酔って思ったことを連綿と書き残す46「闇市です」
はしがき。
『シン・死の媛』一章の続き、闇市と先生です。
名曲、ラプソディー・イン・ブルーを引用させていただきました。
子どもの頃、私はクラリネット吹きでした。
絶対にこの曲の冒頭、難しいと思います。えっぐい名曲。
元の『死の媛』を、異世界ファンタジーから1938年の架空の国に置き換えるにあたって、この曲をどこかで使いたかったんです。
プロット上では、チョコレイト・ボーイさんは、それほどご活躍する予定ではありませんでしたが、彼の大暴走のおかげで、無事に採用。
代用チョコに関しても、闇市に関しても、ネットの情報を大いに参考にさせていただきました。
ありがとう。いい時代ですね。
桜も、こちらは花吹雪。
六月、D先生の「桜桃忌」に行ってみたいなあ。墓前で煙草吸ったら、怒られますかね。一体、どんな感じなんだろう?
ご存知の方、どうか御教鞭いただけると幸甚です。
次回は、一章のラスト。死の媛と先生です。
ようやく、ご本尊のお出ましです。
*****
觀南マーケットには、『チョコレイト・ボーイ』と呼ばれるおじさまがいます。いわゆる、密売人です。
五百軒ほどの店舗が軒を連ね、或いは青空の下で茣蓙を敷くこのマーケットには、道端で密かに売買する人も少なからず存在します。大概が危ない薬屋さんだけど、チョコレイト・ボーイさんは、偽造チョコレイトの密売人。
偽造チョコレイト自体はマーケットの店舗でも売られていて、飛ぶように売れる人気商品だけど、食べると嘔吐します。
でも、このチョコレイト・ボーイさんの売る偽造チョコレイトは、もじゃもじゃ君たちを健やかに育てる、ほんのり甘くて優しい食べ物なんです。
出会いは、数年前。
その頃のマーケットは、闇市であったことには変わりないけど、国境封鎖前で価格も穏当、ここに来ればなんでも手に入る、楽しい市場でした。
一昔前、燦州内乱収束直後に端を発する、觀南マーケット。
当時のチョコレイト・ボーイさんは、そこで、本物のチョコレイトをこっそりと売っていました。
「チョコレイト、要らない?」
マーケットの長屋で、僕はビールともつ焼きを堪能していました。今ではすっかり、密造酒と謎肉のもつ焼きが蔓延っているけど、当時はどちらも本物で、安く飲み食いが出来る、懐に優しい街だったんです。
彼が売っていたチョコレイトも、偽物じゃなかった。チョコレイトは当時、異国の食材を扱う商店で、ふつうに買うことが出来る食べ物だった。
「要らないです、けど」
あれは、十一月初めの金曜の夜。仕事終わりにハイヤアでマーケットに至り、安酒を引っかけてから、色街に行こうとしていた。お髭の美事なその押し売りに「要らない」と言いながらも、ふと、もじゃもじゃ君たちの顔が脳裡を過ぎった。
それで、立ち去ろうとした密売人の裾を、思わず引き留めた。「幾らなの?」
板チョコレイト一枚、金二十銭也。商店の半分ほどの値だった。残すところあと五枚。
「全部下さい」
密売人、チョコレイト・ボーイさんとの闇取引が、あの日から始まりました。
程なくして、燦州は燦国になり、国境封鎖下になります。
しばらくはチョコレイト・ボーイさんも頑張っていたけど、数ヶ月で在庫が尽きたそうで、次には餅菓子を売り歩いていた。一年ぐらい、餅菓子の密売人でした。
やがて餅米も尽きて、次は豆菓子、山菜、スプウンなど、職を転々とされ、半年前くらいか、偽造チョコレイトの密売人になった。
「試食してくれ」
もじゃもじゃ君たちのために芋飴を買いに来ていた僕に、すっかりと痩せぎすになったチョコレイト・ボーイさんが声をかけてきた。
前述のとおり、偽造チョコレイトでお腹を壊したことのある僕は、必死の抵抗を試みました。
「頼む」
誰も、試食してくれないんだ。
寡黙なチョコレイト・ボーイさんは、心身ともにお困りのご様子で。
つい、一口、食べてしまったんだよね。
そしたら、なんともなかった。
曰く、お手製品とのことでした。開発に二年かけたそうです。それは、食感こそ違えど、カカオが一切入っていないとは思えないほど、精巧な偽物だった。以来、僕は偽造チョコレイトのお得意さんになりました。
そんな彼の縄張りは、マーケットの長屋街の、北西部。
いつもなら、この辺りにいるはずなんだけど。
「いない」
小一時間、彷徨したけど、チョコレイト・ボーイさんは見つからなかった。
「失敗したなあ」
チョコレイト・ボーイさんにではなく、単衣にです。
マーケットはどこも、人の濁流。もう、もみくちゃです。多分、薄物を着ていても汗だくになったのではないでしょうか。拭いても拭いても、汗が止まらない。そして、チョコレイト・ボーイさんも、見つからない。
「どうしよう」
このまま未発見なら、あの子たちに平謝りして、芋飴かなあ。
一先ず保険で、芋飴屋さんへ行こうか。あれもあれでマーケットの大人気商品だから、群がった人たちの中へと突っ込んでいく必要があるけど。
「なんで、いないんだ」
また、転職ですか? 次は、何を売るの。干物? ふんどし? そう思いながら、人の川を遡上して、南の、マーケット入口の方へと向かう。
これだけ、人が集まってますからね。
罵声が飛び交います。逆流するだけで「何やってんだよ!」です。
ごめんなさい。でも、そこの細い路地までは通してほしいの。すみません。
丸眼鏡が壊れないように身を守りながら、なんとか路地に滑り込んで、一つ向こうの通路、順流へと向かう。そして、マーケット入口へ向かう人たちの流れに乗った。
腕時計は、午後一時過ぎ。
謎の焼き鳥も、残飯スウプも、密造酒を飲んで気絶してる人も、美味しそうに見えてくるから不思議です。
「お腹すいた、」
マーケットの中心部、長屋街は、飲食店と食料店がほとんどです。元々そうだったけど、今では魔窟。
よくない食べ物と、よくないお酒。
側溝は衛生上、表現すら危ぶまれます。人が折り重なって倒れていて、生きているのか、死んでいるのかすらわからない有り様。
天麩羅、焼き蕎麦、焼鰯、コロッケ。
食用油も貴重品なので、ここのものは大体、重油で作られています。
立ち込める匂いだけで死にそう。
それなのに食べたくなるのは、空腹と、危ない匂いが幻覚症状を起こしている可能性もあるのかしら。そしてこの通路は、今は風下です。
「耐えろ」
芋飴を買ったら、長屋を取り囲む、空気の良い青空市場にお訪えするんだ。農村部の方が売りに来た野菜や山菜、近所の若奥方が売り出す古着やお蒲団、一昔前のラヂオ、包装とは裏腹の、違法取引物。
それらを、見に行くんだ。
魅惑の青空市場。
ハンカチで口を覆って、未来を夢見ながら、ノロノロとした順流に従う。そして、流れが止まった。
渋滞です。
「死んじゃう、」
暴動寸前の、通路です。三十分ほど経ちました。
前方から伝え聞く話だと、道のど真ん中で酔客の暴動が起きて、マーケットに点在するリントヴルムの兵隊さんたちが、なんやら、かんやら、だそうです。
後方からも、前方からも人に押されて、通路はまるで、漣のよう。
「これは、芋飴も無理か」
今日は何もかも、失敗。それどころか、この状態で誰かが倒れたら、みんな押し倒されて、地獄絵図になりそう。
生命の危機です。弱ったな。
その時でした。
「先生?」
バリトンの美声に耳許で呼びかけられて、思わずよろめいた。右方の群衆から、「なんだよ!」と、お声がけをいただきました。危うく、人雪崩を起こすところだった。ごめんなさい!
「あ、」
なんとか顔だけ後ろへ向けると、声の主は、件のチョコレイト・ボーイさんだった。
「いた!」
「こんにちは」
寡黙なおじさんは、平然と渋滞に巻き込まれている。手ぶらの様相だった。
「えっと、」
チョコレイトは?
そう尋ねると「ない」のだという。
「午前中に売り切れた」
ああ。土曜日って恐ろしい。
「欲しいなら、材料なら家にある」
はい。
「ついてこい」
ええ!
僕は、チョコレイト・ボーイおじさんの手に引かれ、地面へと四つん這いにされた。
「こっちだ」
なるほど?
人の足元は、文句を言われても、なんとか通れるものなんですね。あまりのことに吃驚されて、みんながみんな、片足を上げて通してくれます。上からは、ものすごい怒声です。
「明日にはみんな忘れる」
チョコレイト・ボーイさんに導かれるがまま、ハイハイでマーケットの渋滞を抜け、見知らぬお店の梯子をよじのぼり、凸凹の心許ない屋根を伝って、マーケットを後にした。
おじさんトム・ソーヤの、大冒険です。
もう、腰が、抜けそう。
「そうか」
じゃないです。
チョコレイト・ボーイさんは、名前さながらにお元気でした。呑気に「久し振りにあの屋根の上を歩いたなあ」なんて、顎髭を弄っている。何をどうしたらそういう状況が発生するのか、非常に興味深いです。
僕たちは、とある町工場の門前に立っていた。家に行けば、材料があるんですよね?
はてな?
「俺の生家だ」
二城駅裏の、町工場の子ども。それが、チョコレイト・ボーイさんの素顔でした。マーケットの眼前です。
外壁からして、結構広そう。
「銃の部品を作っている」
中に通されると、工場独特の機械油の匂いと、部品を収めた木箱が、びっしりと積まれてある。ちょっとだけ覗いてみると、短銃のフロントサイトばかりが詰まっていた。人気はない。
「休業日だ」
もしかして、と思う。
「家業の空いたお時間に、あのマーケットへ?」
僕は、平日のマーケットを知らない。金曜の夜か、土日祝日。彼がいつもいたのは、彼もまた、土日祝日専門だったからだったのか。
「そうだ」
肯定して、工場の中へ僕を案内する。
「てっきり、密売だけで暮らしているのかと思っていました」
本物のチョコレイトを売らなくなってから、どんどん痩せていっていたから、食べるものにもお困りなのかと思ったのだ。
「あの頃は、寝ずにチョコレイトを作っていた」
偽造チョコレイト開発のせいでした。
工場を抜け、奥の鉄製の階段を登り、二階へ通される。そこには長椅子が二列置かれた簡素な事務所があって、奥に、扉があった。
「こっちだ」
チョコレイト・ボーイさんは、奥へと僕を誘導する。
扉の向こうは、学校の理科の実験室に似ていた。大きな作業台が、中央に。壁沿いには流しや戸棚、瓦斯焜炉、電気オーブン、電気冷藏庫。あとは、電蓄?
ヴィクター製だ。
「音楽を聴かせると、美味しくなる」
謎の極意を述べられて、彼は、電気蓄音機のスイッチを入れた。それから、床に無造作に積まれた大量のレコードの中から一枚を選び出し、優しい仕草で針を落とす。クラリネットが自在に歌い出す。『ラプソディ・イン・ブルー』だ。
偽造チョコレイト作りの、始まりです
まず、冷藏庫から型に入れられた謎の固形物を取り出し、電気オーブンに投じます。
「脱脂大豆粉を、水で練って寝かせたものだ」
麻袋より青鈍色の実を取り出します。「これは、オクラの実」鉄鍋に投入し、焜炉に火を点けます。そして、もう一つ鉄鍋を用意し、火にかける。戸棚の下からは、球根のお出ましです。
はてな?
「これも、焙煎する」
素晴らしい手際の良さで球根の皮を剥き、俎の上で大きめにぶつ切りにしたものから、次々に投入していく。隣では、オクラの実が音楽に合わせるように、鉄鍋の上でちいさく揺れています。
「食べ、るの?」
もとい、「僕たちはこれを食べていたのか?」です。
「ああ」
チョコレイト・ボーイさんは首肯いて、「こんなものか」と、最後の球根を鍋に放り込んだ。
「チューリップの球根だ」
偽造チョコレイトを二年も開発した人間の、歴史の重みを感じさせる一言でした。
「本当は百合根が良いんだが、手に入らない時期もあるし、栽培も難しい。それで、チューリップを採用した」
なんだか本当に、理科の実験のようです。
レコードの、ピアノが弾ける音に合わせて、オクラの実が一つ、爆ぜる。はいはい、そんな親御さんのような面持ちで、チョコレイト・ボーイさんは鉄鍋に蓋を被せる。大いに、遊びなさい。
曲が転調するのと同時に、彼らはポンポン、カンカン、次々に爆ぜて、高らかな音調、アレグロで大暴れです。耳を澄ませた指揮者は、レコードのピアノがオーケストラと合わさるタイミングで栓を捻り、消火。
もう片方のチューリップを、優しくひと混ぜする。
「焦げないように見ててくれ、先生」
指揮棒ならぬしゃもじを、僕に手渡す。僕は、先生という名の助手ですね。やります。
一方、チョコレイト・ボーイ教授は、遊び疲れたオクラの実たちをステンレス製のボウルへ移し、コロコロと転がしながら、作業台へとお連れする。チューリップを混ぜながら見ていると、作業台の下から、秤と三つの珈琲用ミルを取り出している。
「多少は焦げて構わない」
助手へのアドヴァイスを怠らない教授は、ミルの中に、焙煎されたオクラの実を流し込む。
「あの、」
助手の素朴な疑問を、宜しいでしょうか。
「なぜに、オクラ?」
大豆は、なんとなく分かる気がする。チューリップは、分かりません。オクラも、謎です。
「見れば分かる」
ミルで挽かれたオクラの実を、小さな引き出しを開けて、見せてくれた。
「あ、」
なるほど。
「チョコレイトだ」
焦茶色の粉が、誕生していた。着色担当なんですね。
「そろそろ、火から下ろしていい」
チューリップも、焙煎完了。助手、なんとなく見えてきました。
「これも、ミルで?」
無言の首肯です。チューリップ担当、やらせていただきます。
顎で指し示されたボウルに熱々のチューリップを流し込み、『球根』と大きく落書きされたミルに慎重に投入。ハンドルを回します。
「意外と、硬い」
よくよく考えたら球根なのだから、硬いに決まっていた。珈琲豆よりは、ましかな。
「手慣れてるな」
教授が、助手の力量をしっかりと見極めています。はい。珈琲豆が国から消える前までは、家で挽いていましたから。ただ。
「量も多いし、硬いし、トム・ソーヤにもなったから、明日はきっと筋肉痛です」
「そうか」
チョコレート教授は納得しながら、電気オーブンの方をチラリと見遣った。「そういえば先生は、仕事は何をしているんだ?」
ミルを挽く手が、思わず止まっちゃいます。
「どうした」
嘘をついた方が、いいのかどうか。
二人きりの空間ですからね。
チョコレイト・ボーイさんが内心「燦国万歳!」かどうかで、賛否の分かれるところです。
「あの、」
素直に言おうとしたタイミングで、彼は電気オーブンの電源を落とした。こちらを振り返る。怖い。
「内務省、なんです」
ごめんなさい。
「それ、」
教授は僕の挽くミルを「回せ」と言わんばかりにジェスチャアした。
「冷めないうちに、粉にしてくれ」
分かりました。
ぐるぐると回し、粉を取り出し、チューリップを投入し、ぐるぐるとしていると、背後では「あちち」なんて言いながら、教授がこんがりと焼けた脱脂大豆の型を、実験台へと運んでくる。
「やはり、十五分が適当だな」
独り言と共に、作業台の引き出しから麺棒を取り出す。一瞬、叩かれるのかと思ったけど、彼に叩かれたのは、型から取り出されたこんがり色の大豆君だった。太鼓を叩く要領で、粉々にされる。そして、さらにミルで挽かれてゆく。まるで、拷問ですね。
「終わったら、そのふるいに入れておいてくれ。七十五瓩だ」
分かりました。
既にオクラの粉末が入れられていたふるいへ、秤にかけたチューリップの粉末を注ぐ。
「何も、言わないんですね」
粉がふわふわと空中に舞うのを手で払いながら尋ねると、「何が、」と言われた。「まるで、訳ありの女子みたいだな」
的確な表現すぎて、何も言い返せません!
「終わった?」
終わりました。
「じゃあ、これ、挽いて」
次の課題は、大豆のミル挽きの続きだった。
教授は、新しいステンレスの小鍋を取り出して、水を入れ、火にかけます。冷藏庫から、黄色い小箱を取り出す。
「挽き終わったら、ふるいにかけてくれ」
きっかり、百二十五瓩。巨大なステンレスボウルを、僕へと投げます。人遣いの荒い教授だ。
「はい」
大豆も投入し、ふるいにかけていきます。音楽に合わせてぽんぽんと端を叩くと、チョコレイト色のパウダアが、ボウルへ移っていく。背後からは、いい匂い。
「内務省でも、なんでも」
どうやら、マーガリンを湯煎しているらしい。鍋とボウルのぶつかり合う音がする。
「孤児たちに、チョコレイトを食べさせたいと、思っているのだろう?」
はい。
「だから、これを考案した」
はい?
「気持ちは同じということだ」
「真逆、」
思い上がりだったら、ごめんなさい。
「僕たちのために、二年間も、これを?」
「思い上がるな」
教授が作業台へと戻ってくる。
「俺も、チョコレイトが食べたかっただけだ」
ふるいにかけられた偽造チョコレイト粉の海に、マーガリンが飛び込む。
「練って」
はい。
しゃもじを手にして、混ぜる。思ったよりも重く、難しい。頑張って練っていると、教授は戸棚からある瓶を取り出した。
「蜂蜜、」
甘味の秘訣は、蜂蜜でした。
「姉の嫁ぎ先が、蜂蜜農家なんだ」
そうなんですね。
「姉の隣家では、肥料用の大豆を作っている」
なるほど。
「俺の庭は、オクラとチューリップだらけになった」
自家栽培だ!
「ただ、何かが足りない」
蜂蜜を含んだ、完成間近の偽造チョコレイトを見つめて、教授は眉間に皺を寄せる。
「これだけでは、元来のチョコレイトにはならない」
そうですね。
ここまで手間暇をかけているのに、本物のようなとろけるような食感には、ならないんですね。偽造チョコレイトは、クッキーのような食感です。
「そこなんだ」
まだ、開発途中のようです。
午後三時に、チョコレイト・ボーイ工場をお暇した後、駅前で薄味なお蕎麦を食し、百貨店でたんぽぽ珈琲と手土産を購入。家へ戻ると、園庭はすっかりと小綺麗になって居りました。池には、鴨の御姿も。
「有難う御座いました」
なんでも、お昼過ぎからお孫さんやお弟子さんも参加して、励んでくれたとのことでした。皆さんによろしくお伝えください。手土産の、山菜漬です。
「あとは、これも」
偽造チョコレイトです。大豆とオクラの実と、チューリップの球根なんです。そう言うと、樹木のおじさんはたいそう驚かれた。そうですよね。僕も、吃驚です。
食べてみてくださいね。
そうして、大冒険やら、チョコレイトやらで、しっかりと汚れた藍鼠から、胡桃染の単衣に着替えた僕は、いつものように色街の前門をくぐります。和装で来るの、久し振りかも知れない。
一先ず、彼らの元へ向かいます。
赤鳳楼は色街の中心にあるので、どの門から入っても半里ほど歩かないとならない。賑わう土曜の表小路を、足早に北へ。空はすっかり薄暗く、方々より聞ゆるは、暮れ六ツの鈴の音。夜見世の始まりです。
目的地に辿り着く頃には、日もとっぷり暮れました。
瓦斯燈もない、例の路地をそっと覗き込む。
おや?
静かですね。
「チョコレイト、」
泣き出しそうな、か細い声だった。
「でかめがね君?」
様子がおかしい。もとは酒屋だった軒下の、大きな水瓶に身を潜めるように、二つの影がしゃがみ込んでいた。一つ、足りない。
「おかっぱちゃんは?」
おかっぱちゃんが、居なかった。身を屈めて二人と目線を合わせると、もじゃもじゃ君が、泣き腫らした目でこちらを見た。
「捕まっちゃった」
慄ッとした。
それは、まずい。
「いつ?」
「夕方ぐらい、」
もじゃもじゃ君が、顫えの止まらない右腕で眼許を拭う。でかめがね君も、分厚いレンズの向こうに夜露を湛えていた。
一先ず、抱き締める。波打つ二人の背中を、何度も摩った。
「そうか」
脳裡では、黒いドレスを靡かせた正義者が、おかっぱちゃんに銃口を突きつけている。
年齢も、関係ない。
『罪の区別なく、凡ての罪人を死刑に処す』です。
捕まれば最後、おかっぱちゃんのような六歳ぐらいの子どもでも、容赦なく処刑される。
燦国とは、そういう国です。
もう、厭です。先生は。
「どうしたら、いい?」
もじゃもじゃ君のちいさな左手が、僕の掛襟を握り締める。どうしようもないよ。
体を離して、二人の汚れた顔をハンカチで拭う。
「諦めるしかない」
「でも、」
惨酷な言い方で、ごめん。
「無理だ」
救えません。
来る九月二十九日。僕は、死の回廊に行かなくちゃならない。
自分の『当番』の夕景色で、おかっぱちゃんが処刑されないことを、せいぜい祈る他ない。
顫えて泣く、ちいさな体が、二つ。
そばにいてあげたいけど、そうも言っていられない。
ある予感があった。
あんなちいさなおかっぱちゃんが、一人で犯罪を犯すはずがない。
「なんで、捕まっちゃったの」
先生の問いに、二人とも、首を振る。
「『失敗』した?」
問い質すと、びくりと、二人の体が連動した。恐る恐る、こちらを見る。通報は、しませんよ。
首肯いてくれたのは、もじゃもじゃ君の方だった。
「マーケットの紫水晶を、盗もうとして、」
色街の近くにもちいさな闇市があるから、そちらのことだろう。
「見つかっちゃって、」
バラバラに逃げようとした。兵隊さんが、二人。
「転んだ」
もじゃもじゃ君は、力なくうなだれる。捕まっちゃった。
「そっか」
僕は、立ち上がる。これ以上、長居はできません。
しゃがんだ時に傍らに置いた、三つの紙袋を指し示す。三つ。悲しい数になってしまった。
「約束のチョコレイトです」
チョコレイト・ボーイさんがこのことを知ったら、歎くだろうか。
「しばらく身を隠すといい」
この辺でも、兵隊さんや警察官が、君たちを探してるかも知れない。寧ろ、孤児のねぐらの色街で、君たちを探しているに違いない。
「門にも近づかないこと」
さっき、前門を通った時に、警察の方が立っていました。
「あとは、泣かないこと」
泣いてる孤児なんて、「僕がやりました!」って言っているようなものです。
「いいね?」
二人を冷たく見下ろして、返事を促す。当然、無言です。僕は、ひどい大人です。
「またの御見を」
色街での別れの言葉を告げて、それからは、彼らを振り返らなかった。突き当たりの赤鳳楼へと、足早に立ち去る。これでも立派な、犯人隠避罪です。
これが知れたら、僕だって『死の媛さま』に殺されてしまう。
本当に、厭な世の中です。
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