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エディット・ピアフ〜裸足のシャンソン〜

暗闇の中で香る煙草と女達の嬌声、時々聞こえる啜り泣き。
それがわたしの人生の1番古い記憶だ。
生まれてすぐに母が失踪し、父の実家である売春宿に預けられた。娼婦の待機小屋の隅の揺り椅子がわたしのベッドだった。女達の機嫌のいい時は戯れにあやされもしたが、そうでない時は、椅子ごと蹴倒された。
泣くことはしなかったと思う。
静かな赤ん坊だった。
周りの女達の方がよっぽどよく泣いていた。
その頃から本能で感じていた。
女とは、冷酷で悲劇的な生き物だと。
わたしも、そういう女の人生を辿る。
畏れはなかった。むしろ、楽しみだった。
ただ一つ、不便だったのが角膜炎で目が見えなかったこと。
冷酷でも悲劇でもいい。
どうせならこの世界を目で鼻で耳で心ゆくまで味わいたい。
「エディット、あんたの目が見えるように、リジューの聖テレーズにお願いしてきてやる」
若い女の声だった。頬に口づけされ、ついた口紅の感触が気持ち悪かったが、拭うことはしなかった。拭えば女が気を悪くして、頼みに行ってくれないと思ったからではない。そんなことは端から期待していなかった。だから単なる意味のない願掛けだった。
それが良かったのかどうかは知らない。
幸い、目は見えようになった。
その後、私のために祈った女は客から梅毒をうつされ死んだ。最期は気がおかしくなり、爪を噛みながらうわごとを繰り返し、店の裏口から路地に捨てられた。既に歩くことも出来なくなっていた女は、ゴミ箱の脇に倒れていた。わたしは女のもとにしゃがんで手を握った。その時だけ、女の目に正気の光が戻った。
「あんたもわたしらと同じようになる。所詮、野良の牝犬さ」
そう言うと満足したのか目を閉じた。
わたしはそのまま売春宿を抜け出した。
あてはなく、靴すらない、裸足だった。

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金を稼がなければ生きていけなかった。
しかし、子供とはいえ、ただ道に佇んでいて、金を恵んでもらえるほどパリは甘い場所ではない。ぼんやりしていれば、腕に注射を打たれ、気づいた時には、元いた場所よりもっと酷い場所で客を取らされるだろう。
金はなくとも、才はなくとも、庇護がないなら、路上で生きる以上、しっかりまなこを開き、自分の足で立たなきゃいけない。そうでないと風に攫われ、2度と這い上がれぬ穴に落ちる。華やかなパリが持つ残酷さは女が持つそれと同じに思えた。
何もなくてもできることといえば、歌うことしかなった。
裸足で路上に踏ん張り、街角から流れるシャンソンを耳で覚えて歌った。歌い方など知らなかった。客に唾を吐かれ、罵倒され、歌とは何か、客を集めるにはどうしたらいいかを覚えた。
ある日、客の1人が話しかけてきた。
「なかなか稼いでるじゃないか、俺と組まないか?男といれば、ヤクザな奴に絡まれることもない」
何のことはない。わたしを売春宿に預け、どこかに消えた父だった。
わたしからすれば父こそ"ヤクザな奴"だったが、大人といればうるさい警察の相手をせずに済む。庇護してもらえるとは思わないが、利用はできる。
それからは父と行動を共にした。
父は大道芸をしていたこともあり、わたしの歌との組み合わせは客を呼んだ。稼ぎも増えたが、ほとんど父の飲み代に消えた。しばらくすると父は定宿に女を連れ込み、わたしだけ働かせるようになった。
ある晩、路上から戻ると、扉の影に隠れていた父の女に首を絞められた。その隙に父に売り上げを奪われた。2人はわたしを後ろ手で縛り、ベッドに転がすと見下ろして言った。
これからは、お前が3人分稼げと。
15歳の小娘相手に随分、大仰だとせせら笑った。
女はわたしにナイフを突きつけ、脅しじゃない、舐めるなと凄んだ。ナイフを握る女の腕にある、沢山の注射跡を見て、ゴミ箱の脇で死んだ女の遺言を思い出した。
この女も這い上がれないのだろう、そう思えば哀れだった。
稼いでやるからほどけと、女に命じた。
売春宿を抜け出た7歳の時からわたしはこの世の理を知っている。どんな状況でも、金を稼ぐ奴が強いのだ。つまり、この3人の中で1番強いのはわたしだ。稼ぐとは生きる力で、それを誰かに託した時点でその者は既に死んでいる。

翌朝、起きると、2人が酒を飲んでいた。
少し酔った方が喉も潤うと言われ、グラス一杯呷った。
すぐに酔いが回り、目の前の2人が巨大なゴキブリに見えた。その晩はゴキブリと7色の羽をゆっくり羽ばたかせる蝶を相手に歌った。酒に何か薬でも入っていたのかしれない。あの2人といたら、何をされるかわからない。宿には戻らず、店の軒先で、拾った段ボールに包まり、座って眠った。夜半過ぎ、雨が降り出し、肩を濡らした。寒さを紛らわそうと、小声で口ずさんだ。知らない歌だ。どこからか湧き出るメロディーに思いつくまま歌詞を乗せた。

「白いカイトは燃えてしまった
灰の散った海に夕日は沈む
それでもどうか泣かないで
夜になれば 夜がくれば
船出の月がきっと輝く」

出鱈目だった。自分で自分の肩を抱き、初めて自分自身に歌った。
「こんなところで俯いて歌うにはもったいない。良かったら、わたしの店で歌わないか」
初老の男に声をかけられて、わたしは顔を上げた。

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こうしてわたしは、ルイ・ルプレーに見出され、彼のナイトクラブでシャンソン歌手として歌うようになった。
1935年、20歳の冬のことだった。
ルイはわたしの背が低いことからピアフ(小さな雀の意)という名をつけた。
今日からわたしは歌う雀だ、雀の一生は短い。精一杯歌って死のうと決めた。
わたしの歌は店の客にも評判が良かった。
路上で歌うより安全で、チップも沢山もらえた。
「貴女、路上で歌っていたでしょ?どこに行ったか、心配してたのよ。貴女と、貴女の歌にまた会えて良かった」
毛皮を巻いた上品な貴婦人にそう言われ、驚いた。
生きるために闇雲に歌ってきた。
得意だったわけでもない。
それしかなかったからだ。
その歌を、求めてくれる人がいた。
胸の奥が熱くなる、初めての感情に襲われた。
そのせいか、その日は音程がズレて最悪の出来だった。
なのにいつもより、拍手は多かった。初めて歌の本当の、奥深さを知った気がした。歌は、声は、わたしの気持ちと繋がっている。わたしの人生と繋がっている。もしそうならば、どう生きれば、もっと人の心を打つ歌が歌えるだろう。
舞台衣装のまま、楽屋で座り込み、考えた。
その頃には毎晩誘われるようになっていた、夜通しの酒の誘いも断った。答えなど見つからなかった。むしろ考えれば考えるほど、歌うのが怖くなりそうだった。
今までわたしは舞台で何をしてきたのだろう。
今日、わたしは舞台で何をしたのだろう。
平気で歌っていた身の程知らずに震えた。
それでも、心配して声をかけてきたルイに意を決して答えた。
「明日からは、"本当に"歌います」
歌うことしか、自分にはないのだ。
いつ歌手になったと問われれば、ルイに答えたこの瞬間だったろう。
野良として、路上でくたばるか、歌って散るか、最期はどのみち野垂れ死にだとしても、どうせなら歌いたい。せっかく、見えるようになった世界で。

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その頃、住むところがなく、楽屋を寝床にしていた。
夜中、叫び声で目が覚めた。
暗闇で身を固くしていると、楽屋の扉が開き、ナイフを持った少年達が雪崩れ込んできた。
店のそばの薄暗い路地裏で、見かけたことがあった。いつだかは、女性が連れ込まれそうになって悲鳴を上げていた。
どこにでもいる不良だった。
ルイの女か!?そう問われた。
こんなそばかすだらけの貧乳の愛人がいるわけない。
「闇討ちする割には夜目が利かないのね」
そう笑うと、血のついたナイフを見せられた。
ルイを刺して、金を奪ったという。
それを聞いて、血の気が引いた。
立ち上がると、目の前の少年を突き飛ばした。
ルイを助けなくては。
人のために動くなんて割に合わない。
そんなことをすれば自分が危ない。
路上で叩き込まれた鉄則を忘れて扉へ走った。
理由はわからない。
恩を感じていたわけではない。
ただ、居場所を奪われたくなかった。
こんな、理不尽な形で、わたしの人生に、1ミリも関係ない奴らに。
その腕を掴まれた。
「お前は俺らと来い!」
怒りに任せて掴まれた腕に噛み付いた。
少年の叫び声がして、頬に熱を感じた。
咄嗟に手で拭うと、いつかの口紅と同じ、生ぬるい感触がした。それで、ナイフで顔を切りつけられたのだと分かった。
それでも、犀のように頭から少年たちに突進し、腕を振り払い、足を掴む手を蹴り、なんとか部屋を抜け出し、ルイの部屋へと向かった。
そこで、変わり果てたルイの姿を見た。
尽くす手のないことは、見たらわかった。
警察に電話をし、その場に座り込んだ。

警察は少年達とわたしがグルだと疑った。
ルイに取り入ったわたしが、少年達を手引きして招き入れたのだと。頬の切り傷も、奪った売上金の分け前を巡る、内輪揉めだとされた。
「逃げ遅れたか、見捨てられたのだろう?それでも庇うのは、逃げた中にお前の男でもいるのか?」
警察も、不良と大差ない。発想が同じだ。庇っているなら通報などすまい。それもわからないほど馬鹿なのか、わかった上で、わたしを犯人にしたいのか。どちらにせよ、少年達よりタチが悪かった。

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結局、レイモンが警察との間に入り、疑いは晴れた。レイモンは、店に良く来る10歳ほど歳上の作詞家だった。
同じ話なら、警察は素性の知れぬ若い女より、大人の男の方を信じるのだろう。だから女は損だと嘆くつもりはない。男だって別のところで損をしている。そういう場面も沢山見てきた。
女は損というより弱いのだ。社会的にも肉体的にも。だが、弱さとはしたたかさの別名だ。そして男はそれを見抜けない。神はうまく人の男女を作ったものだ。

ルイのナイトクラブで歌えなくなってからは、レイモンがわたしの庇護者になった。
レイモンはわたしに上流階級が集う社交場での振る舞い方を教えた。
そして、一流のホールで歌う機会を与えてくれた。
耳の肥えた聴衆を前に何度も歌い、レイモンのアドバイスを受けるうち、自分の歌に自信がついていった。

レイモンとピアフ

我流だった歌が磨かれていくのがわかった。
自分の歌がどういうものか、自分でわかれば歌い方も変わる。聴衆に媚びるのではなく、アピールしてみせた。
アドバイスを受け入れ、その上で自分で考え、工夫した。そうして生み出した声で、歌い方で、聴衆に示す、わたしのシャンソンを。それは路上で歌うのとは違う、けれど同じくらいスリリングなことだった。
歌うことしかなかった、ではもうない。
歌うことを選んだのだ。そう思えるようになった時、初めて歌が怖くなくなった。歌うことは喜びで、自分が今、生きてることを精一杯示す表現だと感じた。
ピアフは小さな身体を震わせ、雀のように声を響かせた。
若くして哀愁混じるその声に、人々は自らの人生の幾つかの場面を思い出し、ある者は目を閉じ、ある者は涙した。
気がついたら、22歳でシャンソン歌手としての地位を確立していた。隣りの酔っ払いが夜中、壁を蹴ると足が自分の部屋に突き出してきそうな薄い壁のアパートから、上流階級が住むマンションへと住む場所も変わった。

コンサートの打ち上げで、部屋のソファでレイモンと話していた時だった。
「皆、貴方のおかげよ」
わたしはレイモンの胸に額をつけた。少し酔っていたのかもしれない。彼のシャツの襟から香る煙草に、遠い日を思い出した。髪を撫でられたら、揺り椅子を揺すられながら、眠りに落ちた幼き日が蘇った。
裸足で売春宿を飛び出てから、地に堕ちぬよう、羽ばたき続けていた翼を、彼の膝の上で初めて畳んだ。
しかし、そんな安息の日々は長く続かなかった。
レイモンが兵隊に取られたのだ。
時代は、第二次大戦へと突き進んでいた。 

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レイモンが去って、改めて周りを見渡すと、若くして歌手として成功した自分の周りには、沢山の男達がいた。
中には良からぬことを企む者もいたが、大半は、わたしにアドバイスをもらい、世に出たいと願う、いつかのわたしと同じ、歌手や俳優の卵だった。
卵の中に原石を見つけると、嬉しさと不安で胸が締め付けられた。自分が羽の下で温めてやらねば、才能は殻の中に閉じ込められたままだ。無防備に荒野に転がる卵はいずれ、鋭い嘴を持つ他の女に殻ごと突き刺されるか、無慈悲な爪で踏み潰されるだろう。
そんな思いからわたしは何人かの歌手をプロデュースし、レイモンが自分にしたように、才能を発揮する機会を与え、そしてその内の何人かと恋をした。
「献身の引き換えに金を欲するのが男なら、心を欲するのが女だろう。けれどピアフ、あんたは欲するんじゃない、奪っていくんだ、強引に」
寝物語にそんなことを囁く若い恋人もあった。
その頭を抱えて胸に押し付ける時、男の大きな身体が小さく思えた。142㎝のこの身にすっぽり収まる胎児のように。

そんな時、シャンソン歌手希望のイブ・モンタンと出会った。劇場のオーディション会場で彼の歌声に接し、その声に惚れた。
2ヶ月後には、彼を自分の部屋に住まわせていた。

モンタンとピアフ

恋人というより、師弟の関係に近かった。
わたしは身につけてきたテクニック、人脈を惜しみなく彼に与えた。彼はそれを取捨選択し、自分の長所を伸ばす工夫を自分でできる男だった。
自分が卵から孵した雛なら皆、可愛いが、それでもただ大口を開けて餌を待つだけの雛は好きじゃない。どんなに口を開けて泣いても何も貰えはしなかった、パリの夜の路面の冷たさを、足裏がまだ覚えているから。
工夫できる男は好きだし伸びる。
その予想通り、モンタンは着実に人気を得ていった。
「これからも、宜しくお願いします」
だからそう健気に頭を下げる律儀な男にわたしは別れを告げた。
驚き、縋り付くモンタンの手を振り払って吐き捨てた。
「聞こえなかった?飽きたのよ、いつまでも後をついて来ないで」
しゃがみ込んだ男を一瞥すると、わたしは去った。
(大丈夫。あなたはもう自分の翼で飛べる)
数年後、大きなステージで彼と再開した。
その声は、別れを告げた時より一層、深みを増し、わたしのバーターとしてじゃない、彼だけのファンが沢山できていた。
「おめでとう」
それだけ告げた。モンタンは黙って頭を下げた。

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モンタンとの日々の中で、わたしにも1つの曲が生まれた。
それが代表曲の1つ、「ばら色の人生」だ。
恋は束の間、世界をばら色に変えたが、現実は違う。
フランスはドイツの占領下にあった。
愛しい男の煙草の匂いの代わりに、辺りは硝煙の臭いが立ち込め、街からシャンソンは消え、砲撃が響いた。
けれど、むしろそんな日々でこそ、今までくるりと丸まり、眠っていた、わたしの中の"リトル・ピアフ"が蠢いた。何としても歌いたい。歌が消えた世界は、色を失った花に等しい。人が人として生きるには、人の願い、悲しみ、希望を誰かが伝える必要がある、喉を震わせ、その声で。歌うとは、勇気のことだ。何も持たず、路上で足を踏ん張ることだ。たとえその胸先に、銃口を突きつけられようとも。
だからわたしは単身、ドイツ軍の駐留先へ乗り込んだ。
「わたしは歌手です。捕虜となったフランス兵のために歌わせてください、慰安のために」
対応したドイツの高官は、煙草を灰皿に置くと、わたしの顔に煙を吹きかけた。嗅いだことのない、匂いだった。
「シャンソンとは、豚がブヒブヒ鳴く歌だったか?我がドイツ軍に卑猥で女々しい歌は要らん」
「シャンソンは、そんなものではありません。貴方達も「旗を高く掲げよ」(ナチの党歌)は歌うでしょう?歌に貴賎はありません。心を潤すものです」
高官はわたしを殴りつけると、足蹴にして言った。
「豚がその名を口にするな。汚らわしい」
薄く笑う、その唇を見ていたら、怒りが突き上げた。
猛然と立ち上がるとわたしは言った。
「汚らわしいのはお互い様だろ。はっきり言って、アンタらのやり口は豚以下だ。てめぇの腹をよく見てみな、豚そっくりじゃないか。シャンソンを、フランスを、あんまし舐めるんじゃないよ!」
高官は腰のワルサーP38を引き抜いた。
怖くなどなかった。
歌うことを許可してもらうのが目的だったが、魂を売り渡して歌っても意味がない。ここで死ぬなら、それも良い。歌声の代わりに、誇りを遺して逝ける。
高官は突きつけた銃口を下すと言った。
「銃殺にする前に、1週間だけやろう。22時以降なら、ホールは自由に使わせてやる」

結局、わたしの歌はドイツ将校達を巻き込んで評判となった。特に「ばら色の人生」は人気だった。
わたしが歌う、この曲に耳を傾ける時だけ、フランス軍もドイツ軍もないように思われた。
結局、1週間を過ぎてもわたしは殺されなかった。そんなことをすれば、身内からも不満が出ると思ったのかもしれない。
歌い終わると、請われてわたしはフランスの捕虜達と沢山写真を撮った。
その写真は脱走のための偽造文書に貼り付けるのに使われ、結果的に沢山の捕虜を助け出すことになった。

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戦争が終わり、32歳の時、わたしはアメリカへ渡った。
新天地で自分の歌を試してみたかった。
アメリカでの初公演を終えると、楽屋をマレーネ・ディートリヒが訪ねてきた。マレーネはドイツ人だったが、ナチを嫌い、アメリカへ渡った女優だった。その頃にはブロードウェイにも出演し、アメリカで市民権を得ていた。
素敵な歌声だったと褒められ、わたしもアメリカで貴女のようになりたいと答えた。
「今日の観衆の拍手を聞いたでしょ?きっとあなた、この楽屋を出る頃には花束に埋もれてるわ」
お世辞かもしれなかったが嬉しかった。
だから素直に言った。
「わたし、あまり友達が…その、女の友達がいないんです。だから、良かったら…友達になってくれませんか?」
「あら、それは遠回しの自慢?今度、男の人を紹介してよ」
誤解させてしまった、そういう意味ではなかったのだが…と、慌てて手を振るわたしを見てマレーネは笑った。
「冗談よ、今度お茶に誘って。わたしもあなたと友達になりたいわ」

マレーネとピアフ

マレーネが楽屋を出て行ってもしばらく、わたしは感じたことのない気持ちの余韻に動けなかった。何度、男に抱かれても得ることのできない、洗い立ての冷たいシーツに疲れた身体を横たえた時のような安らぎだった。
良いものだな、女友達って。
30を過ぎて、初めて思った。
揺り椅子から娼婦達の悲喜を眺めて育ち、自分と同じ性(さが)に、ある種の嫌悪と諦観を持っていた。けれどそうじゃない。"女"という修羅を共に歩めるのは同じ女だけ。男は容易く抱こうとするが、いざとなったら安全なところで旗を振るだけ、何の足しにもならない。
だからマルセル・セルダンの言葉に耳が反応したのかもしれない。
「安全なところなどないんだ、リングの上に」
マレーネと出会った初公演の夜に、もう一つ出会いがあった。それが、フランス人のプロボクサー、セルダンとの出会いだった。
「シャンソンが好きなの?」
わたしの問いセルダンは鼻を鳴らした。
「どうかな?試合が近づいて、気持ちが荒んでくると聴きたくなるんだ?」
「気持ちが荒むのに、なぜ人を殴るの?」
セルダンは笑って答えた。
「あんたは何故歌うんだ?」
「それがわたしの人生だからよ」
「なら俺もそうなんだろう。ところで、こんなところで立ち話もなんだ。場所を変えないか?」
セルダンは、ホールの裏でわたしを出待ちしていたのだった。わたしとセルダンは、ホールの外壁にもたれて、月を眺めて話していた。
「今日は遅いし、わたしは舞台衣装で花束を持ったまま。貴方はいつアイロンをかけたか分からないヨレヨレのシャツ。これじゃ、店の人に式当日に駆け落ちした花嫁とごろつきに間違われるわ。貴方だってそれは本意じゃないでしょ?」
「たしかに今日はレディを誘うナリじゃなかった。しかし人生とはわからないものだね。予期せぬ夜に、最高の"月"を見つけてしまう。朝になったら消えてしまうというのに」
「わたしは消えないわ」
「そう祈るよ。今度はアイロンを当てたシャツを着て、鼻毛も抜いてこよう」
立ち去るセルダンにわたしは小さく手を振った。

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その後、パリへ戻ったセルダンにわたしは何度も手紙を出した。彼もそれに応えてくれた。

セルダンとピアフ

出会った翌年、タイトルマッチの為、彼がNYへ来ることになった。久しぶりに会える嬉しさに、わたしは早く来てと手紙を出した。その手紙を受けて、彼は当初船で行く予定だったのを、飛行機に変えた。
それも、わたしへの愛だと思った。
女の愛は言葉でも良いが、男の愛は行動でなければ信じられない。
わたしはその頃には親友になっていたマレーネと共にニューヨーク・ラガーディア空港で彼の到着を待った。自慢の彼を早く紹介したかった。
「貴女がそんな浮かれるなんて、よっぽど良い男なのね。でもボクシングなんて、危険じゃない?」
心配するマレーネにわたしは胸を張った。
「彼には勝利の"女神"がいるから平気よ」
そんな自分の言葉に酔えるほど、彼のことが好きだった。
苦笑して、何か答えたマレーネの言葉は、館内放送に掻き消された。
到着予定便に、トラブルがあったらしい。
最初は、到着が遅れるとの案内だったが、すぐに、墜落事故の案内に切り替わった。
彼が乗った飛行機だった。
信じられなかったが、どれだけ待っても到着ゲートから彼が歩いてくることはなかった。

何が勝利の女神か。
自分の言葉にゾッとした。
船で行こうとしていた彼を、飛行機に変えさせ、死に追いやった。女神ではなく死神だ。鏡を覗いて写る女が、鎌を肩にかけた、皺の寄った老婆に見えた。鎌は幻だとして、老婆じみていたのは、錯覚ではないだろう。
皆、いなくなってしまう。
わたしと関わったばかりに。
肩を抱くマレーネの胸を叩いて訴えた。
「貴女も早くわたしから離れて。貴女まで不幸にしてしまう!」
いつか、梅毒で死んだ女の呪詛が蘇った。
(所詮、野良犬、お前もいつか野垂れ死ぬ)
その覚悟は出来ている。
連れて行くならわたしだけにしろ、卑怯な死神め。卑怯な死神はわたし自身だった。
ならばわたし自身を消すだけ。
睡眠薬を大量に呷って眠った。
それでも死に切れず、夜明け前の街を彷徨い歩いた。
横断歩道の先に、白い服の女が見えた。
見た瞬間、母だと思った。
会ったことさえないのに。
一方踏み出した瞬間、何かに跳ね飛ばされて身体が浮いた。

車に撥ねられて、病院に運び込まれたわたしのもとに、一番に駆けつけてくれたのはマレーネだった。
しっかりしなさい、セルダンの分まで生きるの、と諭された。その場では頷いたが、生きる気力が湧かなかった。
それでも、予定されたコンサートはこなした。
彼との日々で生まれた「愛の讃歌」は喝采を浴びた。けれど心は虚ろだった。
センタースタンドを前にすれば、本能で声が出たが、1人になれば寂しくて、セルダンに一言詫びたくて、怪しげな降霊術にハマり、稼いだ金を注ぎ込んだ。周りの忠告は耳に入らなかった。空港で泣き崩れたあの夜から、一歩だって本当は、前に進めていなかった。一目でいい。彼に会って、心から詫びたい。それを願って何が悪い、ささやかな願いじゃないか、そう思った。けれどいくら金を積んでも、セルダンには会えず、逆に功徳が足りないと、金をむしり取られた。それでも構わなかった。騙されているならそれでいい。彼に会いたい。それだけだ。
数千万を降霊術者に渡して、何もならなかった夜、ふらふらと街を歩いた。高笑いが止まらなかった。滑稽だった。わたし自身もだし、この世界自体が。安いハリボテで作られたセットに思えた。虚構だ、馬鹿にしてる。
前から歩いてきたカップルの女にわざとぶつかり、突き飛ばした。
「こんな尻に蒙古斑のあるような娘(こ)より、わたしと遊ばない?」
男の方にしなだれかかって誘った。
何でも良かったし、やけくそだったし、八つ当たりだった。どんなに望んでも、大好きな人にはもう会えない。
彼の代わりなど、どこにもいない。
戻ってきた女に背後から突き飛ばされた。
とっさのことに踏ん張りが効かず、よろけて、男にもたれかかろうとしたら、サッと身をかわされた。そのままつんのめって、路上に転がった。その上を、タクシーが走り抜けた。

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死神の姿は知らないが、性格だけはその名に違わず、相当嫌味らしい。最愛の人を奪っておいて、痛ぶるように、2度も生きさらばえさせられた。
別に望んだわけじゃない。
死んだって良かった。
けれど、2度目の交通事故も助かってしまった。
何の喜劇か。早く幕にしろ、笑えない。
病室で怒鳴ったら、そっとカーテンをめくられ、隣りから紙を差し出された。苦情なら面と向かって言え、そう思って開くと、一言、書かれていた。
(貴女の歌をもう一度聴くことが、わたしの生きる望みです)
名も知らぬ、誰かの手紙を握りしめて泣いた。
世界は悪意に満ちたハリボテではなかった。
わたしの知らないところで、わたしの歌を待っている誰かがいる、そういう、奥行きのあるところだった。
歌はなんだ?
歌は音だ。
音は風に乗り、その行先は歌うわたしさえ知らない。
だからこそ、世界のどこかの誰かに届く。
歌うことは、見えない世界の奥行きを信じることだ。
歌うことは、宛名のない手紙を出し続けることだ。
セルダン、わたしは貴方にこれからも、手紙を出し続ける、歌うことで。

事故の怪我を直し、もう一度舞台で歌うため、厳しいリハビリに歯を食いしばって耐えた。
常用していた睡眠薬を断つため、専門の病院にも入った。もう一度自分の人生を立て直す。もう一度歌う。壊れたままで終わりにできるか。
半年の断薬治療を終え、病院から帰る日、空は今までと違って見えた。横断歩道の前に立っても、反対側にもう幻は見えない。母もいない、セルダンもいない。それでいい。寂しいけれど、この世界で生きていく。
初めて、路上で歌った時のように、足を踏ん張った。
信号が青になり、歩き出した。
さぁ、ここからだ。
ボイストレーニングをして、コンサートに備えよう。
今ならきっと、新しい「愛の讃歌」が歌える。
この空のような。
半分ほど横断歩道を渡った時、信号無視をした車が突っ込んできた。空を見て歩いていたから、それに気づかなかった。

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目が覚めた時、またこの天井かと思った。
病院の天井。
ここからやり直すため、必死に頑張ったのに。
また振り出しか。
心をまさぐっても、何の感情もなかった。
残念でも、悲しいでもない。
ただ、ヒョウヒョウと物哀しい風が吹いていた。
度重なる事故は身体に深刻なダメージを与えていた。
怪我は癒えても痛みは引かなかった。
それを抑えるためにモルヒネを打ち、次第に中毒になっていった。
皆、腫れ物に触るようにわたしに接し、何も言わなかった。その中で1人、本気で怒り、掴みかかり、ベッドサイドで泣く者がいた。マレーネだった。
「わたしは、諦めないから。あなたが諦めたって、わたしは絶対に諦めないから」
もういいのだと笑うわたしに、マレーネは涙を拭って言い返した。なぜ、そこまで気にかけてくれるのだと問うと、忘れたのかと問い返された。
「友達でしょ?そうでしょ?あなたが言ったんじゃない」
何もかも飛ばされ、風だけ吹く心に、その言葉だけ、飛ばされることなく残った。

もう一度、もう一度、目指せるか。
自問した。
わたしのことなどもう皆、忘れているかもしれない。
それでも、歌うために、死ぬ思いをもう一度繰り返せるか。
わからなかった。
第一、わたしは充分やったのだ。
カムバックするために、できる努力はした。
それでも届かなかったのは、運がなかったのだ。
「運命のせいなんかにしないで!もう一度やるの!歌はあなたの人生なんでしょう?手放しちゃダメ!」
そう言ってくれるマレーネにだけ、申し訳なかった。

何とか病院は退院したが、痛みは引かず、モルヒネに身体は蝕まれていった。
立つこともしんどくなり、家のベッドで窓から外を眺めて過ごす日が増えた。わたしの姿を見た者は、とても40代には思えなかったろう。
ある日、いつものように外を眺めていたら、若い男が訪ねてきた。
テオ・サラポと名乗った男は、わたしに歌を教えて欲しいと頼んだ。20歳も歳下の男に頼りにされるのは悪い気はしなかったが、現実問題として、力になれることないように思えた。
「他を当たったら?わたしはもう、身体がこんなだし」
「けれど、お声は変わりません。僕はずっと貴女のファンでした。貴女の歌を聴いて、美容師を辞めて歌手を目指したんです」
サラポの真剣な目を見て内心、ため息をついた。
以前のわたしならともかく、今は自分の身の世話で精一杯だ。すると、それを見越したような彼が言った。
「ピアフさんのお世話は僕がします。だから歌を教えてください」
イエスと言うまで、頭を上げないつもりのようだった。
「押し売りのような真似はやめて。そんな人に何も教えることはないわ」
ようやく頭を上げた彼にわたしは言った。
「できることは教えましょう。だけど、それを頼りにしないこと。頼れるのは自分の才能だけよ。あなたの歌は、あなが歌うの、わかった?」
こうして、奇妙な枕元のレッスンが始まった。
わたしは彼の発声法を正し、代わりに彼はわたしのリハビリを手伝った。
彼に歌を教えるうち、1つの夢が芽生えた。
彼と同じ舞台でデュエットすること。
そのための曲「恋は何のために」も作った。
そして、翌年、ついに彼と同じ舞台で歌い、レコードも発売した。

舞台で歌うサラポとピアフ

若い燕を引き連れカムバックした"雀"のニュースは音楽業界を驚かせ、世間を沸かせた。
サラポが言ったように、ピアフの声は錆びついていなかった。若い時のような艶は失ったが、代わりに引き受けた人生の辛酸を感じさせるドスが身に付いていた。
凄みのあるハスキーボイスと変わらないハイトーンを世間はニュー・ピアフとして歓迎した。
それで、満足だった。
もう飛べないと思っていた翼で、最後に飛べた。
思い残すことはなかった。
その頃には、ピアフの身体は癌に侵されていた。
再び舞台で歌う気力と機会を与えてくれたサラポに感謝した。彼はもう、わたしがいなくても歌手としてやっていけるだろう。第一、もう、わたしには彼に教えることがない。
「だったら、これからはただそばにいてください。妻として」
彼からそう言われた時、ついに耳までおかしくなったかと思った。
聞き返したわたしに彼は真面目な顔で同じ言葉を繰り返した。初めて会った時、歌を教えて欲しいと頼んできた時と同じ顔だった。それで、彼が本気なことがわかった。
「あなたは若いわ。こんな先のない女じゃなくて、他の女性(ひと)を探しなさい」
だからわたしも本気で諭した。先生役はなんとか務めたが、20も歳下の男を夫にしたら、世間の笑い者だ。
わたしが笑われるだけならいい。きっと彼も悪意ある憶測でバッシングされる。人気が出てきたところでのスキャンダルは命取りだ。
「ピアフさんは言いました。信じるべきは自分の声で、歌だと。なら、僕は何を言われたって大丈夫です。たとえ貴女と一緒になることで、地に落とされたとしても、再び舞い上がってみせます。貴女がそうであったように」
そう言って、彼は眩しそうにわたしを見た。
「人生はただ生きるだけでしんどい所よ。それをわざわざ、自分から余計しんどくすることはないの」
それでも彼は引き下がらなかった。
半ば、その熱意に押し切られるように、わたしはサラポと結婚した。わたしが46歳、彼は26歳だった。
案の定、わたしは若い男に目が眩んだと笑われ、彼は遺産目当てだとバッシングされた。
わたしに遺せる遺産などないのに。
もう皆、忘れたのかしら。
わたしが元は、路上で歌う野良犬だったこと。
野良の本懐は何も持たず路上でくたばること。残せるのは生き様だけ。
そう呟いたら、ピアフさんのシャンソンはセクシーだと思ってましたが、案外、ハードボイルドなんですねと、サラポに笑われた。
たしかに、言われてみれば、これまで沢山の男の人と恋をして、歌ってきたが、本来のわたしはもっと男勝りなのかもしれない。
「幻滅した?」
そう問うたら、もっと好きになりましたと真面目に返され、苦笑した。
彼との日々は、穏やかだった。
派手なことはなかったが、近所を散歩して、カフェでお茶をした。それだけで充分、幸せだった。

サラポとピアフ

そんな日々の中、嬉しい訪問者があった。
玄関の扉を開けたわたしに、マレーネは何も言わずに抱きついた。良かった、良かった、そう繰り返すマレーネに、わたしもありがとうを繰り返した。誰かに抱きしめられて、嬉しくて泣いたのは初めてだった。

癌が悪化して、寝たきりになっても、ギリギリまで入院は拒んだ。
サラポととりとめのないことを話した。
話すのが辛くなると、彼に何か歌って欲しいと頼んだ。

恋が何になるかって?
私たちに喜びを与えるし目に涙を浮かべさせるのよ…
それは悲しいしまた素晴らしい…

「恋は何のために」

目を閉じると瞼の裏で、午後の日差しがチラチラした。
その光の中から、歌声は響いていた(終)

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