学を勧めてくれた担任の先生。進学させてくれた叔父さんと叔母さん。私は少しだけ、今まで支えてくれた人たちにとって、「支えなければ良かった」と思われずに済むような人間になれるかもしれないと思った。もとい、私がどんな人間になったとしても「支えなければ良かった」なんて思う人たちではないのだけれど。
 北海道の叔父さんと叔母さんに、就職内定の報告をするととても喜んでくれた。
 何か、漠然といろんなことがうまくいくような気がしていた。千波のおかげで学校も楽しめている。授業で自分の技術が認められるのも嬉しい。就職活動でも、私の熱意を買ってくれた人がいた。芽衣と鍋を食べた春以来、耳鳴りもしない。何かが、うまくいくような気がしていた。人生は、おしなべれば平等と言うではないか。私の人生は、ここから、良い方向に向かうのだ。そんな気がしていた。

 夏の終わり頃、芽衣から、合コンに誘われた。
「沙湖、合コンって興味ある?」
「合コン?」
「うん、合コン。ドタキャンされちゃって、人数足りないの」
 芽衣は、明るいピンクに塗った爪をいじりながら言った。ノースリーブの肩がつやつやしていてきれいだ。
「私、行ったことない」
「まじ? じゃ初合コン行こうよ」
「合コンって、どんな感じ? なんか緊張するんだけど」
「そんな堅苦しく考えなくていいんだって。特に今回はピンチヒッターだし、人数合わせの気軽な気持ちで来てよ」
「わかった」
 漠然と何か良い方向に向かっている気がしていた私は、行ってみてもいいような気がした。ドキドキしていた。新しい自分に出会えるかもしれない。もしかしたら、私にも恋ができるのかもしれない。

 合コンを週末に控えた木曜の夜、久しぶりに美湖ちゃんに会った。
 叔父さんと叔母さんが北海道に引っ越したのを機に、私も姉の美湖ちゃんも一人暮らしを始めた。一人暮らしをするとき、叔父さんと叔母さんは私と美湖ちゃんが一緒に暮らしたらいいのではないか、と気にしていたけれど、私たちはお互い一人暮らしを選んだ。おそらく、姉妹で暮らし始めたら、一生離れられない気がしたのだ。それは悪いことではないけれど、良いことでもない気がした。それでも、あまり離れてはいられなかった。美湖ちゃんの職場と私の学校の中間地点くらい。お互いの新居は、歩いて三十分くらいの場所に落ち着いた。

 一人暮らしを始めてから、美湖ちゃんとは月に一回は会うことにしているけれど、最近は私の就職活動があって難しかった。久しぶりに会う美湖ちゃんは、ファミリーレストランの端の席で、約束の時間より五分早くついた私よりも早くから居て、ひっそりと気配を消すように座っていた。周囲にいる人たち誰からも見つけてほしくない、といった不思議な雰囲気で、姉は俯いて文庫本を開いている。黒髪を後ろで一つに結う、化粧っ気のない姉の顔を、少し眺める。灰色のサマーニットに、たぶん下はいつも履いている黒いサブリナパンツだろう。二十四歳。その年齢より年上に見える。落ち着いている、という言い方もできるし、老けている、という言い方もできる。妙にくたびれている、という言い方もできる。フレッシュさがない、ということだ。事実、姉は真面目でおとなしくて静かで、どこかくたびれている。
「美湖ちゃん」
 小さく声をかけると、はっと顔をあげる。自分の存在が外部から見つかってしまった、というような、少し怯えた驚いた顔をするのだ。そして、声の主が私であると知ると、心底安堵したような、柔らかい表情になる。
「さあちゃん、久しぶり」
 美湖ちゃんは文庫本を鞄にしまいながらうっすら微笑む。そしてメニューを私に見せてくれる。自分の頼むものはもう決めてあるのだろう。私はメニューを決め、テーブルの呼び鈴を押す。
「さあちゃん、就職内定、おめでとう」
「ありがとう」
 私にとって姉の言葉は、いつも心にまっすぐ届く。何の憶測も裏も装飾もない、姉の素直な言葉。
「服飾系の会社なんでしょ? 良かったね」
「うん、内定決まるの、結構早いほうだったみたい」
「そう。良かった。さあちゃんなら大丈夫だと思ってたけど、うまくいってほっとしたわ」
 そう言う姉の微笑は儚げで、風が吹いたら壊れてしまいそうだった。いつもそうだ。美湖ちゃんと一緒にいると、私は姉を守らなければならない気持ちになる。それと同時に、どうしようもないほど、切ないような、姉に抱き付いて甘えたいような、子供のような気持ちになるのだ。
「美湖ちゃんは、仕事、どう? 忙しい?」
 姉は心持ち首をかしげ、「うーん、そうでもないかな」と言った。
「忙しいと言えば忙しいけど、窓口の終わる時間は決まってるから、そんなに大変じゃないよ。お金が合わないときは残業になるけど、そんなことほとんどないし」
 私は、姉がまっとうに働いてまっとうな大人として生活しているのを見るたび、心から安心する。姉は、私が大人になりたくないと願っていた子供のときから、すでに大人だったのだ。大人にならざるを得なかった。それは、安らかなことではなかっただろう。私みたいに、未熟な精神で我がまま放題人生に抗うほうが、楽だったのかもしれない。姉は全てを静かに受け入れ、全てを背負った。そして、今なお、静かに大人として暮らしている。ひっそりと、誰にも見つからないよう、騒がず、泣かず、甘えず、自立している。そんな姉を見ると、私も大人として生きて行けばいいんだ、と思わせてもらえる。大丈夫。大丈夫だから一緒に大人になろう。いつか、姉に言われた言葉通り、私は大人になることに抗うことをやめた。大人として生きていくことを受け入れた。それは、姉がいてくれるからできることなのだ。
「さあちゃんは、最近何かいいことあった?」
「うん、なんか、学校も楽しいし、友達もいるし、就職も決まったし、いい感じ」
 そう言ってにっと笑ってみせると、姉は本当に嬉しそうに微笑んだ。店員が注文をとりにくる。
 姉に、合コンに行くことは話さなかった。

 初めての合コンは、ただ騒がしいだけで、正直何が楽しいのかよくわからなかった。安いだけの酒を提供するチェーン店の居酒屋で、座敷に六人の男女。私はアルコールが飲めないから、一人でウーロン茶を飲みながら、早く煙草が吸いたかった。でも、禁煙の部屋だし参加者に喫煙者が誰もいないし、途中でわざわざ抜け出して吸うほどでもないし、我慢しながら、氷で薄まってほとんど水になったウーロン茶で口を湿らした。
 芽衣の友達だという男性の人が幹事で、どう見ても芽衣と付き合っているか、もしくはお互い付き合いたいと思っているのが駄々漏れで、この二人をくっつけるという口実の合コンらしい。少し白けた気もしたが、まあ、そんなもんか、と思って、一応口角をあげて楽しそうに見える顔をしながら、あまり美味しくない冷めてふやけたフライドポテトをつまんだ。
 帰るとき、一人の男性が「方向一緒だから」と言って、駅まで送ってくれることになって、少し驚いた。背の高い、痩せた男性だった。私は黙ってその人のあとについて歩いた。
「名前、沙湖ちゃんって言ったよね? 全然喋れなかったけど、俺気になってたんだ」
 とてつもなく緊張した。男性と二人きりで喋ることなんて経験がなかった。
「あ、はい」
「俺の名前、覚えてないでしょ?」
「あ、すいません」
 心臓がドキドキする。緊張なのか恐怖なのか不安なのか判断がつかない。
「俺、はやと。沙湖ちゃん、合コン初めてって言ってたけど、連絡先くらい、聞いてもいい?」
「あ、はい」
 私は携帯電話のメールアドレスを伝えた。手の震えが何からくるものなのか、わからなかった。

 合コンの二日後に隼からメールがきて、二人で食事をすることになった。どうしたらいいかわからず、千波に相談したら「良かったやん! いつも通りでいいんやない? ありのままを知ってもらわな、隠したってしょうがないんだから」と言ってくれた。だから、いつも着ている派手な服で、髪色も緑のままでいいや、と思った。他人の男性と二人でする初めての食事。

 残暑の厳しい蒸し暑い日の夕方、待ち合わせ場所に隼は十五分遅れてやってきた。五分前についていた私は二十分待ったことになるのだけれど、そういうことに言及するのは面倒くさい女なのかな、と思って言わなかった。隼は、白いTシャツにストレートのジーンズ。十字架をモチーフにしたシルバーのペンダント。スタッズのついた黒いキャップ。あまりお洒落じゃないな、と思ってしまってから、人を見た目で判断してはいけません、と自分に言い聞かせた。そういう私は、派手なオレンジの柄シャツに白のテーパードパンツ。相手にどうみられるか、よりも、自分の好きな服を着てこよう、と思って選んだ。
 勝手にお洒落なレストランを想像して身構えていたけれど、隼が連れて行ってくれたのは、普通のリーズナブルなイタリアンだった。食べながら、隼ばかりが喋っていたが、話好きなのか、私は相槌を打っていれば会話が成り立った。私は何を話したらいいかわからなかったから、ありがたかった。この時間が楽しいのかどうなのか、私にはわからなかったけれど、隼が退屈そうにはしていなかったので、ひどい状況ではないのだと判断した。
 食事を終えて外に出ると、隼は「少し歩こう」と言って、私の手をとった。一瞬、手をひっこめそうになる。でも隼の手は温かくて、これが恋の始まりなら、どんなに素晴らしいだろうと思った。
どこに向かっているのかわからなかった。すたすたと歩く隼は、目的地があるのか、迷わない足取りで進んでいく。
「ねえ、どこ行くの?」
「まあ、着いてきてよ」
 首をかしげながら歩いていくと、街灯の少ない道に、けばけばしいネオンが光る建物が並んでいた。
「ちょっと」
 隼の手を振り切る。
「どこ行くつもりなの?」
 返事を待つまでもなく、そこはラブホテル街だった。
「どこって、そりゃ今日はデートでしょ? かわいい女の子とデートしたら、俺はしたいことあるけど」
 怒りと恐怖で眩暈がする。頭がぐらんぐらんする。耳の奥で耳鳴りが始まっている。いけない。冷静にならないと。
「ごめんなさい。その……私、そういう経験がないの」
「え、初めて?」
 黙って頷いた。
「そっか、初めてじゃ、急に誘われて困るよね、ごめん」
 言葉では謝る隼が、私が処女だと知って、少し嬉しそうに口元だけで笑ったのが気味悪かった。
「じゃ、今日はやめよう。俺だって無理強いしたくないし」
 そう言って、くるっと方向転換して、駅のほうへ歩き出した隼は、もう手を握ってこなかった。

 その後、隼から何度かメールが来たが、会う気になれなかった。初めてデートした日に、ラブホテルに直行するような男性は、どうなのだろう。恋というのは、そうやって始まるものなのだろうか。そういうことは、恋が始まってからするものではないのだろうか。そもそも、私は隼のことをまだ別に好きではない。男性を好きになるという感覚がわからない。そんな状態で手を引かれてラブホテルに連れていかれても、好きになれるはずはない。私には、少なくともこれは私の思う恋ではない気がしていた。

 隼のメールに返信しないことが増えてきた頃、突然隼が私のマンションに来た。初秋の、涼しい夜だった。爽やかな風を窓から感じながら私は、一人でテレビを見ていて、玄関の呼び鈴が鳴ったときも、叔母さんから宅配便かな? くらいにしか思わなかった。だから、ドアの外に隼がいたときは、絶句した。
「な、なんで家知ってるの」
 質問というより、詰問であった。
「芽衣ちゃんに聞いた」
 怒りがふっと腹の底に沸いた。勝手に人の住所を教える芽衣にも、のこのこと非常識な時間に女性の家を訪ねてくる男にも、そして、宅配便かと思ってドアを開けてしまった自分にも。
「そんな怖い顔しないでよ。ねえ、お茶くらい飲ませて」
 隼は酔っているようだった。声が大きい。今日も白いTシャツに十字架のペンダント。
「お茶飲んだら帰るからさぁ」
 野良犬のような貧相な体を少し前かがみにして、ドアにもたれかかっている隼。
「近所迷惑になるから大きな声出さないで」
「じゃ、入れてよ。すぐ帰るから」
 隼は、近所の人が何事かと出てきそうなほど大きな声を出した。わざとだろう。仕方なく私は隼を家にあげた。
「へえ、結構きれいにしてるね」
 私は、灰皿を片付けてから、冷たい麦茶をグラスに注いでテーブルに置く。
「ありがと~」
 隼はどかっと座ると麦茶を飲んで、はぁーっと息をはいた。酒臭い。
「沙湖ちゃん、煙草吸うんだね」
「あ、うん」
「知らなかったよ」
 そうでしょうね。あなたと会うのは、今日が三回目なんだから。言っても仕方ないことを飲み込んで、なんでもいいから早く帰ってくれないかな、と思った。こういうとき、男を帰らせるにはどうしたらいいか、私には全く知識も経験もなかった。途方に暮れながら隼を遠巻きに、立ったまま眺めていた。すると隼は立ち上がって、近づいてきて、突然に私を抱きしめた。
「っ!」
 全身に鳥肌が立った。何してるの、この人。
「いくら沙湖ちゃんに経験がないからって言われても、俺だって我慢は限界がくるよ」
 酔って目の縁を赤くした隼は、酒臭い声で言う。
「いや、だから、そういうのは嫌なんだって」
 抱きしめる腕をほどこうとするが、隼の力は強かった。いけない、耳鳴りが始まる。
「だって、俺、沙湖ちゃんのこと好きなんだよ? ねえ、いいじゃん」
 酒臭い息で顔を寄せ、私を抱き上げると、力任せにどすんと押し倒した。痛い。背中に硬いフローリングの冷たさが伝わる。耳鳴りが強まって雨の音になる。
「やめてって」
 抵抗するが男の力は強い。隼は笑っていなかった。男の充血した赤い目は、発情期の獣の目だった。冗談じゃない。やめて。耳鳴りが止まらない。ざぁーざぁーと激しい雨の音が耳の中にこだまする。すっと手が冷え、足先からじわじわと恐怖が這い上がってくる。怖い。
「やめて……怖い」
 自分でも聞き取れないほど小さな声で、か細い言葉が漏れた。自分の体が自分のものじゃないみたいだ。雨の音と草の匂いに覆われる。雨の中、ひっくり返っている赤い傘が見える。これは過去だ。現実だ。サイレンが聞こえる。これは幻聴だ。嘘だ。冷たい雨と赤い傘。溢れそうな濁流。忘れられない感触とピンクのミトン。やめて。やめて。やめて。怖い。怖い。怖い。怖い。これ以上、耐えられない。逃げられない。怖い。助けて。誰か助けて。
 もがくように拒絶する私に構わず、隼が私のスウェットのウエストに手をかけた瞬間、ひゅーっと息を吸ってから私は、夜を裂くような悲鳴をあげて気を失った。

 さこ……っかり……さこ……
 頬を叩かれる感触がする。遠くから呼んでる声がする。
「沙湖! しっかりして、沙湖!」
 ゆっくり目を開けると、眩しい電気を背負って、真剣な顔をした千波がいた。
「千波……?」
「あー、良かった。気がついた? 大丈夫?」
「うん……」
 大げさに肩を上下させて、千波は大きく一つ息をはき、「良かった」と言った。
「目が覚めなかったら救急車呼ぶところやったわ」と、弱弱しく笑った。
 私は全身にびっしょりと汗をかき、床に横たわっていた。喉がカラカラだ。少し離れたところで、壁によりかかり、隼が立っていた。
「芽衣から電話きたんだよ。男の子と一緒にいるはずなんだけど、沙湖が気絶しちゃったらしいって」
 千波の説明で、私はようやく状況を理解し始めた。隼に押し倒されて気を失った私に驚き、隼が芽衣に連絡をとり、芽衣が近所に住む千波を呼び出したのだ。きっと救急車を呼んだら、自分に何かしらの嫌疑がかかると危惧したのだろう。男女二人きりで部屋にいて、女が気を失ったのだ。男は何か疑われても仕方のない状況だ。隼は、とっさの計算で、芽衣に連絡をとったのだ。
「じゃ、俺帰るから」
 隼はボソッと言うと、私の顔を見ず、玄関を出て行った。その声は、苛立ちと、戸惑いと、怯え。全てを集約したような声だった。きっともう隼から連絡は来ないのだろう。私も、会いたくなかった。
「汗かいて、体冷えたでしょ。大丈夫そうなら、シャワー浴びたら? あったかいお茶淹れておくよ」
 そう言ってやかんを火にかける千波は、何があってこんなことになったのか、聞かずにいてくれた。私はのろのろと立ち上がり、着替えを持って脱衣所まで行き、汗で冷えた服を脱いだ。冷たい自分の体を両腕で抱きかかえる。最近良いことが多いなんて、調子に乗っていたらこのざまだ。人生はおしなべたら平等だなんて言った奴、誰だ。あの日、美湖ちゃんに、合コンに行くことを言わないでおいて良かった。私みたいな人間がのうのうと生き永らえていること自体、間違った世の中だ。やはり私に恋なんて無理なんだ。悲しみと恐怖と悔しさで、まだ足が震えた。

四章 十六年前・沙湖十四歳


 窓から雨の気配が侵食している。机も床も黒板も、教室全てがしっとりと湿気を含んでいる。吸気までも雨に満ちてゆく、鬱陶しい春の長雨。先週私は誕生日を迎え、十四歳になった。あの日の美湖ちゃんと、同じ年。
「おー、静かにしろ。授業始めるぞ」
 担任の先生が教室に入ってきて、ざわざわしていた教室が少しずつ静かになる。外では相変わらずしっとりと糸雨が降る。「卯の花腐し」この前、国語の授業で習った。梅雨に入る前の長雨は花を腐らすんだって。雨は人も腐らす。私は雨が嫌いだ。
 やる気はないけれど、仕方なく教科書を開く。教科書の紙まで雨を吸って湿っている気がする。ここから何を学ぼうと、私には何の価値もないように思える。

 中学校は、昼食の時間が一番憂鬱だ。食べるのが怖い。怖がって食べられない自分も嫌いだし、叔母さんがせっかく作ってくれたお弁当を眺めるだけ眺めて、結局毎日捨てている自分も心底嫌いだ。お弁当箱の蓋を開ける。今日はご飯の上に桜デンブが乗っていてきれい。卵焼きには、細かく刻んだ枝豆が入っていて色取りが豊かだ。ほうれん草は胡麻和え。その隣に、一口サイズのハンバーグ。
箸で表面をつつきながら、どうしたら食べられるのか考えてみる。卵焼きを箸で割ってみる。ミルフィーユのように美しい断面。枝豆の青柳色が映える。食欲をそそるはずの光景。箸で卵焼きを挟むと、むっという弾力。ゆっくり口に近付けてみると、ふっと甘い匂いがして、その瞬間、喉に苦いものがこみ上げてきた。唇を噛んで息をはく。
 食べられない。今日も食べられない。食べたくない。
「沙湖、食べないのー?」
 机をくっつけて一緒にお弁当を食べていたユイが話しかけてくる。
「うん、食欲なくて」
「ダイエット? 沙湖は十分痩せてるから、少しは食べたほうがいいんじゃない?」
「うん、そうだね」
「これ、超おいしそう! 一個もーらい」
 ユイは私のお弁当箱から卵焼きを一つ箸で刺して食べた。
「うまー! 沙湖のお母さん、超料理上手」
 邪気のない友達というのは本当に大事だ。人畜無害。友達は、それに尽きる。ユイとは毎日お弁当を一緒に食べるし、教室の移動も一緒に行くけれど、私の母がもう死んでいて、叔母さんが母代わりであることは話していない。友達なんて、その程度の仲のほうが、過ごしやすい。
 ユイが食べた卵焼き以外、結局手をつけられなかった。毎朝、叔母さんが作ってくれていることを考えると、申し訳なくて居たたまれなくて、私なんかいなくなったほうがいいんじゃないかと思う。私がいなくなったら、ユイは泣いてくれるかもしれない。叔父さんも叔母さんも悲しむだろう。でも、美湖ちゃんは悲しむより先に、傷付くだろう。そう思うと私は、決して自分では死ねないのだ。いつか長雨が花を腐らすように、この体が朽ちていくのを待つしかない。できれば早めに朽ちてほしい。もしくは、通学中に車が私に突っ込んで、不慮の事故というのもありだ。親を交通事故で亡くしておきながら不謹慎なことを考えると怒られそうだけれど、本当に思ってしまうのだから仕方ない。そう思いながら、教室のゴミ箱にお弁当を捨てた。
 それから急いでトイレの個室に駆け込む。ブラウスのボタンをはずし左肩を露わにする。そこにカッターナイフで一本細い傷をつける。刃が皮膚を裂く瞬間、一瞬だけキリっと痛い。そのあとは、手の指先がさーっと冷たくなるような、ふわふわした気分。ハンカチで傷を覆ってブラウスを直せば、何もなかったのと同じ。毎日一本ずつ増える、誰にも見えない、私だけの罰。
 家でも私はほとんど食べない。ときどき食べても、隠れてすぐに吐いてしまう。特に十四歳になってからは、ほとんど食べていない。あの日の、十四歳だった美湖ちゃんの言葉の意味を理解してから、私は食事がとれない。叔父さんも叔母さんも、すごく心配しているのはわかっている。でも、食べられないのだ。
 学校の帰り道。パトカーのサイレンが聞こえて一瞬身をすくます。私は自分の汚れた手を制服のポケットに突っ込んで、俯いて速足に歩いた。

 夜、部屋で漫画を読んでいると叔母さんが来て「ちょっと話していい?」と言われた。食事のことだとはすぐにわかった。叔母さんは、食べなくなった私が、まだ何とか飲んでいるアイスティを持って、部屋に入ってきた。小さなテーブルに二人で並んで座る。
「沙湖は、どうしてご飯を食べなくなったの?」
 叔母さんは静かに言った。怒っているというより、悲しんでいるように見えた。
「わからない」
 下を向いて答える。
「叔母さん、いろいろ調べてみたの。そしたら、沙湖と同じくらいの年齢の女の子が、食事をとれなくなるのは、よくあることなんだって。神経性食欲不振症っていうんだって」
 思春期特有の精神的なバランスの不安定さからくるものらしい。私も、そのくらいは自分で調べた。
「食べられなくなる原因はね、母子関係に何か問題がある場合が多いんだって。叔母さん、知らなかった。見放すのが行けないのかと思ったら、過保護、過干渉っていって、構いすぎるのも良くないんだって」
 そうなんだ。そこまでは知らなかった。
「ごめんね、沙湖」
 えっと顔をあげる。
「叔母さん、ちゃんと沙湖のお母さん代わり、できてないんだなって、反省した」
 弱弱しく微笑む叔母さん。違う。叔母さんのせいじゃない。
「このパンフレット、良かったら見てみてね。無理にとは言わないけど、叔母さんも叔父さんも、沙湖の力になりたいと思ってるから。じゃ、おやすみ」
 穏やかに言うと、叔母さんは部屋を出て行った。テーブルに小さな冊子が置かれている。淡い水色のパンフレットで、手にとってみると心療内科のものだった。冊子を開くと、摂食障害の若い女性向けの外来が充実していると紹介されていた。
「叔母さんのせいじゃない。いつも感謝してる」
 言えなかった言葉を口にした途端、涙が溢れてきた。苦しい。心も体も苦しい。こんなにありがとうって思っているのに、態度で示せなくて悔しい。苦しい。私は膝を抱えて、しばらく泣いた。

 病院には叔母さんが付き添ってくれた。私が「病院に行ってみる」と言うと、叔母さんは明らかにほっとしたような顔をした。自分だけではもう、この日に日に痩せ細っていく姪を、どうすることもできないと悩んでいたのだろう。私にしたって、自分自身が受診したいと思ったから、というわけではなく、叔母さんにこれ以上心配をかけたくない、という気持ちから受診を決めたのだ。
 待合室は全体的に淡い水色に統一されていて、花が飾ってあって、静かにクラシックが流れていて、病院というより、お洒落なカフェみたいだった。待合室には、私と叔母さんの他に、痩せ細った同い年くらいの女の子と、母親らしき女性がいた。私もあの子と同じくらい痩せて見えるのかな、と思うとぞっとするくらいその女の子は痩せていた。ミイラみたい。そう思うほどだった。自分の腕を見てみる。同じくらい細いだろうか。いや、私のほうがまだマシだ。私のほうが、軽症だ。あんなミイラではないはずだ。そう思う一方で、私もあの子と同じくらいミイラなんだと思うと、安心している自分もいる。きっと人から見たらひどく痩せたミイラで、ぞっとするくらい気持ち悪いに違いない。ミイラみたいな女は魅力がない。それでいい。それがいい。
 番号が呼ばれて診察室に入る。優しい感じの、女の先生だった。
「こんにちは。酒井さかいと言います。水島沙湖さん、ですね」
「はい」
 私は先生と向かい合って椅子に座って、叔母さんは少し後ろの椅子に座った。
「心療内科は初めてですか?」
「はい」
「じゃ、いくつか聞きたい事があるから、答えられることだけ、答えてもらっていい?」
 穏やかな口調の先生は、さっき待合室で私が書いた初診票を見ながらゆっくり話した。
「食べられなくなったのは、中学に入ったころからって書いてあるけど、突然だったのかな? 何か思い当る原因がある?」
「原因……ですか。突然パタリと食べられなくなったわけじゃないです。少しずつです。なんとなく食欲のない日が増えて、なんていうか、よくわからないんですけど、少しずつ食べる量が減った気がします」
「そうですか」
 にっこり微笑む先生。こんなに毎日微笑み続けたら、表情の筋肉鍛えられそうだな、と白けた気持ちがした。
「えっと、叔母さま、なんですね」
「あ、はい」
 先生が突然叔母さんに話しかけたから、叔母さんはびっくりしていた。
「まず沙湖さんと二人で話してもいいですか?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 叔母さんは深く頭を下げて、診察室を出て行った。先生は改まって私に向き直った。
「水島さんのご両親は、他界なさってるんですね」
 タカイという言い回しに聞きなじみがなく、何を聞かれたのか一瞬わからなかった。
「タカイですか」
「えっと、亡くなっているのですね」
 あぁ、死んでいることをタカイというのか。
「はい。私はとても小さいときだったので、ほとんど両親のことは覚えていません。姉は覚えているみたいですけど、私は叔母さんのことをお母さんみたいに思っています。叔母さんは、あなたたちの母親は世界に一人よ、って言って、お母さんって呼ばせませんが、私にとっては親と同じです」
 両親が死んでいることと私が食事を摂れないことは関連がない、と言いたい。私は両親の死を悲しむほどの年齢ではなかったし、その点においては、姉のほうが辛かっただろうと思う。二歳と六歳では、大きな差だ。
「叔母さんとは、仲が良いですか?」
「はい。いつも心配ばかりかけて申し訳ないと思っています。今回だって、私のことを本当に心配して病院に連れてきてくれたんだとわかっています」
「そうですか。叔父さんはいかかですか?」
「叔父さんもそうです。叔父さんはあんまりお喋りな人じゃないですけど、私のことも姉のことも、本当の娘みたいにかわいがってくれてると思います。私が今日病院に来るのに、本当は叔父さんも一緒に来るって言ったんです」
 私は、思い出して急に心細くなった。
「俺も行く。実際に先生に会って本当に信用できる医者かどうか確かめないと、沙湖を任せられるのか、心配じゃないか」
 昨日叔父さんは、叔母さんに詰め寄るように言っていた。
「そんなこと言ったって、あなた会社はどうするのよ」
「そんなの、いくらでも休める」
 叔父さんの不器用な愛情が、急に胸を圧迫した。叔父さんも来てくれて、私は全然構わなかった。
「けど、叔母さんが、デリケートな問題なんだから、二人で一緒に行ったら沙湖にプレッシャーがかかるって、心配してくれて。結局叔母さんと二人で来ました。叔父さんと叔母さんには、本当に感謝しています。だから、できれば……食べられるように……なりたいです」
 早く帰りたい。こんなところで白衣の先生に話を聞いてもらったって私の問題は解決しない。叔母さんは何で部屋を出されたんだろう。叔母さんに言えなくて先生にだけ言える話なんて、私にはない。早く帰って、叔父さんと叔母さんと美湖ちゃんと、私の家族と一緒に過ごしたい。
 そのあとまたいくつか質問をされて、私は解放された。かわりに叔母さんだけが部屋に呼ばれて、私は待合室で待たされた。叔母さんは、私には言えないけれど先生には言えることがあるのだろうか。さっきまで待合室にいた女の子と母親らしき人はいなくなっていた。会計を済ませて帰ったのだろう。あの女の子と私は、人から見たらかわいそうに見えるのだろうか。食事が摂れなくて、痩せ細って、病院に来て、かわいそうな人なのだろうか。
 神経性食欲不振症は、「認知の歪み」が起こるとパンフレットに書いてあった。自分は平均よりずっと痩せているのに、痩せていると感じない人が多いらしい。「まだ太っている、もっと痩せなきゃ」と思ってしまう。それが「認知の歪み」というのだと、初めて知った。
 私は、自分が痩せていないなんて思っていない。まだまだ太っているからもっとやせなきゃ、なんて思っていない。自分は十分に痩せているし、そのせいで初潮が来ていないことも理解している。さっき先生に「思春期に痩せすぎていると、初潮も遅れるし、大人になってからも婦人科系が弱くなる」といった内容のことを言われた。そうなのかもしれない。でも、私には関係ない。初潮なんて来なくていいと思っている。私は、自分を太っていると思っているわけでも、母や母代わりの叔母さんとの関係性によってストレスを感じているわけでもない。
 私は、ただ大人になりたくないだけだ。
 やっと診察室から叔母さんが出てきた。何時間も一人で待っていた気分だったけれど、ほんの十分くらいだったみたい。叔母さんは私の隣に座って、私の耳元に口を寄せて「先生の笑顔、ちょっと嘘っぽかったね」と言ってニヤニヤした。私は、全く同じことを考えていたことが嬉しくて、「あんなに笑ってたら顔の筋トレになりそう」とコソコソ返事をした。それを聞いてふっと吹き出す叔母さんは、病院に来る前より何か吹っ切れた様子に見えて、もしかしたら受診が必要だったのは叔母さんのほうだったのかもしれないな、なんて勝手に思ったりした。失礼な話だけれど。
 貧血や体力の補充などに使われるらしい漢方薬を処方されて、私は病院を後にした。
 晩春の日差しは明るくて、私は世界が眩しすぎるように感じた。
「外はずいぶん明るいのね」
 叔母さんも眩しそうに目を細めて、街路樹の新緑を眺めた。
「ねえ、沙湖は食べなくていいからさ、叔母さん行きたいお店あるんだけど、寄っていい?」
 昼食に少し早いくらいの時間だ。
「うん、全然いいよ」
「じゃ、行こうか」
 私たちは、心療内科の帰りとは思えないような軽い足取りで、叔母さんが行きたがっていたカフェまで歩いた。木漏れ日はチラチラと光り、風に甘い花みたいな香りが混じっている。春特有の匂い。春は美しすぎてあまりある。
 叔母さんが注文したパスタはさすがに食べようと思わなかったけれど、ホットハーブティはとても美味しくて、私が気に入ったことを叔母さんは喜んでくれた。帰りにティーバッグを買ってくれた。明日から、家でもこれが飲めると思うと、ちょっと嬉しかった。

 夏休みになって、叔父さんの実家がある北海道へ旅行に行くことになった。相変わらず私はあまり食べなかったけれど、春よりはマシになった。心療内科はあれから月に一回のペースで行っていて、張り付いた笑顔の先生は、実は話しやすくて優しいことがわかった。初診のときみたいな、筋肉痛になりそうな笑顔ではなくなっていて、先生自身も初診の患者は緊張するのかもしれないな、と思ったりした。漢方薬はもっと苦いかと思っていたけれど、苦みの中に甘さがあって、毎日飲んでも苦痛はなかった。
 病院に定期的に通っていること、漢方薬を飲んでいること、叔母さんが時々買ってきてくれるハーブティを私が良く飲むこと、春と比べたら少しずつ食べるようになったことなどが、叔父さんと叔母さんを少しでも安心させているなら、私は多少の我慢は必要だと思った。本当は食べたくないけれど、食べないことは家族を悲しませることになる。そう言い聞かせて、自分の許容と妥協のちょうど真ん中を探す。それで私は、必要最低限の栄養をなんとか摂ることができた。それでも、私は普通の女子中学生のようにムチムチと太ってはいかないし、相変わらず初潮も来なかった。それでも、傍から見れば、春よりは全然マシだった。

 叔父さんの実家は中標津にあるのだけれど、せっかく長めの休みがとれたから、と知床まで足を伸ばすことにした。中標津の、叔父さんの実家には、子供の頃によく遊びに行った。「おばあちゃんち」という感覚だったが、よく考えてみれば、私と叔父さんは血が繋がっていない。だから、叔父さんの母親は私の祖母ではないのだ。けれど、本当の孫のようにかわいがってもらった記憶しかない。
 中標津空港からレンタカーで知床方面へ向かう。空港を出て少し走ると、もう建物は全くなく、ただ広い大地が広がっているだけだった。離れたところにある防風林の横に、大きな鹿がいた。立派な、威厳のある佇まいで、すっくと立っていた。黒くて大きな鹿に、私は憧れた。少し湿った密度の濃い黒い毛。大きな角。生命力のみなぎる瞳。自然の中で、あんなに堂々と、生きている。生きていることに何の不思議も感じず、自分の生をまっとうしている。私もあんな風に自分の生を誇れたら、どんなにか素晴らしいだろう。

 知床半島を横断し、ウトロ側へ行く。車で走るうち、鹿は何頭も見た。どの鹿もかわいらしくて、威厳があった。防風林にいた鹿より小ぶりに見えた。メスなのかもしれない。だんだん驚かなくなるほど鹿に遭遇し、自然の豊かさを感じる。車は、知床五湖という湖が見られる場所に着いた。
 五湖のうち、ガイドなしでも見られる一湖を目指して高架木道を歩く。知床は北海道でも有数のヒグマの生息地で、ヒグマの暮らす環境を壊さないように、そして人間と共存していけるように、さまざまな工夫がされている。この高架木道もその一つで、地面から浮かせて組んである木製の遊歩道の上を私たち人間は歩く。ヒグマは地面を歩く。そうやって住み分けて、お互いの縄張りを侵さない。それは自然に対する敬意の現れだし、同じ地球に住む生き物として当然のことに思えた。
 高架木道の白い木の手すりを握る。眼下には笹みたいな植物が生い茂っている。少し遠くを見ると、森と山。そして広くて水色の透明な空。空に向かって深呼吸する。土と草と、あと嗅いだことのない良い匂いがする。爽やかな、軽やかな、花の蜜みたいな少し甘い匂い。
「ねえ、なんか良い匂いするけど、何の匂い?」
 北海道出身の叔父さんに聞く。
「良い匂い? どんな?」
「なんていうのかな、爽やかな、ちょっと甘いみたいな、花みたいな、葉っぱみたいな匂い」
 叔父さんは少し顔を空に向けて、深く鼻から息を吸う。
「あぁ、これは木の匂いだよ」
「木?」
「うん。マツが多いんじゃないかな。トドマツとかアカエゾマツとか、そういう針葉樹の木の匂いだよ」
「木なのに、こんなにいい匂いするの?」
 私は思い切り静謐な木の匂いを吸いこんだ。爽やかで少し甘い針葉樹の匂い。話を聞いていた美湖ちゃんも、少し顔を上に向けて深呼吸をしている。
「ほんとだ、なんか良い匂いするね」
 美湖ちゃんが上を向いたまま言う。
「空気の匂いの違いにすぐに気付くなんて、沙湖は感受性が豊かだな」
 叔父さんが私の頭をぽんと撫でてくる。叔父さんの大きな手のぬくもりを頭頂部に残したまま、私は高架木道の手すりに胸を押しつけて下を覗き見る。ヒグマと共存するための工夫なのだけれど、この高架木道にはヒグマよけの電流柵がついているらしい。人間だけ科学に頼るなんて卑怯だな、と少しだけ思った。でも、ヒグマに遭遇したら、やっぱり怖いだろう。人間は非力だ。そのための科学だ。お互いが安全に共存するためには、必要な科学なんだろうな、と自分を納得させた。
 このまま歩いていくと知床五湖の一つ、一湖が見られるらしい。

 車で羅臼方面へ戻る。水平線からの朝日が見たい、と言った美湖ちゃんの意見で、泊まるところは羅臼側に決まっていた。旅館に着いて荷物を降ろす。部屋のベランダから海が見えた。
 爽やかな針葉樹の匂いのかわりに、懐かしいような潮の匂いが流れてくる。私は海の近くで育ったわけではないのに、潮の匂いに懐かしさを感じる。前世は魚だったりして。そう思うと、陸地が息苦しい理由もわかってくる。もともと魚だったのなら仕方ない。
「そんなわけないのにね」とつぶやくと、美湖ちゃんに「ん?」と言われた。
「なんでもない」
 美湖ちゃんが隣に来て、並んで海を眺める。
「海、きれいね」
美湖ちゃんが言う。
「うん、きれい」
「私、なんか海って懐かしい気持ちになる」
 え? と美湖ちゃんを見る。
「海の近くで育ったわけでもないのにね」
 そう言って微笑む美湖ちゃんの長い髪を潮騒色の風が撫でて去る。私と美湖ちゃんは、やっぱり姉妹なんだ、と体で感じた。流れている血液が同じ色に違いない。きっと、この海みたいな、真っ青な血液だ。私の血は赤くない。きっと美湖ちゃんも同じはずだ。

 旅館の夕飯は、バイキング形式のカニ食べ放題だった。会場に着くと、カニ料理が所せましと山積みにされていて、私は思わず足を止めた。子供の頃、私はカニが大好きだった。カニに限らず、エビや貝などの海鮮が大好物だった。それを思い出して、何とも言えない嫌な気持ちがした。叔父さんと叔母さんは、私が、好きなものなら食べると思ったのだろうか。食べ放題なんて、今の私には地獄ではないか。食べられないって知っているのに、食べ放題に連れてくるなんて、ひどいよ。
 でも、食べないわけにはいかない。意地悪でやっているわけじゃないんだ。良心でやってくれていることを、拒否できるほど私は強くない。それでも、足取りは重かった。そんな私に、叔母さんは近づいてきてそっと優しく耳打ちした。
「沙湖。食べ放題ってことは、食べない放題でもあるんだよ」
「え?」
 叔母さんは微笑んでいた。
「食べたいだけ食べればいいってことは、食べられない分は食べなくていいってこと。食べる量も食べない量も、自分で決めていいってことなんだよ」
 叔母さんに言われて、私ははっとした。好物で誘って、私にたくさん食べさせたいのかと思った。でも、バイキングは「出された食事を残すという精神的にしんどい行為」をしなくていい、という私にとって最適な食事だったのだ。食べ物を残す罪悪感を、私は叔母さんのお弁当でそれこそ死ぬほど感じてきた。食べ物を捨てるたびに増えていた肩の傷は、もはや数えきれない。そんな私なんかよりずっと、私自身のことを考えてくれる家族に、私は何をすればいいんだろう。叔父さんも叔母さんも、そしてたぶん美湖ちゃんも、わかっていてこの旅館に決めたんだ。私はぐっと唇を噛んだ。そうしないと、泣いてしまいそうだった。私は最近、泣きそうになることが多い。あの漢方薬は涙もろくなる成分でも入っているのだろうか。カニの山を見て、「わー、すごーい」と歓声をあげている美湖ちゃんと叔父さんに、駆け寄って抱き付きたい気持ちだった。私はいつも家族に守られている。
 叔母さんに言われた通り、私はカニのむき身の入った小さな茶碗蒸しを一つと、カニの足を一本だけ食べた。茶碗蒸しは滑らかでカニの出汁がきいていて、とても美味しかった。久しぶりに食べ物を美味しいと思った気がした。カニの足は、ぷりぷりに身がつまっていて、レモンを少しだけふって食べた。子供の頃、北海道の叔父さんの実家からカニが送られてくるたび、私は飛び上がって喜んだ。これは、その味だ。私の、過去の、ずっと昔の、喜びの味。今日は一本しか食べられないけれど、いつかまた、お腹いっぱい食べられるようになる日がくるのだろうか。私は、自分のためにではなく、家族のためにそうなりたいと思った。そして、食べ物を美味しいと思えた気持ちを忘れたくなくて、左肩の無数の傷を、服の上からそっと右手で撫でた。それは、祈りに似た気持ちだった。
 叔父さんは「もうこれ以上は無理だ」と笑いながらたくさん食べて、叔母さんは「こんなに一気に食べて、カニアレルギーにならないかしら」と山盛り食べたあと突然真顔で言い出して、その顔がおかしくてみんなで笑った。手がカニ臭くなった。でも、吐き気はしなかった。私はもう一度、左肩の傷をそっと撫でてから、「ごちそうさまでした」と両手を合わせ、食事をとるということに、感謝した。

「さあちゃん、起きな。日の出、見よう」
 静かな美湖ちゃんの声に目を覚ますと、叔父さんと叔母さんはもう起きて、寝間着の上にカーディガンを羽織っていた。
「沙湖、起きた?」
 叔父さんの優しい声がする。
「うん、起きた」
 美湖ちゃんが返事をして、私は体を起こした。午前四時。
 四人でベランダに出て、まだ暗い空を見つめた。思っていたより寒い。何か羽織れば良かった、と思っていたら、美湖ちゃんが近付いてきて、自分がかぶってきた毛布の中に入れてくれた。一枚の毛布を二人で頭からかぶって、水平線を眺める。真っ暗から、ゆっくり薄ら明るくなっていく海と空の境界線。空気は透明に冷えて、朝日は少しずつ少しずつ世界を白く染めて行った。
「きれいだね」
 美湖ちゃんが言う。耳元で、毛布の中でくぐもった声は、とても穏やかで、優しい声だった。
「うん、きれい」
「北海道、来て良かったね」
「うん、良かった」
 少し黙ったあと美湖ちゃんは、毛布の中で痩せ細った私をそっと抱きしめて、小さな声で「大丈夫だよ」と言った。
「さあちゃん、大丈夫だよ。大丈夫だから、一緒に大人になろう」
 私は何も言えなかった。私が食事を摂れない理由も、原因も、恐怖も不安も、姉は全てわかっている。その上で、姉は、大丈夫と言ってくれた。
 一緒に大人になろう。
 こんなに心強い言葉はなかった。私はまた泣きそうになった。美湖ちゃんがいてくれて良かった。美湖ちゃんがいなかったら、私は死んでいたかもしれない。そして、叔父さんや叔母さんを悲しませたかもしれない。でも、姉の言葉は強い。強いと同時に、私の覚悟を決める決定的な言葉になった。
 私がいつまでも食べないで、大人になることを拒んでいたら、一番つらいのは姉であることに、私は気付いていなかったのだ。私が食べないことで、どんどん痩せ細っていく中で、美湖ちゃんが自分を責めていたとしたら、私はなんてひどいことをしていたのだ。私は、健康でなければならない。ちゃんと食べて、肩に傷なんかつけないで、大人になることに向き合わなければいけない。それが、私が姉にできる最大の感謝の伝え方なんだ。
 美湖ちゃん。名前を呼ぼうとしたら、涙が出てきた。どんどん出てきた。何も言えず、美湖ちゃんに抱き付いて、しくしく泣いた。一度泣き出すと涙が止まらなくて、ひっくひっく言いながら泣いた。その声は、一緒にベランダにいる叔父さんにも叔母さんにも聞こえているはずなのに、誰も何も言わずにいてくれた。私は今まさに一日が始まろうとしている早朝のベランダで、子供みたいに泣いた。

五章 二十年前・沙湖十歳


 終業式の日は、よく晴れていて、体育館の窓から見える空はきれいな水色。雲が一つもなくて、こういう日は遠くまで景色が見えるから好きだな、と思いながら校長先生の話を聞いている。明日から冬休み。
 クラスの友達にしばらく会えないのはつまらないけれど、年越しは北海道のおばあちゃんちに行くから、楽しみ。宿題の絵は北海道で描こう。おばあちゃんのいる「ナカシベツ」は、冬は信じられないくらい雪が積もっている。東京にいたら見られないほどの雪だ。北海道の雪景色を絵に描いたらきっときれいに違いない。
 おばあちゃんちは、家の玄関のドアが二重になっている。玄関の中にもう一つドアがある。部屋が冷えないような対策らしい。東京の家とは全然違う。ストーブも大きくて、部屋の中はとても暖かい。外は「ごっかん」だ。「ごっかん」って、すごく寒いことを言うんだって、去年、美湖ちゃんが言っていた。
 終業式が終わって、教室に戻ると、先生が宿題や冬休みの過ごし方の話をする。私は席について、エゾリスのことを思い出す。去年見た、かわいいリス。おばあちゃんちの台所の窓から、すぐ裏の林が見えて、雪で真っ白な木の枝に、リスがいた。叔母さんがすぐに教えてくれて、私と美湖ちゃんは走って台所に行った。リスはふわふわしていて、とてもかわいかった。きょろきょろしながら木の枝につかまっていて、次の瞬間にはパッとすごい速さで木を登っていっちゃった。今年も会えたらいいな。
 おばあちゃんちの、家の裏は全部林だ。広くてどこまで続いているかわからない林。たぶんその先は森。「北海道は広いから」って叔父さんはいつも言うけれど、本当に広いなあと行くたびに思う。だって、お隣の家までも何メートルも距離がある。
 リスのことを考えていたら先生の話が終わった。私は、終業式の日までに持ち帰っておかなければならなかった荷物で溢れたロッカーを、ぼんやり眺める。こんなにたくさん、何が入ってるんだろう? 美湖ちゃんみたいにお片付けが上手なら良かったな、と思うけれど、苦手だから仕方ない。美湖ちゃんは「さあちゃんにはさあちゃんの、良いところがあるよ」って言ってくれるから、それを信じることにしよう。
 とりあえず、宿題に必要な絵の具のセットだけは持って帰らなきゃ。北海道で絵を描くのが楽しみだ。エゾリスに会えたらリスの絵も描こう。真っ白な世界に小さなリス。北海道は広いから、きっと私もリスくらいに小さな生き物になれる。そんな絵を描くのも、楽しそうだ。
 たくさんの荷物を抱えて歩いて帰る。川沿いは風が冷たくて寒かった。みんなあんまり荷物を持っていない。終業式までに、計画的に持って帰っていたにちがいない。ぬけがけってやつだ。ずるいな。私は一度、絵の具セットの入った手提げを降ろして休憩する。川沿いの道に、「へんしつしゃ、ちかん、注意」という看板が立てられている。そういえば、先生が、「最近ふしんしゃがいるので気を付けて」と言っていた気がする。「ふしんしゃ」って「へんしつしゃ」と同じかな。びゅっと風が吹いて川の表面が波立つ。私はまた荷物を持って歩き出した。美湖ちゃんはもう帰ってるかな。

 年末。昨日から降り続いている雨は弱まる気配がなく、雨音の激しい朝。冬の雨は空気が冷たくて気持ち良い。私は、美湖ちゃんと一緒に朝ごはんを食べている。
「明日から北海道のおばあちゃんちだから、冬休みの宿題、持っていって向こうでやれるように、荷物まとめておいてね」
 叔母さんはパートに行く準備をしながら声をかけてくる。
「うん、わかってるよ」
 美湖ちゃんはパンを食べながらうなずいた。
「沙湖もね」
 叔母さんに言われたとき、私は冬休みの宿題って何があったけ? と思い出しているところだった。計算ドリル、絵日記……
「あっ!」
 私が大声を出すから叔母さんも美湖ちゃんもびっくりして私を見た。
「どうしたの、沙湖」
 叔母さんは雨合羽を着ているところだった。パート先のスーパーまでは自転車なのだ。こんな大雨じゃ、合羽を着なきゃびしょ濡れだ。
 私は思い出したことがあって、自分の部屋に走った。
「沙湖?」
 叔母さんの声がする。私は荷物を確認しながら、あーやっぱりない、と落胆した。とぼとぼとリビングに戻る。
「冬休みの宿題、書初めあるの忘れてた」
「道具がないの?」
「うん。たぶんロッカーに忘れてきちゃった」
 終業式の日は、絵のことばかり考えていたから、書初めのことをすっかり忘れていた。
「美湖に借りればいいじゃない」
「うん、習字道具ならあるよ。私も書初めの宿題あるし」
 美湖ちゃんはパンをかじりながら言う。
「けど、半紙も、お手本も全部忘れてきちゃってる」
 テーブルに戻って、温かい牛乳を飲みながら言う私に、叔母さんは呆れている。
「叔母さん、もう仕事だから一緒に学校まで取りにいけないよ?」
「うーん、どうしよう」
 考えながらトーストをかじる。温かい食パンに、叔母さんの手作りマーマレードをたっぷり塗った。買ったやつは苦いけれど、叔母さんのマーマレードは甘酸っぱくてとても美味しい。叔母さんは料理上手だ。
「私が行くよ。ね、さあちゃん、ごはん食べたら学校まで一緒に行こう」
「美湖ちゃんと?」
「うん」
「美湖、行ける? ごめんね、じゃ、お願いしちゃおうかな。雨すごいから、二人とも気を付けて行ってね。川とかあんまり近づかないでね。あと最近不審者の目撃情報あるから、二人とも防犯ベル持っていってね。あぁ、叔母さん遅刻しちゃう」
 叔母さんは慌ただしく雨合羽を着て、玄関に駆けて行った。
「叔母さんも気を付けてね」
「いってらっしゃい」
 二人で叔母さんを見送って、また朝食の続きを食べた。

 朝食を終えると、美湖ちゃんが「じゃ、学校行こうか」と言うから、私はお気に入りのピンクのミトン手袋をつけて、長靴を履いた。美湖ちゃんはお気に入りの赤い傘。休みの日に美湖ちゃんと二人で学校に忍び込むなんて、なんだか楽しい。
 外は思っていた以上に雨が強くて、跳ねた雨が道路に白くしぶきを作っている。大雨は冒険みたいで好きだ。わくわくする。台風の日みたい。でも、美湖ちゃんはあまり好きじゃないみたい。靴が濡れるから、と言っていたけれど、だったら私みたいに長靴をはけばいいのに。美湖ちゃんは最近叔父さんに買ってもらったヒモの多いブーツを履いていた。あみあげ、というらしくて、美湖ちゃんのお気に入りだ。私はわざと水溜まりの中に飛び込んで、美湖ちゃんに「さあちゃん、服汚れるよ?」と注意された。
 学校までは歩いて十分ほどだ。誰もいない校門に入る。校庭にベージュ色に濁った水溜まりができて、水面の波紋が広がる間がないほど、雨が降り続いている。下駄箱について、美湖ちゃんのあみあげブーツは脱ぐのが大変だから、私は美湖ちゃんに「すぐ取ってくるから、ここで待ってて」と言った。
「一人で大丈夫?」
「うん」
 私は姉を下駄箱で待たせ、教室へ向かう。上履きがないから、靴下越しに廊下の冷たさが伝わって寒い。誰もいない学校は静かで不気味だ。こんなときに限って、急に友達から聞いた怖い話を思い出した。髪の長い女の人が四つん這いで、廊下を猛スピードで追いかけてくるという話だ。聞いたときは、そんなのあるはずないじゃん、って笑ったけれど、雨音の響く冷えた廊下にいると無性に怖くなり、速足で教室へ向かった。
 ロッカーを見ると宿題の半紙や習字セットがあった。
「良かったー」
 私は習字セットをまとめて抱え、姉の待つ下駄箱へ急いだ。

 下駄箱に姉の姿はなかった。
「美湖ちゃーん?」
 長靴を履いて外に出てみる。いない。おかしいな。一人で帰っちゃうはずないのに。
 周囲を見渡すけれど、いない。よく見ると、少し離れたところ、学校の裏門へ続く道の途中に、開いたままの赤い傘が落ちている。姉の傘だ。駆け寄ってみると、傘の骨が一本折れてしまっているし、傘の持ち手が水溜まりに浸かっている。いつもしっかりしている美湖ちゃんらしくない。
 私が傘を拾おうとして屈んだとき、遠くで微かにビービーと音が鳴っている気がした。何の音だろう。雨が強く、ビービーという音はかき消されそうだ。私は傘を拾って、微かに音がする方へ歩く。それは、学校の裏門のほうから聞こえている。
 裏門を出ると、細い道を挟んですぐに川だ。足首くらいの長さの草が生えた土手があって、川には橋がかかっている。車が一台通れるくらいの、小さめの橋だ。川は水かさが増して、茶色く濁っている。
 その川のほうから、ビービーという音が聞こえる。川の流れる音が大きく、ビービーという音は聞こえにくかったが、微かに、でも確かに聞こえる。
「美湖ちゃん?」
 私は恐る恐る川に近づく。長靴で土手の草をかきわけて歩く。草の生えた土手と川の間にあるコンクリートの道に立つ。橋の下からビービーと音が聞こえる。低い暗い橋の下、砂っぽいコンクリートの上で黒っぽい何かが動いている。その横に、白い柔らかそうなものが見えた。それが何かわかった瞬間、ひっと声にならない叫びが体中を駆け抜けた。
 それは、抑えつけられてもがいている美湖ちゃんと、上から覆いかぶさるように体重を乗せている大きな背中。黒いジャンパーの男。白い柔らかそうなものは、美湖ちゃんの太腿だった。何が起きているのか理解できなかった。何も考えられなかった。何あれ、怖い。ビービーという美湖ちゃんの防犯ベルの音と、ざぁーざぁーと耳鳴りのような雨の音だけが低い橋の天井で響いている。
 美湖ちゃんを助けなきゃ。
 真っ白な頭の中に、ざぁーざぁーという雨の音が満タンに溢れて、私の思考は停止した。
 一瞬息を止め、抱えていた習字セットと自分の傘と美湖ちゃんの傘をコンクリートの地面に置いた。
 少し目をやると、コンクリートと草の間に、大きな石が落ちている。両手で持たないと持ち上げられないくらい大きい石。私はそれを拾って両手でしっかりと握りしめる。石は、重かった。手袋越しに、冷たさと硬さが伝わってくる。強く握りしめたまま、黒いジャンパーの男に気付かれないようにゆっくり一歩ずつ近づく。そして、男の頭めがけて、大きな石を力一杯振り下ろした。
 ガッ! という声をあげて、男は前のめりに倒れた。男の頭が赤黒く濡れていく。私は石を足元に投げ捨てた。ガツンと鈍い音を立ててコンクリートの地面に落ちる。お気に入りの手袋に、真っ赤なシミができた。
「美湖ちゃん!」
 私は叫んだ。棒立ちのまま、恐怖と混乱で、何が何だかよくわからなかった。怖い。怖いよ! 美湖ちゃん!
 前のめりに倒れたまま、びくんびくんと変な動きをしている男の下から、美湖ちゃんが這い出してきた。
「さあちゃん!」
 姉は起き上がると私に飛びつくように駆け寄り、抱き付いてきた。
「ありがとう。……何もされてないから」
 姉が小さな声で言った。小さな、でも強い声だった。私には「何も」の意味はわからなかった。
 私は口の中がカラカラで、全身は硬直したみたいにガチガチで、でも足はガクガク震えていた。まばたきを忘れたみたいに目を見開いて、倒れた男を見つめていた。男は、まだビクビクと少し動いていた。手に力が入らなくて、息苦しくて、頭がぼーっとしてきて、少し目の前が暗くなった。姉は鳴りっぱなしだった防犯ベルを、鞄からはずし川に投げ捨てる。そして、私の腕をつかんだ。
「行こう」
 姉は私の腕をつかんで走り出そうとした。私は、腕をつかまれて引っ張られたけれど、その場を動けなかった。男から目がそらせなかった。怖かった。怖くて怖くて、どうしようもなかった。
「こ、怖い……怖いよ。美湖ちゃん、どうしよう……どうしよう!」
 私の声は震えていた。恐怖と興奮でうまく喋れなかった。パニックだった。
 美湖ちゃんはつかんでいた私の腕を離し、私と倒れている男を交互に見た。そして震えている私を、ゆっくり抱きしめた。
「さあちゃん、ゆーっくり深呼吸して」
 耳元でそう言われて、自分が、走りまわった犬みたいに、ハッハッハッと速くて浅い呼吸だけを繰り返していたことに気が付いた。一回ゆっくり息を吸う。それでもまだ胃のあたりが、ヒッヒッヒと細かく震えた。男から目が離せない。
 姉は私から体を離すと、丁寧に自分のスカートやコートについた砂埃を払い、雨で濡れた前髪を指でかき分けた。そして倒れた男をじっと見つめた。男はもう、ぴくりとも動かなくなっていた。姉は、私の両肩に手をおいて、正面から目を合わせて静かに言った。
「さあちゃん。大丈夫だよ」
 美湖ちゃんは男にゆっくり近づいた。少し離れたところから足を伸ばして、男の太腿あたりを一度軽く蹴る。私はどきっとした。男の足は柔らかい人形みたいに、だるんと一度揺れただけで、男は目を覚まさなかった。美湖ちゃんがまた二回太腿を蹴る。男は動かない。美湖ちゃんはゆっくり男の顔をのぞきこんだ。そして、一度橋の天井をじっと見つめてから、一人でうなずいた。
 美湖ちゃんは、男の足首を持った。そして、男を引きずった。川までの、およそ二メートル。私は、男が目を覚ましてまた美湖ちゃんに襲い掛かるのではないかと怖くて仕方なかったけれど、美湖ちゃんは唇をかむようにして、重そうな男を無言で引きずった。私は、これは私が手伝わなきゃいけないことなんだ、と思って、怖かったけれど、ガチガチの体で何とか近寄って、片方の足を持った。重くてだらんとした男の足。美湖ちゃんは私を見て、無言でもう一方の足を持ち、二人で男を引きずった。
 コンクリートの端までくると、美湖ちゃんは「さあちゃん、離れて」と言って、男を両手で押して、川の中に落とした。どぷんと音を立てて、男は川に沈んだ。昨日からの雨で増水した濁流は、男の姿をあっという間に消し去った。まるで、始めから何もなかったかのように。
 姉は、私の汚れた手袋を脱がせてくれた。そして、手袋も川に投げ捨てた。濁流は私のピンク色のミトンも勢いよく飲み込んで、あっという間に下流へと運んで行った。姉は私が使った大きな石も抱えて、川に投げ捨てた。そして、一つ息をはいた。ほんの少しの間、二人で並んで、茶色い川の流れを見つめた。
「手袋、川に落としちゃったって言おうね。叔母さんに、新しいの買ってもらおう」
 私は、黙ってうなずいた。何が起こっていて、自分が、姉が、何をしたのか、脳が理解していなかった。理解することを拒否していたのかもしれない。
「行こう」
 姉に言われて、私たちは歩き出した。冷えた私の右手を姉の左手がきつく握っている。姉の手もひどく冷たく、小さく震えていた。
 さんざん降っていた雨はいつの間にか止んでいた。私たちは、寄り添うようにくっついて歩いた。私はまだ体がガチガチだったけれど、姉に手を引かれていれば、歩いていられた。二人とも無言だった。男のことも、何もしゃべらなかった。でも、さっき起こったことは一生二人だけの秘密。誰にも言ってはいけないこと。そのことだけは、わかっていた。暗黙のうちに、二人で誓い合っていた。
 私は強く姉の手を握り返した。この手だけは離さない。この先何があっても、美湖ちゃんの手だけは離さない。そう決めて、私たちはゆっくりと歩き始めた。



【おわり】

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