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NYの電車でのお話[与えることを]

"Excuse me everyone"

電車で目的地まで向かう途中に男の子がグミの箱を持って乗ってきた。
”Excuse me everyone”と、グミを買ってほしいと話しはじめた。
こんなことはこの街ではよくあること。
特に学校がないであろう土日には。

ベジタリアンの私にとって食べられるグミは限られている。
そのグミは食べられないものだった。
男の子が私の顔を覗き込んで買わないか?と聞いてくる。
買わないごめんねと私は言った。
けれど男の子の目を見てしまった私はもう一度彼を呼んでお金を渡してグミはいらないと伝えた。
彼はありがとうとだけ言って去っていった。

この街では彼のような子供や物乞いをする人は多い。
電車に乗っていれば度々、助けてほしいとお金が必要ですとスピーチをして電車の中を歩く人と乗り合わせる。
お金をあげる人もあげない人もいる。

タイムズスクエアに行けば助けてほしいと書かれた段ボールを前において地面に座っている人を通りすぎる。
妊娠していますと段ボールに書かれていて、そのまま何の変化もなく1年以上も座っている女性もいる。
まだ若くて探せばいくらでも働き口がありそうな人もいる。
彼らをどう思うだろうか。

You never know what the real story is

話を今日電車でグミを売っていた男の子にもどそう。
大人よりも子どもが売った方が売れるだろう。
大人よりも子どもが物乞いをした方が多く受け取れるかもしれない。      弱者に優しいこの国では特に。
それはもしかしたら彼の家族の策略なのかもしれない。
そんなことを彼にお金を渡す時に考えた。
そしてそれでもまあいいじゃないかとも思った。
彼の目を見たときに少し泣きたくなったのである。

私は日本で、ほんの子供が物を売っているところを少なくとも私はみたことがない。こんなに多くの物乞いの人を毎日見ることもなかった。非日常だった。それが2年前からのNY生活がスタートしたことによりよく見かける情景になった。
最初は心が痛んだ。けれどそれが2年も続けば慣れる。
そのことにハッとした。

電車で集めたお金を本当に生きるために使うのかなんてわからない。
中にはクスリに使う人もいるかもしれない。
それでも私には彼らがお金を食料に使うのかクスリに使うのか何につかうのか、そこまでわからない。
それよりも相手を探って疑おうとする自分の心を情けなく思う。

Too late to be sorry

NYにきてすぐにある事件が起こった。
4月のNYは雪が降るほどまだまだ寒い。
その時に住んでいたアパートはタイムズスクエアのすぐ近くだったため、毎日のようにホームレスの方を通りすぎる。お金を渡したりご飯を買ったこともあった。自分のしていることは、その行動に自分が満足するための偽善なのではないかと何度も考えた。それよりも寒い中座り込む彼らを不憫に思う気持ちがその時は優っていた。けれど私にも自分の生活がありたくさんのことはできず、無責任ながら自分の生活が忙しくなるにつれて素通りすることが当たり前のようになった。
ある日アパートの同じエレベーターに乗り合わせた日本人の方の話が耳に入った。このアパートのある通りで1人のホームレスの男性が亡くなったと。まるで崖から突き落とされたような気持ちになった。
エレベーターを降りて部屋に戻ると涙が止まらなかった、私はきっとその方を素通りしていたのだと。助けが必要なことに気づけなかったのだと。

What LOVE is

私には、ご飯もある、服もある、暖かいベッドも、雨風をしのげる家もある。
それなのに自分のことで精一杯になっている場合ではないのだ。
この人は自分があげたお金を何に使うのかと疑ってる場合でもないのだ。必要なのは、ただ助けてと求められた時に手を差し伸べること。何も難しいことではない。
知らず知らずに助けられながら生きている私たちはそれを次の誰かにまわしていかなければならないのだろう。

恋人を愛すること、家族を愛すること、友達を愛すること、そこにもう一つだけ他人を愛することを加えることができたのならここはもっと良い場所になるのだろうと今日の少年の目をみて思わずにはいられなかった。

最後に、ホームレスの方にお金やご飯をあげることが正しいことなのか、そうでないのかは人によって考え方は違うことを解っていただけるとありがたいです。


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