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2002年からの武術エッセイ

洪水があろうと地震があろうと豪雪があろうと四季は巡ってくる。
世界のどんな場所でも、たとえ雨季と乾季しかないような地域でも、命には四季が巡ってくる。
私という命にも、野に生きる雑草にも、まぎれもなく四季は訪れる。

生まれ、大人になり、年老いて、死んでいく。
芽生え、花を咲かせ、実り、枯れていく。

すべてはいつのまにかのできごとで、川の流れにそって櫓をこぐ熟練した船頭のようにはいかない。

なぜなら、はじめて通る渓流ばかりだから・・・・。

しかし、この世の中に変わらないことがひとつある。

それは、四季は巡るということ。
季節はうつろいゆくということ。
たとえ一日の天気でも、四季を見ることが出来る。
生きとし生けるもののすべてに四季がある。

これを私は「天の定規」と呼ぼう。
どんなに紆余曲折あろうとも、いろいろなバランスをとりながら四季だけは巡る。

武術において、敵の動きも力も意識も千変万化・・・。
予測したときには変化している。
しかし、敵の勢いにも四季あることは確かであり、その勢いを読み、攻防の流れをつかむことはできる。
また、もっとレベルが高い武術家ならば、筋肉や骨格の動きにも四季を見て、先を読み、敵の動きを制することができる。
もっとレベルの高い人ならば、敵の感情の起伏に四季を見て、闘う前に勝つこともできる。

大から小にいたるまで、すべては四季という天の定規にしたがっているのであり、あらゆる分野の達人は、その定規をていねいに操る。

とくに武術においては、その定規を肘に持ち、腹に持ち、首に持ち、正中線に持ち、間合いにも持つ。
精神論や抽象論ではなく、もっと具体的な技術として利用する。

いつでも武術の哲理と精神論は、具体的身体技術と直結している。
また、そうあるべきだと思っている。

2005年5月記す。

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