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2002年からの武術エッセイ

水は人の体を浮かべ、からだが動くのを助ける。
足腰に障害があっても、水のなかでは体が浮こうとするので動きやすい。
水はことのほか柔らかく、体の動きをゆるやかに軽やかにする。

力を抜いて浮力に逆らわなければ、水は動きを受け入れ、人の動きをたすける。
しかし、強い力で動こうとするならば、その力は水に抵抗感を与える。
力んで動けば動こうとするほど、速く動こうとからだに力をこめればこめるほど、水はその動きに負荷を与える。

まして、水のなかに飛び込もうとするならば、水は体に衝撃すら与え、高いビルから高速で飛び込むならば、水はそのからだを破壊してしまうだろう。

水は剛に対して剛であり、柔に対して柔である。

武術においても相手が柔らかく攻めてくれば、柔らかく、強く攻めてくれば、その反撃も強くなる。

柔らかければ大きく大きく流し、強ければ一瞬にして破壊する。
このとき、自分のからだの外は柔、中は剛である。
からだの外が静で中が動である。

・・・・・・・・・・・・・かくのごとく「水の理論」はかっこいい。

ん~ん、だけどめんどくさい。
なぜなら、私はそんなに器用な人間ではないからだ。

私の場合は、相手によって、またその力によってからだの内外の剛柔、静動が入れ替わることは無い。
意識によってそれを行えば、体内の力は流れを失い、体は居着いてしまうだろう。

難しいことは考えない。
外が柔らかく、内が強いこと。
外柔内剛でいれば、あとは自分のからだが動いて相手が術中にはまってくれるだけである。

屁理屈をならべる。
理屈をこねまわす。
面倒くさくなって体を動かす。
また屁理屈を考え出す。
いろいろ悩む。
面倒くさくなって体を動かす。

この繰り返しをすなわち「事理一致の修行」という。

2005年4月記す。

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